2025年11月9日日曜日

くらめしゅうちゅう

昨日は家に篭って制作を進めることに時間を費やせる中々珍しい日になった。公園や近くのカフェやランニングには行ったものの全てが制作や仕事に向かっての時間となり、もちろん家の中にいて、それだけではなく片付けや家事を含まし、ぼーっとする時間がどうしてもあり、すごく制作が進んだかといえば全然そうではないのだけど。夕方にカフェに出かけるにせよ、すでに暗くなった街を歩いて辿り着くまで自分の考えようとしていたことに向かっての思考が進んでいるように感じられた。日本に帰ってきてから明るい時間はどうしても通り過ぎてゆく人たちにも気を奪われ、何か息をうまく吸ったり吐いたりするのも、なんだか少しスムーズじゃない感じにつきまとわれている感じ。
昨日はこもっていられたのは暗く、少し昔に近づく感じがあった。昔とは、たとえばこないだ現代美術館で見た松本竣介のスケッチなど、あの時代の作家たちの作品を通して過去にタイムスリップする感じ。自分の作品もどこか見た人にいつか、過去に連れていってくれるような力を持ち得たい。過去とはある種の宇宙のことかもしれない。谷川俊太郎が宇宙に向けて詩を書いたように。そういう期待がある、そういった仕事が出来ないか、そこに向かうための少し暗い時間の中にいれた気がする。
横断歩道で大学生の頃のことも考えてみると、その時もやはりそういう時間があった。朝までバイトしたり朝近くまで練習して帰ってきて、そうすると夕方に起きる。夕方にまた大学へ向かっても、暗くてあんまり周りが見えない、ずっと本を読んだり絵を描いたり踊ったら文章を書いたり考え事をしたり、ふざけていたりしてそれがたまに人にも会いつつ、ずっと自分勝手で疎外された気分も手伝ってやっていることに集中するような時間があった。あの時間はあの時間で進みたいことが進んでいくような幸福があったんだと思う。幸福という言葉は似合わない湿気を含んでじめっとしたものだったにせよ。そういう気分がベルリンに行ってみたい、とかそういう気持ちにも繋がっていたんだと思う。
関係ないけどフランスではずっとジャンピエールレオのようなヌーヴェルヴァーグの雰囲気をずっと探していた。