2025年11月28日金曜日

にんげん、

 明日は朝から撮影だ。石原さんとの撮影は久しぶりだ、もうそれだけでokな気もする。次の展覧会があって、そこにやることが明確にあり明確に進めるということ自体が難しいと感じた。改めて自分の生活の中で今明確なことは何だろう、と書き出したりもしてみた。

。、、制作を進めるべきだったが映画館に行かのはどうか、とそこまでの期待もなくブルーススプリングスティーンの映画を見に行ったらこれが最高だった。あまりこのようにかつてのヒーローを描かれることのない、でもめちゃくちゃ今の時代性も反映した映画になっていた。複雑な愛、というか複雑に愛する、ということについて絵が描かれていたと思う。どのようにかして人は愛することを見つけたりも出来る、ということが描かれていると思った。


あと今日はギャラリーに友達のパパとママに連れられた子がやってきて、楽しくワイワイしていると最後に安心したのかパパに抱っこされると水がひょろひょろと洋服から漏れ出てなんとおもらしをしてしまった。子供も含めみんなで笑って、まさか展覧会でお漏らしする子が出てくる、なんて。そういえば前回の展覧会でおしっこでえをかく、という絵を描いていたり、おしっこの線についての作品はいくつかあったから、そこが繋がった。着替えて戻ってくるとやっぱり元気。“幸せそう"なんてことを言おうとしたが、幸せそうなんて単語はまだその年齢の子にとって存在しなくていい単語かもしれない、と思った。元気、とか、恐怖とか、嫌だ、とか。 元気というのもシンプルだけど複雑に様々な方向に伸びたエネルギーを帯びていると思った。



2025年11月17日月曜日

昭和

 ところでここ最近、昭和の彼らのした仕事が気になった。結局のところ、現在から見えるのは過去と未来しかない、ここから遠いところを見ようとするとその2つしかないのでは、なんてことを思った。だから過去を見つめようとしたり、未来に眺めようとする姿勢は自ずとまるで遠い宇宙とキャッチボールするような感覚を得れるのでは。

たとえば過去の小説なんかを読んでいると、おそらく文字に書かれていない部分も経験から来る想像力が補おうとするのでは?この路地はきっとこういうふうに寂れていて、とか。それはなんというか人間の能力なのでは。何かそこに美しさを築こうとしちゃうとか、だからきっと本を読むことは文字を読むことに終始せず、きっと人間の本来的な何かも動員する、それは他の芸術とかにも言えることかもしれないね、文化とか。そういうことを小学校の横をある日、散歩しながら考えていた。

村上龍と坂本龍一の対談を見ようとYouTubeを探すと出てきて、その時にCMも切らずに一緒にアップされていた。これが泣けてくる。小さかった自分はこれらを小学生?の時にあのリビングルームで見ていたはず。たとえばもしかしたらその日はモフモフの毛布に包まって見ていたかもしれない。それはただのcmで、今見ているのはパソコンのモニターなのだけど、あの日、あのリビングに置かれていたテレビのような気がして、そこから部屋全体やその時に過ごしていた時代の雰囲気だとかも一緒に想像されてぐっと広がってしまう。もう私はそこにはいない。今になってそこが大事な場所だったと思う。楽しかったことは小さい頃の記憶に自分の場合は詰まっているかもしれない。思春期より手前かもしれない。自分で世界を作っていく前の段階。

小さい子が見ている世界はもしかしたら可能性がずっと溢れてそうだ、って思う。

でも一方でそれは大人にだって諦めていけない。そここそが重要で難しい。

2025年11月14日金曜日

あの頃

 あの頃ペニーレインと、を観た。amazonで100円のフェアをやっていて借りてみた。TSUTAYAに通っていた頃はジャケットを見てDVDを借りていた。サブスクで探すのとは全く違って、ジャケットのテキストやヴィジュアルを見ながら選ぶのは、中々に楽しい作業でそうしているうちにどれを選ぶか時間がたっていく。

もうきっと周りは昔のことを振り返れないくらいに先は進んでいるのかもしれないが、今日見た時はずいぶん引っ張られるように見ておいおいと涙が出てきた。2000年あたりの映画だ。たとえば初日に主人公が取材に乗り込んだバンドのコンサートでの1夜。きっと彼にとって"忘れられない"キラキラとした夜になっていたと思う。自分にもそういう夜があった、し、いつもそんな夜を夢見ている時があった。今はどうだろう?何かに憧れていれてるだろうか。たとえばあのベルリンの夜は、新宿の夜はきっと自分にとってそうだった。海外というのも一つそういう存在だった。

それから中々、若い頃の恋というのもほとんどうまくいった試しがなかった。いくつかあぁいったうまくいかなかった恋や人を描いた映画はあって、それを発見するとこれは自分の映画だ、と思って見ていた。そういう気持ちさえも大人になっていくとまた遠のいていくのかもしれない。でも映画を通して再びそういう気持ちに出会う感じがあった。長く生きるということは、また別の出会いが起こると思う。季節にも何度も重ねて出会っていけるのもある。

でももし思春期の恋愛がうまくいっていたらきっとこうはなっていなかったのかもしれない。あの時はそれが全てではないけどそれこそが全てで、全てとそれがきっと関係してあった、それくらいに色んなエネルギーでそのことを思っていた。でも上手くいかなかった。きっとそういう人も多くいると思う。今になっては、きっとそれでうまくいってたとしてもみんな若者で、それでそれぞれに大変で、それぞれに生きていて、きっとわからない、わかってもらない、さえもわからないで生きていたんだと思う。

あの頃ペニーレインと、は過ぎ去った過去の話だとわかるタイトルで素晴らしい。でもきっといつ生きていても物心がつけば、"過ぎ去った過去"を眺めることが出来る。その時はヒリヒリと痛くても、後ろを振り返ってみることの仕草のなんて美しいことよ。そんなことを思って、それでよし、と思いっきり振り返ってみたりする。



それにしても眠れないのだが、隣人はよりによってなんで大体深夜に戦争映画を見るんだろう。やれやれ


2025年11月12日水曜日

よくや

 寝る前に絵を描くと寝れない、こんなだっただろうか?ストラスブールに滞在していた時は眠る前に机の上で絵を描いていてそれでベットにすぐ入って眠れていたのだけど、今は興奮する考えに囚われてしまうのもあふからだろうか、季節や気温の変わり目でもあるので朝もちゃんと起きれなかったりで体調を崩さないように気をつけなければ。それにしても絵を作る時間が展示前なのになかなか上手くいかなくて焦ってしまう。このあとすぐまた別の展示の準備とキュレーションに追われていて、ドキドキしている。非常に日本に帰って来てこの自律神経がやられるようなイライラしたバランスが、誰かに追われるような感じがして、すごく良くない。それでも作りたい自分の時間は作ろうとしたりするからなおさら時間がないのかもしれない。でも全てを許すような感じで良いのだ、とどこか思っている気持ちが部分的にやってきて慰めてくれる。それが大事だと思う。全てはどうであれ大丈夫であるようになっている。全部を許せるだろうか、という感じの。 よくやっていると思う。

2025年11月9日日曜日

くらめしゅうちゅう

昨日は家に篭って制作を進めることに時間を費やせる中々珍しい日になった。公園や近くのカフェやランニングには行ったものの全てが制作や仕事に向かっての時間となり、もちろん家の中にいて、それだけではなく片付けや家事を含まし、ぼーっとする時間がどうしてもあり、すごく制作が進んだかといえば全然そうではないのだけど。夕方にカフェに出かけるにせよ、すでに暗くなった街を歩いて辿り着くまで自分の考えようとしていたことに向かっての思考が進んでいるように感じられた。日本に帰ってきてから明るい時間はどうしても通り過ぎてゆく人たちにも気を奪われ、何か息をうまく吸ったり吐いたりするのも、なんだか少しスムーズじゃない感じにつきまとわれている感じ。
昨日はこもっていられたのは暗く、少し昔に近づく感じがあった。昔とは、たとえばこないだ現代美術館で見た松本竣介のスケッチなど、あの時代の作家たちの作品を通して過去にタイムスリップする感じ。自分の作品もどこか見た人にいつか、過去に連れていってくれるような力を持ち得たい。過去とはある種の宇宙のことかもしれない。谷川俊太郎が宇宙に向けて詩を書いたように。そういう期待がある、そういった仕事が出来ないか、そこに向かうための少し暗い時間の中にいれた気がする。
横断歩道で大学生の頃のことも考えてみると、その時もやはりそういう時間があった。朝までバイトしたり朝近くまで練習して帰ってきて、そうすると夕方に起きる。夕方にまた大学へ向かっても、暗くてあんまり周りが見えない、ずっと本を読んだり絵を描いたり踊ったら文章を書いたり考え事をしたり、ふざけていたりしてそれがたまに人にも会いつつ、ずっと自分勝手で疎外された気分も手伝ってやっていることに集中するような時間があった。あの時間はあの時間で進みたいことが進んでいくような幸福があったんだと思う。幸福という言葉は似合わない湿気を含んでじめっとしたものだったにせよ。そういう気分がベルリンに行ってみたい、とかそういう気持ちにも繋がっていたんだと思う。
関係ないけどフランスではずっとジャンピエールレオのようなヌーヴェルヴァーグの雰囲気をずっと探していた。