2022年12月28日水曜日

上向き

眠れない。昨日は2回寝たからか。朝が早かったのでしかもそれで寝付けなかったので風邪を心配して帰って長めに眠った。身体が布団の中で火照り過ぎると、外に体を出して冷やすときゅーっと血行が変わるように感じるのは冬ならではと。

眠れずに目をあけると、外交がカーテン越しに部屋に漏れてぼんやり薄く広がる色は青。北野ブルーとか言われる武映画の青のことをぼんやり思い出す。

眠れない今日だけども、今日はいいことがあった。
それは考え方をいい方向に持ち直せたということ。自分にとっては考え方がいい方向に持ち直せたりその手応えさえあれば幸せ、というか生きていることを実感できる。これは人によることなのだろうか? そう、そういう持ち直した考え方に久々に至ろうとさしかかっていてこれが続けばうまく来年に入っていけそうだ。そこからのうまくいく、いかない、がいよいよ現実的な困難ではあるのだけど。
さっきこんなことを思った。
海外の音楽や映画や本は自分にとってコミュニティを介さず外側と接続し想像を広げることの出来るチャンスだと思った。これとダンスというのはもう展開してしまえばコミュニティが発生するメディアのようにも考えられて、絶妙なバランスの中でスパークすること。それがうまくいくと良かった気がする。最近は本や音楽、映画とまた付き合う時間が増え、英語が入ってくる感じがある。これがまた健康にいいというかエンジンになる。 そういえば今年はやっぱりうまく外のことを想像することが難しかった。戦争だってずっと起きていたりするのに。身の周りのいろんな意味での困窮に振り回されてしまっていたんじゃないか。それで目標の低い想像力しか持てなくなって。この際というか、いつだって実力の有無とは関係なしに目標の低い想像力よりは自身を楽しませてくれる想像力が出現した方がいいに決まっている。
こう書く間にも気持ちが上がっていくのだから、書くことは必ずしも過去の描写や未来のイメージに限らない。現在系のパフォーマンスだ。

さてうまく寝れるだろうか。

2022年12月22日木曜日

もういっかい、

 最近ほんの少しずつだけど世界の広がりをほんの少しだけどまた再び見る時間が出来てる気がする。それはうれしいことだよ。ひっそりとうれしがってる、かみしめてる。今日も久しぶりにibisくんの会いに踊ってるというので行ったら随分訪れていなかった空間が広がっていた。生きていた。僕は僕で生きていた。だから再会して嬉しかった。こういう時に生きてて良かった、と言うのかな?実際に随分久しぶりに会ったダンサーの人にそう言っていた。生きてて良かった、って。

2022年12月16日金曜日

他人の光を受ける

 先日、歌舞伎町の展示を見た際に友人の友人であるアーティストに出会し互いを英語で少し話した。その時に久しぶりに英語を話す自分にも再会し嬉しかった。

コロナになってこれが恒常化してからというもの諦められるコミュニケーションそのものやコミュニケーションインフラがたくさん起きている気もする。

知らない場所や人と出会い、自分のことをプレゼンテーションすることもあれぼ別に通じる話題を話すこともあったり。そうすることで違う部分に光があたったり。自分が観客として組み替えられていく。

同じ人やコミュニティと話していると自分が固定化されていくような。でもその中での複雑性も多分にあるのだけど。

なんとなく様々な別の光に照らされるような状態を欲してはいるんだ。

今日も設営中の美術チームに出会して中々ぽつぽつと話すのが面白かった。

2022年12月14日水曜日

いきなり

 いつの間にか気付いたら詰んでいるみたいな感じ。

思ったより自分は出来ていなかったり、思ったよりも頭が良くなかったりするという感じを痛感。落ち着いて少しずつ。現実的にしっかりやること。やってなかったことをやるしかない。 身に起きていることをあたかも起きてないフリをして歩いてしまっているんだ。あぁもう。

2022年11月30日水曜日

幸福の不眠

 久しぶりに"幸福の不眠"と呼んでいいのかもしれない。眠れないけどいいアイディアが浮かんだので、幸福と呼べるんじゃないかと思って。

膝肩立つ身、ってジョークが浮かんだ。

ゴダールのことを考えた。彼は人をいたずらにさせる、人は多くの映画を観てそしたらすごい映画を撮ろうとか思うだろう、しかしゴダールを観たらどうだろう?どこからでも始められると思うんじゃないだろうか。そういう人が映画の中にはいれたということがまま笑っちゃうくらい楽しい。

外はさっきまで雨が降っていてパリも雨だったかもしれない。

本当は最近はおかしなことが少なくなってしまったと感じていた。弱々しい線がひかれたりしなくて、みんなふざけ方を忘れてしまったみたいにしていて。それでも雨は降り、遠くのパリのことを近く感じることが出来る。映画を観たことがあるから、それでまた思い出せる。実際に今行ったら違う場所になってしまっているだろうか?辛い現実が目に入るだろうか?でもどこまでも頭の中の記憶は楽しいところや受け入れてくれるような想像を持つこと、期待を持つこと、それだけで少し天気が、雨でも構わないけど、良いと思えることが素晴らしい。体の循環でそれをしているとも言えるんだから。 さて、幸福な不眠といったところでそろそろ寝よう、寝てください体と思うんだった。

2022年11月26日土曜日

こないだ

 ライブを都会の真ん中で聴いた。友達が作ったピザ屋の駐輪場に自転車を止めれた。都会というのにラッキー。ライブが終わって外に出ても9時過ぎでたくさんの人が表参道の金曜の夜をキラキラと楽しんでいる様子。本当ならなんか一杯やったら楽しいコースだろうな、なんて思いつつ1人で出て来たし帰って昨日のご飯の残りもあるから自転車に跨って来た道を帰る。少しだけ都心を潜り抜ける夜を感じれて楽しい。自分よりも大きなものが動いているということも1つ安心感というかあって。そういえばコロナ真っ只中では自分より大きいものというのを見つけることが困難で、圧倒的に大きいけど姿が見えないものが状況を覆っていた感じかな?

急な坂に向けて日記を書いていくと、色んなことが紐付けされていく。そうか、自分は休まないタイプで全部が繋がってやっと何かになる、とか楽しくなるタイプをずっと続けて来た気がする。オンとオフがあるわけではなく。人との距離感もある一定のというのがあって、それは悪いことかなぁなんて思ったりもしたけど、たぶんそれも人それぞれなのではないか、と思い直したりもしている。

紐付けの話だけど、今日は帰ってからランニングしようかなと思ったけどしなかった。帰る途中に寄ったスタバでは近所の友人にまた出会した。こういうタイミングである。 そういえば昨日行った展覧会で英語を話す機会があって、英語を話す自分が嫌いじゃないと思った。というか英語を話すことで回復される側面があった。言葉を話すとか綴るとかも身体を動かすと同じようにまず書いたり言うことで付いてくる自分というのがあって、最近はそれの偏りがある気がしていて回復したいと思っているんだよな、少しずつだ。

昨日、また新しい人たちとクリエーションを開始した。そこでも人の話を聞いていくというのはやっぱり自然にそうなるわけじゃなくて、色んな形を試しながら変えていったら想像することで追いつけるところがあって、みんながそれぞれに凸凹していることが面白かった。山登りみたいな面白さ。

山といえばこないだ。

2022年11月19日土曜日

都市の空気

夜帰ってご飯を食べてると急にアイスが食べたくなって買いに行った。ちょうどえんまいちゃんと金川さんがスペースで話しているのを聞いていて、そのiPhoneを持って買い物に。スカートを履くという話、なんかいいなと思ってた。似合ってるというか、2人の話も良かった。途中まで聞いた。 今日はイレギュラーな仕事が入りドタバタしていて気が気でなかったけど、ストリートでもしないと落ち着かないと思ってやった。きっとストリートを始めてなかったらもっと堅実なアイディアや稽古や制作の時間にあてていたかもしれない、流れるように過ぎていくようにほんとに人の行き来と交流があるだけだ。でもやってなかったからといってちゃんと有意義な時間を作れていたかはあやしいよ。 でもなんか都市の中にいて空気を吸って少し怪訝な顔をされながらも踊り交わしたり、車やビルや夜空に目を向けるのは気持ちがいいんだ。

ドタバタかと思った1日だったけど吸いたい空気が吸えたりしたと思うし、自分のペースで街や景色に触っている感じもあった。ただ、ちょっと自分のダメな面を感じるところもあって、起きて、自分の限界とハリボテが見えた。難しい、子供と同じだ、子供にあんなに注意したのに、

2022年11月15日火曜日

人と

 三日間くらい寝付きが悪くて心底、身体や精神が変わりつつあるんだなぁということを思いながら朝を迎えていた。 今日は搬入があって浅草の方まで、実家で作品をまず取りに行ってから電車で向かった。そこからはバスも徒歩もそんなに変わらなかったので徒歩を選んだ。道のりがまっすぐだったので雨が降っていても頑張って直線を通し切るような形だった。 文学界を2ヶ月連続で買ってそこに載ってる小説を読む。するとこんなにも当たり前ながら文体が似ていたり、そこでの文体がどのように景色を扱っていくのかをある種の傾向のように感じとってしまった。けど一体どうだろう?もう少し読んで確認した方が良いかもしれない。

搬入の帰り道に思い出深い浅草の公園で少し身体を動かしてから渋谷に向かうことにした。色んな人が行き交っていて自分は誰でもない感じがした。ひとりでいることが長いと自分は誰でもないと感じられる時間が多かった気がする。人と一緒にいるとその人との信頼関係がずっとあってささやかな事でさえその関係に影響を及ぼしてしまったりとか、及ぼしてしまうんじゃないかということを慣れないとすごく感じ続ける。だからと言って自分を続けるためにしないわけにはいかなかったり。一方で一緒にいるという関係は単位そのものを変えてしまうことだってあるのかもしれない。

電車の中で外国風の女性がベビーカーと赤ちゃんを胸のリュックに抱えて乗り込んできてここを代ろうかと尋ねると大丈夫です、と遠慮された。結局彼女たちは次の駅くらいで降りたのだけど、なんか関係は断られたからと言ってすぐに閉じるわけではなく電車を降りて見えなくなるか、時間が経つか過ぎるかまではそこに生じ続ける気がした。ということはつまり声をかけるとかそういうのは関係を作るとか、その後の時間にも響いてくる、ということがもしかして言えるんじゃないかという兆しを感じた。 そのことと人と誰かと長くいるということとかもきっと関係がしてきそうだと思いつつある。 

2022年11月8日火曜日

イメージ

 こないだは本番が2日連続で違うのであって最初の日それなりに疲れたので寝れるかと思ったら中々寝付けず次の日は眠いところから出発ということがあった。以前ならそんなことはなかったのに。やっぱり眠れない日が来るというのはなんとなく最近のデフォルトになりつつある。ベットの問題もあるかもしれないが、違うとこで寝ても寝れないこともあるので。

明日は久しぶりに海に向かおうと思う。足を使って、足で行くぞということとイメージを持って出発する。このことは数年前から続いている行事だ。僕にはそういう風にした尺度がいくつかあってこの事と創作することは重要な関係を持っていると思う。この線の引き方が僕の絵の重要な線になっていると思う。

そうだ。自分の文学をやること。自分の身体や持っている機材、テクノロジーと付き合って文学を続け描き出すこと。これがあってやっと人と話せるんだ。

こっから僕は話したい。人それぞればらばらだ。

ということでどうか身体よ、寝てくれ!

2022年10月30日日曜日

今日はでも少し嬉しい、眠る前に少し嬉しいので、それでなんか小さな絵文字くらいの月がぷっとどこかの夜空にたぶん浮かんで、そんなことが頭の中で事象として起きたから。 その起きたことが自分はもっと美しいものを作れるということをふいに思い出させてくれてそのことがまた嬉しい。たぶん人生はもう少しきっと続いていくからそれが出来るよ大丈夫よ、と息を吹きかけられるような元気が起きた。

一方で僕はダンスが好きではないかもということをよく考える。これは考えてみればずっとそれについて考えていないことはないのに、そういうことを思う。お世話になった人に対してもどこが良くなかったとか考えるとこもあるようだ。数人の好きだったダンサー達はほとんどはもう踊っていない。けど好きだったのもある一面をある側から見たということで、逆に言えば嫌だとか思いつつも別の視点から見る事を普段から使っているのだから勝手が悪い。うまく整理がずっとつかない。

だから"ダンス"じゃなく何かとダンスの間へ逃げ込む。

2022年10月29日土曜日

身体が集合場所

気付くと絵を描く時間が消えている。

あれ、12〜2時くらいの間に描くつもりで帰って来たのに。ランニングにも行ってない。でもリズムトレーニングは出来た。少しずつ取り戻して行くんだ。身体がその色んなものの集合場所になるみたいなイメージで。

2022年10月22日土曜日

よぎる

 今日は公演初日。終わって少しだけビールを飲んだ。静かに。東京タワーを眺めながら、赤く染まっていっていつもはどこかから見えているのが今日は近くで。それだけでもこの時間をくれただけでも感謝が大きい。

帰り道、中目黒の駅のホームでぼんやりと向こう側の車の下の車線を見ていると、赤い光は向こうへ白い光はこっち側へと流れてくる、そのことがさっき見上げたタワーとつながって感じられた。

早く寝なきゃなのにこういう日に限って少し書き残したいことが出てくる。むしろこういう夜眠る前に書くのはmixiとかだったら後悔しがちな文章を書きがちだった。でもそうは思わないところもあって、何かを狭めたりするのかもしれないけど、そう思ったとか、そう書かせたこと自体のことだって同じように存在するから。と。

こないだ久しぶりに会った友達にこないだの公演を見ていたと告げて感想を聞かれたので率直に伝えるとすっといなくなってしまった。難しい。

頑張る、ということはそれぞれにやっていて目の前のことに取り組んでいる時の必死さは平等にあるのか?だって自分の身にだって今日の取り組みについては出来るところでやったんだ、という感じがあって。以前なら必死に取り組もうが微妙だったら違うなら違うということで良いと思っていたけど、果たしてそれの頑張りの部分だけをニアイコールみたいにしていける可能性っていうのもありえるのかとか逆にそんなことが頭をよぎったりした。

2022年10月16日日曜日

 でも言葉、自分であてる言葉をあてるよりも早く、あるいは複雑に色んな気持ちや考えや形がずっと変化してしまって捉えることが難しくて、ただただその動きを前に翻弄され、気持ちが乱れ揺さぶられ揺れ動き続けているだけの状態が続くということが人といるということでもあって、きっと。何も気にしなかったらどんなにいいだろう、いやそうだろうか、気にすることがあるということがどんなに人であるということであろうか、とも。

もちろん言葉が人を残すのでなく、態度が人を残す、いや、言葉は嘘も残すかもしれない、態度だって強い嘘を作っているかもしれない、それでも。

2022年10月13日木曜日

日記

 遠くに行くことが難しくなったように、遠くを指すことは本当に遠くになってしまうというか。だけどたとえば今ではない昔のこと、自分にとっての昔のこと、昔のあの時のあのスペースにいたことをほんのり思い出すこと、思い出しそこに集中を向けることを通してその遠くに少し近付くことが出来るような気が今これを書いていてしていて。それなら良かったと思って好きな曲の歌詞を思い出している、ギターがポロポロとならされるあの曲だ。


今日見た作品の中で日記についてが描かれていたけど、日記はそのままで何か別の形にしたって作品にしたってもありなんだけどそのままで見たりそれを受け取ることも出来る。ゴミとかだってそうだ。提示の仕方はそれに含まれるけど。日記は日記のままで十分に人の間で機能するよ、と僕は思った。

2022年10月7日金曜日

秋よ

 久しぶりに絵というか、ビジュアルアートの仕事、、といってもチャリティーなので。に、出展するということで納品をしてきた。これはたぶん売れるはず、一点ものだけど、、という感じと納品先の人と少し会話ん交わせたことが嬉しかった。

午前の新橋や銀座で、雨が降っていて秋の少し寒さがあって、再び秋を風の中で感じれることが嬉しかった。

途中、自分のクソっぷりに気付いて本当にだめだめだった。

秋はずっといつもさみしいのを今年もそういう気持ちに振り回されるのかもな。

2022年10月3日月曜日

別の話にしないように

 最近は全然海に向かって歩いたりしてなくて。

最近はでも再び短くなったランニングコースで空を見上げる時間が少しずつ戻ってきた。前は川沿いをずっと走っていたからとにかく空や月を見ていた。海を見に行ったり、月を見たり、様々な風に吹かれていればそれでずっと過ぎていくんでもどこかいいと思っていた時があって、それは今も変わらず一側面としてある気がする。

最近はゴミを夜中に捨てに少しだけ外に出る時間が好きでこの時間のために毎日があるくらいに、涼しい風が吹く。

今日見たブラッドピットの新作は普通の映画だったけど楽しかったんだ、良かったよ。普通だなぁとかは顔のアップでたくさんセリフが喋られてどうしたって相変わらずその方法はとられるんだよなぁとかぶつくさ言いながらもなんかちょくちょく面白さとくだらなさがあって、ずっと日本は勘違いして描かれることとか含め、それでもなんか映画見たって感じがある。

久しぶりの友人たちが様々な形で近況や近況未満のことを伝えに来るようにして流れ込む水のような時を感じて、少し嬉しくて、それで悩みは消えたりしないけど、少しだけ出会い直す、少しだけ出会い直すことがあることがあってうれしい。

お祭りが終わって疲れて帰るんだけどもうよく働いたとも思っていて、でも他の仕事進めなきゃがあって。それはそれでいい。あんまり仕事は捗らなかったけど、コロナ前とかだったらこのお祭りがまた起こるには、とか、少しだけでも幸福というか面白いがそこに起きたのならばどうのようにして、もうすぐ次の段階において、それを維持したら発展させるために自分に何が出来るのか、そのことを考えることしかないくらいだった気持ちを少し思い出した。そういう気持ちがあるならなんかいつまでも面白がれそう、そのことも含めて、思い出した。出来るかはまた別の話だけどさ、

2022年9月20日火曜日

インチキ少年

 うへぇ、やはり眠れない。おかしいな。少しずつ早く寝ることをしてみるのだけど。夜家に帰ってくる時はいつもへとへとなのに、いざ布団に入ると眠れない。出先では寝れていたのでこの布団が寝させないんだろうか。こないだ少しだけ地下で寝た時は寝れたのでもう一度試そうかな。

台風の予兆というか端っこの部分というか吹いていて街の金網とかにあたっている音が聞こえてくる。心地いい。

king of summerという映画を見た。15歳の友情を描いている。最後の後味は武映画みたいで結構その感性に驚いた。こういうの向こうの人も持ち合わせていたのかと。あの頃の友情。人生の中で最も美しいものの一つな気がしている。成長していくとすっと落としてしまい、そのまま透明な手みたいに二度とすくいとることが出来ない、水の中にあって水面の上からその透明を見ること、思い出すことしか出来ない細胞のように。

武の映画のいくつかは、その細胞についても描いている気がする。そこを生きていたんだよね、っていうこと。きっともちろん今やその作品を撮った武にとってだってもう二度と行くことの出来ない世界。だから小さい頃のことが大事なんだ。うっかりすると忘れそうだ、大人として生きている時間を大事にしてしまうけど子供であったことが大事なんじゃないだろうか。じゃあ何か壁にぶちあたったときにやはり本当は子供としてそれに接すればもしかしたらいい答えが出るかもしれない、いい答えが返ってくるかはわからないにせよ、率直ではいれるかもしれない。

踊りについて考える。誘われるような踊りとはなんだっけ?大学の頃のあの友人の踊りは良かったけど、もう踊ってないだろうな。彼がイタリアの道で一緒に歩きながら踊り続けているの一緒に歩いていて凄く恥ずかしかったな。このアジア人、変だなっていう顔して周りの人が見てきて。彼だって恥ずかしいのが顔に出ているのに、それでも踊らずにはいられないで踊っている人だった。不思議な人だった。不思議な人は段々といなくなっていくんだろうか。忘れられない。なぜ自分がまだここにいるかむしろ不思議だよ。ずっとインチキをしているみたい。

2022年9月17日土曜日

眠れない

 本当に困ったなぁ。眠れない。昨日も眠れなくて1日眠いで過ごして、でも電車の中とかは眠れるのに、夜布団のなかで眠ることが難しい。隣の家は今日はうるさい。たまにしかないのだからしょうがない、僕もギターとか弾くし歌うし、とぐっと堪える。

何か最近、色々うまくいかない気ばかりしている。明日も朝からワークショップなのに、これだ、を決め切れないで朝を迎える。難しいな。何か、生きることが難しい。弱音を吐くレベルがかなり低いかもしれない。けど、なんか最近は難しい。 新しい発見がそれなりに特別にあるのに、一方で。

コロナのせいかな?日本全体でそういう感じなのかな?若い女性の自殺率が増えたというのを耳にした。そんなことを軽率に並べるものではないのだけど。

誰かや何かや場所なんかを見つけて生きる希望にするのが難しい、と思う時間が長く存在してしまうとよくない。

楽しい時間を思い出そう、明確にあのとき、夜の街を歩いているだけで素晴らしかった時間。完璧だった時間。

理想とかは置いて、目の前の手触りの実感の変化だけを追うように見ていけばそこで遊んでいけばもしかしたら植物や虫の時間を見ているように実際的で面白くあるのかもしれない。

どうかな。

とにかく眠りたいよ


2022年9月15日木曜日

色彩

 私たちが描かれた太陽や空や森や土であったらいいのに。話さなくとも絵具が混じり合うように時に色が重なって少しずつ移行しているような関係でいれたり。違うバランスでいれたり。描かれたものの色彩のようであったらいいのに。色彩だけで関係が変わり続けるということであれたらいいのに。言葉を喋ろうがそのようでいれることもありうるのかもしれないね、でも言葉があるからそうはさせない。そのディティールの凸凹に悩まされる。うまくはまったり、はまったままうまくたゆとうたりしづらくて、諦めてしまいそう。色彩であったらいいのに。

2022年9月4日日曜日

身体を書き換える

 困った。昨日は早起きで睡眠も短く、1日を乗り切ったのになんと今夜眠れない。自律神経?というやつなんだろうか。 小さな子供が生まれた時の親はずいぶん睡眠がとれずに悩まされるというから、それとは全く比べものにならないだろうけど、やれやれだ。

最近、少しずつ舞台で試したいことが増えてきて、そうだ、と思ったのは、自分のやりたかったことや思考の立て方で。特に自分はダンスこそをなんとかしてやりたいとかそういうわけではなく、全選択肢があるうちに出来ればその中から何かを選びとってやりたかったはずで。それでまだ手をつけていない思考の組み立て方が起きたりするとその回路がその人の中で新たな、あるいはまた気付けるものとして身体の中で機能し出すようなことに興味があった。

意外にコロナになってからか、そういった回路を考えるのは全選択肢が選べる状態こそを作るか、それが難しければ(コロナだとこっちの方にどうしてもなっている状態であるのが常だろう)やっぱりその時の部品でなんとか別の伝達を考えるということを最初は試そうとしていたのに、もうそういうことはやめてしまう。

こうなれば新しい都市が作れないように、新しい身体も作れないのではないか。最近、舞台や何かを見る寂しさというのは身体が更新されないという感じが強くするからなのかもしれない。そうするとどうすればいいかというと、一つの見る作品に頼るのではなく自分の生活をかけて見ていることたちを編集し、そこに自分を組み替えてくれるような体験を逆用意することで自身を更新していくようなことだと思った。今はこっちの方が圧倒的にいいかもしれない。だから坂口恭平さんの本を読んだ時に面白かったとか、今買ってる複数の本を同時にたくさん読みたいということこそが身体を書き変えてくれるんじゃないか、という期待に辿り着く。僕は早くまだタイマーの終わり切ってないこの冷房の元眠りたい。

2022年9月3日土曜日

秋の涼しい海の

 すごい静かな涼しい風ー が窓際に顔を寄せるとあたってきて秋をとても感じて幸せ。 このことばをうまく言葉に残せた時にも幸せを感じる。何かを作る時の幸せ。 この幸せはでも誰かとの幸せというより1人での幸せかもしれない。 1人で作る、構築の幸せ、道具を転がしてる際に訪れる発見。 このことが大事なんじゃないかと薄々感じていたけど、そういうことを確か坂口さんも書いていたのでなかったっけ? 何かを作る中で展開される自分の考えや言葉だとかそういった形の変形を楽しむというのがもともと備わっているというか。

涼しいけど朝までこれ続くのかな?やっぱりエアコンをつけて寝そうだよ。明日はいろんなところにバタバタ移動する。 でも本当は今日思ったのは、色々人工的な作ったものを観に行ったけど今僕が思うのは考えているのは考えたい、きゅん!って思ったのはボケに近いようなこと。いや、というか海に行きたいと思った。あの実家から23km歩いたところにある海に。23km歩くということとかこそが僕が再び何度も通りたい道。忘れちゃいけないよ、ボケ担当じゃないか、と。こればっかりは私の持ち物。誰かとのじゃなくて。私の持ち物。

すると海の波の音がなんかこの秋の涼しさに混じって聞こえてきそう。


2022年8月23日火曜日

たどり着くまで

 京都に向かっている。久しぶりの夜行バス。何しに行くんだっけ?友達に会いに?何かをしに?練習がしたいと身体が言う。でもきっと涼みに行きたい。

京都には色んな思い出がある。でも住んだことはない。色んな瞬間があった、時代とともに。 若い時の記憶。 

しかしどうだろう、また夜行バスだなんて。少し高いお金を払ってらくらくシートへ乗るにせよ。でもヨーロッパとかでは全然こういうの普通。日本だと急に年齢を重ねると体裁の方を大事にする傾向がある。貧乏な国なのに。しかも対日本の人に対していじっぱりだ。

これもいじっぱりかな?パーキングエリアにはたくさんの車。高城剛に感化されるところもあって自分は都会しか住まないから車はいらないと思っていた。でも車のスピード、車で行ける道や街、そういったものが見たくなってきている。歳を重ね、日本語への興味みたいな感じで。きっと海外とは違う情報をなぞることが出来る車での道の手触り。人を乗せてどこかへ行くのもきった素晴らしいだろう。

向こうに見える車は空っぽの車内で運転手がトイレに行ったのを待っている。自分のことを待っている車はまだない。経済がもう少し豊かになったら車に乗れるかな、心の優先順位を変えれば車に乗れるかな。

夜行バス、真っ暗な車内を駆け巡る光の線はもうほとんど忍び込んで来なくなった。いよいよ暗い道路へ入ったのだろうか。夜行バスはずっと暗闇の中をこっそり進むんだよね、車内の人たちは小さな子供のように寝かされてさ。こっそりと忍び運ぶんだよ人々を。だから若い時はこのままどこか夜空や銀河まで運んでくれないか、と想像したものだ。それかカーテンをめくり上げて過ぎゆく夜景にその夜空や知らない暗闇へのイメージを重ねてさ。

うまく寝れるといいな。

2022年8月18日木曜日

瞬間的に動けなくなること

 本人はジョークのつもりかもしれないけど、その言葉の連なりで身体が本当にがんじがらめに動けなくなってしまうということがあるんだな。そこではダンスさえも難しい、取り繕ったり瞬時には出来ない。だからダンスが出来る時間は幸福なのかもしれない。

2022年8月16日火曜日

眠れない

 夏の夜が眠るのが難しい。こんなに難しかったっけ?小さな子どもは自分から寝付けないというのを聞いたことがある。寝る筋道を親が立ててそれで寝れるという。 疲れているのに前の日に寝れなかったので次の日はぐっすり、ということも少なくなってきている気がする。 

年齢のせいなのだろうか。 寝れないのは悲しい。 

少なくとも毎日うまく寝れるならこんな気持ちにももう少しはならないのか、あるいはこんな気持ちだから寝れないのか。

たくさん動いていないのが原因かな?十分じゃないのかも。なぜかまとまった練習も出来ていなければ制作もできていない気がする。ちょびっとずつ全体的に、だ。そう考えると全くうまく行ってない。やれやれ、だ。

一方で昼過ぎや夕方には結構もう疲れているのに、昼寝が必要なくらい。まったく難しい体になってきた。

2022年8月7日日曜日

美しい

容易に見つけたりはしてこなかった美しさがあって、見つけたら手放したくなかったり、誰かとも共有したいとは思わなくて、見つけたままにしたいと思ってもそれは叶わない。

2022年7月3日日曜日

夏が来る

 好きな友達に久しぶりに会った。好きなのにずいぶん会っていなかった。辛そうな時にそばにいるでもない。人でなしだ。それでも好きな友人に会って、その人がいるということが嬉しかった。そういえば数年前に何人かの友達を誘って海に行った。友達と何かするのに昔はアイディアをよく働かせたものだけど、今はそういうのを仕事ばかりに使ってしまっているのかもしれない。

今、友達と会う理由は少し変わってきている、あるいは友達と会ってする内容が変わっているだけか。

その時はそこにその人たちといるというだけで嬉しかった。その日があるだけで、それだけで嬉しい、100点。

今日はそういう意味で嬉しかった。

この気持ちだけあれば死んでもいいくらい、死なないけど。

夏がやってくる。反省もなくずっと昔のままでそれを新鮮な驚きを持って迎えようじゃないか。波を毎年待つサーファーのように。

2022年6月27日月曜日

朝の公園や、

 最近はとても暑くなってきて一気に夏を思い出していく。街にも人が溢れているからそれが一層思い出しに拍車をかける。 

公園で練習するのが楽しい。2時間くらい歌とダンス。これを夏の日課にしていけたらと思う。

自転車でゲーテインスティテュートへ。自転車でいけるなんて快適だ。たくさんの人が来ていてダンスの人やアートの人、間の人、パフォーマンスの人、様々な人。演劇の人は少なかった。

60年台からの日本の前衛の話がまとまってされていて、それと現代の接続の話になったけども表現のことだけ扱うと話せても、状況の変化の話も同時にしないと現代で応用するには難しいところもあると思う。かつてそのアクションが時代に対して有効に働いたかどうかは問題ではないのか、現在、何かアクションで時代に働きかけてそれが有効かどうかは検証されないのか、など聞きながら考えていた。

途中、色んな人と喋ったり出来たり出来なかったり懐かしい感じがあった。だけど、僕が変なだけかもしれないな。 もう30の中盤だというのに折り合いがつかない部分もある。そういう知り合いのアーティストたちはやっぱり社会的には成功してない人のが圧倒的に多いイメージだ。

でも今日の朝、公園で体を動かすのはとても気持ちよかった。



2022年6月24日金曜日

もうすぐ

 今日は夕方から自転車で近くのギャラリーへ行ってツタヤに寄ってそして劇場へ到着してトークをすまして帰り道スーパーに寄った。業務用スーパーで久しぶりに小松菜などを買った。そして店の外に止めていた自転車に跨って中目黒に沿った道路で夏の暑さがもうすぐそこまで来ていることと一緒に寂しさも含めて感じて頭の中をフジファブリックが流れていた。寂しい、から何か探しにいくようなあの眩しい姿勢のことを思い出した。

2022年6月11日土曜日

うまくいくかな

 最近は眠れない日が続いている。あるいはへんな時間に起きてしまう。 今日はうまく眠れるといいな。 明日は午前中から取り組まないといけない書類がある。でも今回もうまくいかなそうだ。やれやれだ。


2022年6月7日火曜日

鮮やかな、事

 雨が降っていてスタバでアイディア出しをしていた。今日は結構調子良くて、めどなんか立ってないけど前から考えていたミュージカルではなくライブでもない音楽と都市を題材にしたアイディアをスケッチ含め走り書きさせた。そうそう、好き勝手やらせてよ、なぜみんな同じようなものを作るのか。もっと色々なものを見て別の形式を探すべきだと思った。改めてそういうことが思えたのも久しぶりでよかった。

整骨院で少し肩を調整してもらい自宅へ。

早めの夕食を作るべく準備にとりかかる。ふとフジファブリックを流してみる。なんか一回聞きながらこないだのwsでなぜ、普通に音楽をかけて踊るをしなかったのか、と思い始めた。なぜ最も自分が最初に出会ったことを紹介せずにダンスの抽象性とか、ダンスはこんなことも出来るよ、とかそういうのは二の次だろ。今ここにいるということ。気持ちの高揚や、音楽と関係を作ること、なぜそういうことを小さい受講者たちと共有する選択を忘れていたことが悔しくて泣けてきた。遠くまで行ってもう2度と会えるかわからない人と会うというのにあまりにぼんやりしていた。なんというか大人側になっていた。 こないだのプレゼンだって大人向けのトークのために青春を低く見積もって話した。僕は馬鹿だ。 大人との仕事のために動くな、若い人の鮮やかな時間を少しでも作る手立てとしてとにかく接する、率直に向かう術の方を忘れていてはどうしようもない。世間や世界に笑われることを恐がってる人たちに、笑われてもいいじゃないかと、笑笑に行くようなことでいいじゃないか、丸腰で。何かを履き違えてる。そこではもうダンスだってどうでもいいじゃないか、生きていることの方がよっぽど大事だ。子供に向き合えるように生きていれてるだろうか、今日描いた絵は少し良くなっていた。子供に戻るために絵を描いていたんだ。絵を売って仕事にしていくために、よりも前にさ。 人に笑われたり、置いてけぼりにされることを恐れるなよ、子供でいようとすることを恥じるなよ。あの時の事たちに失礼な気がする、人じゃなくて事が自分にとっては大事なんだ。きっと。

ほんの少しだけ、戻ったかもしれない。明日も明後日も思い出せ、そして今を生きろ、

2022年5月26日木曜日

眠るのかどうか

 飲み会!して昔の友達に会う喜び。そこに少し前からの友達もいる喜び。新しい人と話す楽しみ。3つ近いテーブルで交わされる営み。人が集まってできる事は少なくてもずっとそれも続けていける。

少し酔いの回った電車で帰る時間も楽しい。音楽を聴いて膝を叩いて周りの人の迷惑を気にしつつ、でも夜なんて誰も他人の振る舞いに気を配ったりをしない。ある行為をのぞいて。

夜布団をひく、前に外にゴミを出す涼しい時間が幸福だ。私には生活があると思わせてくれる。

夜改めて布団に入る。夜のワクワク、何かこの想像力はたぶん眠ってしまうとなくなってしまう。朝になると別のものになってしまう。別の何かに新しく出会う。しばしのお別れ。それだから眠りたくない。それだから眠りたい。


2022年5月22日日曜日

動ける

 困ったな、眠れない。 さっきも眠れなくてSNSに投稿してしまった。まるで何軒か飲みに深夜の道路ほっつき歩いてる夢みたいだ。薄暗がりで。

東京に戻ってきてからうまくタイミングをのせれないと眠れないやつがやってきた。赤ちゃんがひとりで眠りに入るのが難しいみたいに。うまくその時にその波にのって睡眠をすべきなんだけど、その波の時に見送ってしまうことが起きている。やれやれ、だ。

こないだ小さな小説コンクールを開いているんですよ、と言ってブックバーで応募作品の集められた冊子を手にとって読んでみた。ラジオに関するというのがテーマで、割とさっと流し読みした感じはどれも退屈な印象。ラジオは舞台美術としか登場していない、話のだしに使われるような、それこそ小説にするまでもなくラジオで話すような内容として向いているものだと思った。絵画でいうところの絵画教室の人のデッサン発表みたいな。まぁでもコンクールなわけで、ここは文学賞を決める場でもない。 ただそれがちゃんとつまらないという手応えがあったと知れた。まとまってそのような小説を読む機会がなかったんだ。

今日は雨が降っていてギャラリーなどをいくつか回った。そうしているとこうしてよく1人の時間を過ごしていたことを思い出してきた。途方もない時間。発表も待ってなければ何かを見る側に回るしかない時間がたくさんあった。作品を見て怒ったり、もっとこうならないのだろうか、とか。 今日は良作が並ぶ前で思わず声を漏らしながら体力を消耗しながら鼻息荒く展示を見て回った。 

そして今後のことやこれまでのことを少し新しい視点で考えれるような感覚があって、そこを起点にしてまた新たにゼロから考えたいと思った。周りとかを気にせずに。何もないところから。最初立った時、何もとっかかりがないところから架空の想像力を使って透明のとってを出現させてあたかもそれが掴めるかのようにして、握ることで初歩を踏み出すようなそういう感覚をもう一度。 もういい年で焦ってしまう。 しかし大丈夫だよ。 世界なんて。 ただあって、他にも人がいて互いに動けば影響を与え合うことが出来る。 以上。 だから。 大丈夫だよ。

そう聞こえてくるようだった。


死ななければ身体を動作を信じよう。




2022年5月9日月曜日

決まってぼんやり

 今夜も硬いベッド。布団が横に余ってるので使えばいいのだけどこの硬さを体感したい欲がまだ疲れに勝っていてそのまま。 舞台稽古ではリノリウムが敷かれて断然踊りやすく動きやすくなったのだけど木の反響、反応とは打って変わってすでに懐かしい。

木造の舞台と外に広がり坂になり昇っていく客席との目線身体の動きのやりとりを作っていくのが難しい。でもその難しさを感じていてもしそれが問題として正確なのであれば認識としてokですね、日々の向き合う時間を大事にしたい。

1日があっという間であだちさんの車に相乗りさせてもらいの送迎。今日は終わったら暗闇の畦道のある景色。星は思ったよりもたくさん見えるわけじゃない山の中。そこから宿舎の方へ向かっていく。

1人の時間を中々まだ作れていないから小豆島の風景と1人のタイミングでの記憶は十分に出来ていないけど、少したまに訪れるそういう時間。そういう時間が色んなことに接続する。

たとえばそれは昔の似たような時間。 あるいはどんなことを思うだろう。 海が一面に広がっていて大きい。こんな大きなものを都会にいては目に出来ない。広い大きい自然を前に出来る環境。出来ることは限られている。 ぼんやり思い浮かべてしまう。 ぼんやり思い浮かべてしまうということが訪れるだけだ。

それで良い、悪くない時間だ、たぶん、きっと。

ぼんやりとしたことを言ってしまう。でもそれはほとんど決まっていること。

2022年5月8日日曜日

ふむ島

 島に来て見る夢は少し変わっていて、以前使っていたあの場所が書き換えられていたり、過去に住んでいた場所の延長として何かが出現したり、しかも少し現実感があるような距離感で体験するので戸惑ったりする。今日もそんな夢を見るのか。 そんな夢を見ていると記憶を辿って確認したくなるのだけど、戻ったらやってみてもいいのかもしれない。

ほんの少しだけ1人で散歩する時間を作った。もう少しそういう時間が必要そう。集団にいながら、個人の時間も作ること。たとえば田舎とかにいたら自分の時間を作ることは難しいかもしれない。いつもみんなといたらみんなとの中での判断や仕草が生まれ、みんなの中でまたそれが常にジャッジされてそれだけが自分と思い込む。今、宮本常一の本を読みながらそういうことも考えてしまったり。ふむふむ、

2022年5月6日金曜日

記憶と巡るめくる

 たくさん食べて飲んで外で動いた分の疲れが蓄積。だけど舞台に少しずつ慣れてきた。明日はオフの日ということで島を少し巡るけどその前にやるべき仕事もやり終えてから行きたいな。 島に滞在していると以前訪れた場所のことも思い出す。奈良とか豊岡とか山口とか北海道とか。

今訪れた小豆島、そして今読んでいる宮本常一とかの内容と重ねてみると歴史と地域、地形、山、海沿い、街などの区別を考えれて面白い。

明日はもう少しさらにヒントをもらえるだろうか。

なぜ一つの滞在がまた一つの滞在を思い出させるのか。

2022年4月19日火曜日

久しぶりの誰でもダンスバトルの企画

ダンスバトルを久しぶりに企画した。個人的な反省はあるけど、参加した人たち同士が話したり知り合いになっていく過程を見ることがまだずっと嬉しいことであり続けてるみたいだ。でも、うまく切り取った言い方かもな。

色んな人が来てたのにバタバタで話し切ることが出来なかった。

でも思い返せばそれぞれがまさに道で出会った人で、それぞれに濃淡はあるけど。

知らない人同士が知り合って何かを話したりお互いに興味を持ったり。もちろんそのことが形に結局ならないことの方が多いわけだけども。 なんかその一瞬が起きる日が少しでも増えることを見ていたい、少しだけ寂しくない時間かもしんない、少しだけ違う未来や生活の風通しを想像する時間かもしれない。

みんなたくさん体を足を手をアイディアをさしだしていて感謝しかなかったな。で、フィードバックというのは互いの仕事への評価だ、生きていることへの評価だ。

ありがたかった。

えっと、もう少ししっかり人に負けないようにっていうかなんだろう。人とやろう、なるべく、と思いました。出来るかな、、

今はそういう気分なのだ、よし、


2022年4月12日火曜日

船を漕いで

 映画館でハリーポッターシリーズの新作を観た。ファンタスティックビースト、このシリーズは好き。ボリューム1での記憶を失わせる魔法をかけるとこなんかとてもロマンチックで泣けてしまう。今回の中にもとてもロマンチックなシーンがあった。最後、ダンブルドアだけは結婚パーティーが行われているお店には入らず微笑んでその場を立ち去る、そういう美学を久しぶりに見た気がした。少し楽しいけどやっぱり寂しい方に属している人たちというのがいる、彼らは何を教えてくれているのだろう。

主人公のあり方も好きでどこまでも謙虚で、そういうヒーローを見たかったのだと思った。しかし何度もこう思うのだけどたくさん映画に感動して泣いたってなんて現実をなすことの難しさよ、いかに自分が逃げてきたかを痛感する。この涙って一体なんだよ、と思う。

そんな風に映画を観てどこか何かを記憶を辿って思い出したり、もっと広い世界やアイディアがあるんじゃないかって思えたり出来る。たくさんの魔法のアイディアが描かれていたのも子供のように嬉しかった。


子どもの頃は知らない世界が広がっていて、たとえば夜ベットで寝る時、寝ている時の世界があることをほとんど知らない。話したことのない人もたくさん世界にいる。大人の世界だってそうじゃなかったから息苦しくなってしまう、そうも思った。完結された周りの友達との世界。空想の知らない世界はまだあるんじゃないかと思い船を漕ぎ出すような気持ちや期待。

きっとあるから大丈夫だ。

2022年4月2日土曜日

うまくいくのか

 久しぶりに書く。書いちゃおうって書いちゃいそうになったけど書くっていう言葉の切り方がふさわしい気がしたんだ、この瞬間。人に伝えるためにはうまく言葉をハメていく必要があるが自分を面白がらせるためだったら言葉を入れ替えて使ったって構わない、構わない、とかをたとえば言葉を入れ替えたってカモンナイトとか、言葉を入れ替えたって山へ入れない、とかでさえいいかもしれない。

4月になって急に忙しいスケジュールも決まっていよいよドキドキしている。うまくいけるかな。さっき、今度の作品について言葉を書こうと言葉を探したり、発することを考えていたらそのためのインプットが足りていない気がしてそわそわしてきた。 でもクリエーションの中でちゃんと出来ているところもあるはずだ、、そのアベレージをあげていかなきゃ、と思っている。

明日どうしようかな?


2022年3月17日木曜日

他の可能性

 なぜだろう、ずっと準備が間に合わないで進めている感じ。ため込んだ蓄積もなくなってしまった感じ。気のせいだろうか?でも人にも面白くないとか言われたりもしたからじゃあやっぱりダメになっているのかもしれない。不安だ。 そろそろそういうのから脱却したいのだが。 

今日だってなんとかストリートに辿り着いて、考えも整わずに踊り始めていく。でも気持ちが上がる瞬間はあってその時は何か熱いものが体と同期していく感じはあった。

たくさん動いて頭よりも身体がどこかへいくときっと調子を取り戻していくのかもしんない。週末のマーケットにも間に合うかなぁ、気付いたら準備が出来るのが1日しかない。やれやれだ。まったく。3月はそんなに忙しくないと思っていたし、全然稼ぎだって弱いのに、うまく回せない。少し毎日早く起きるようなことかもしれない。不安だ、30代半ば。

ただ一方でこんな煩悩に囚われてていいのだろうかね、もっとあるかもしんないしね、

2022年3月16日水曜日

久しぶりに大学で

 久しぶりに数年振りに大学を訪れる。前まで働いてスペースを訪れるとイベントのタイミングで学生や教授、これまで関わっていた人、外部の人などがほどよく集まっていた。 少しだけ新鮮な気持ちでドキドキしながら中に入っていくと親しげなみんなに少しずつほぐされていく。この感覚はちょくちょくタイミングごとにある、働いていた場所だったり、それこそ学校だったり、所属していた場所だったり、それでもこの感覚をある一つの場所に生涯久しぶりに訪れる度に感じるということの方が少ないだろうと思う。この感覚はほどよい距離感に時間が経ち生まれて、関係とのバランスで消えてしまうものでもあると思う。

新しい学生と話し新鮮な考えに触れ、感化されたり後輩が頼りがいのある仕事っぷりをしていたり、全員と話すことはできなかったし、結局学生の頃のやったようにほとんど滞在時間ないけどそれもいっかとダラダラとした時間に到着してしまい少しだけ見たいところだけかいつまんだ範囲で大学をあとにする形になった。

ラボを出る時、1人の学生が走り寄って来て何を言うかと思ったらファンです、と伝えられ周りに知り合いのアーティストの人とかもいてなんとも恥ずかしくなってしまい、もにょもにょ笑って対応してしまって申し訳なかったかもな。今度は話しましょうよ、とか言えててもよかったな。 でも学生の率直さがやはりこれも新鮮でときめいた。 ラボをでて図書館の下のトンネルをくぐるたびに今日の大学の終わりを感じる、、あの時のさみしさやそこから橋本に向かう時のテンションや様々な記憶がトンネルを介して思い出される。

"あの時"という時間が好きだなぁ。もう会えない人や構成され再結成されたりしない人の時間や関係性。あの時に過ごしたあの状態ということが度々解散を繰り返して思い出とかになっていく。そしてこうして思い出される。 訪れよう、人と過ごし作ろう、そう思えました。どうかな、これからの人生にそのことがどれくらい適しているかはわからない。

2022年3月15日火曜日

また書こう、

 小さくなってしまいそうでこわく、砂よりも大きめの石を集めて投げ散らかすと海へ。

ひらかなでかくのはそのほうがひとつずつに対して身体が応答できる気がする、形に対して。感じだと画数が多く身体よりも意味を受けとりそうだ。

こんな日はきっと向こうの家なら夜走って海まで行くことができる。 海まで行っておしっこだけして帰って来たことがあった。悪くない過ごし方だと思う。最近新しいものに触れているだろうか?今日Google マップで行く目的のあった場所を調べると近くに行ったことのない大きな博物館を発見した。自転車で行けそうだ。なぜそういう時間を大事にしようとしないのだろうか。

スーパーへ行くと相変わらずフルーツが高い。ヨーロッパでは安かったのに。安くなればそれだけで嬉しい。美味しいフルーツがあって公園に持ち込んで食べれるならそれだけで嬉しい。あたたくなったらピクニックをしよう。

頭の中にはたくさんの植物を育て、自然に習うようにそれらに聞くといい。

何故こんな風に簡単に物事を詩みたいに考えることを忘れてしまうのだろう。大事なのは詩のように自由にあること。

そしてさっき少し書いた、それで少し晴れやか、また書こう、

2022年2月23日水曜日

明るいところへ

 ダメだ疲れてるのに眠れない。

明日は久しぶりにストリートを再開しようと思う。コロナで寝込んでしまった時期もありついに2月の後半になってしまった、年末からだいぶたつ。ストリートをやっているとそこを目掛けてこようとする人がいたと話を聞くから、なるべくはやっていて誰かが来れるようにしておくべきなんだ。そう思うとこのことはやっていてよかったとなるなぁ。 最近、坂口恭平さんの本を読んだというのもあるかもしれないが改めて何をしたら後悔がないのか、ということを考えたいとも思う。世間の評価とは関係なく、なになら続けたら嬉しいとかやって良かったと思い続けられるか。今度もしかしたら人と踊ることになりそうで、それは何か大事に出来るんじゃないかな、、とか寝れない頭でぼんやり思う。 さっきウエストサイドストーリーを観てきた。たくさんダンスが出てくる、そりゃあそうだ。でも僕の記憶は小学生の頃のまだダンスも始めてない時期に親と一緒にBSか何かで見た記憶でそうするとダンスもあるけど、あの暗い街をバックに俳優たちにやたらあたる照明の光とのコントラストなどかもしれない。そこで踊られるダンスと自分のダンスは切り離されていて、よく自分はまだダンスをしているなぁとドキドキする。

こないだイベントで久しぶりに即興だし、何もそんなにいわゆる決まった期待のされ方もしていない、誰も来ないかもしれないパフォーマンスの機会があって、うまくいった日があった。本当に嬉しくてその日は打ち上げまで楽しかった。その日はずっと人と話す手応えがあった、ずっとどうすればいいのか?を問えるような。手応えのある日がずいぶん減ってしまった。人と会うと生まれるあれだ。だからこないだのイベントにはすごく感謝している、好きなものに出会えたっていう感じ。僕は一体なんなのだ、ということを少し肯定出来たような感じ。 ダンスの場にいると絶えず比べるということが起こるからかもしれない。

今年は本当言うなら不安だ。あんまり仕事も決まっていなくて、何か繋がっていかないのかも、とか思い始めちゃう。だけどコロナだし、そういう人はもっとたくさんいると思うから僕だけの問題じゃないな。そしてこういうことも忘れていないだろうか?つまり世界よ、私を置いていけ、みたいなこと。誰かと一緒にいる時間も増える分、きっとこれまであんまりあからさまに出てきてはなかったけど近い分、比べてしまう、みたいなことも起きているのかもしんない。この生き方はあんまりしてこなかったからまだ慣れていないだけかもしんない。 世界よ、私を置いていけ、という態度は孤独こそ似合うのかもしれない。そういうことが制作にはつきものだろうか?それとももう少しきっと違う文学がある気がする、もっとポジティブで明るいがゆえに多様な。坂口恭平さんの発言の中にもあるけど、暗いよりも明るい中にこそ多様性のバリエーションがあるという話、すばらしい。保坂さんみたいだ。暗いのはバリエーションがないから集まりやすさもあるんじゃないかね。

明るいものを作っていけるかな。

2022年2月10日木曜日

旅のこと

 例によって寝れないが今日に限ってはそんなに焦りがない。自宅療養中だからだ。寝れないで困ったが手元のライトを取り出して本でも読んでみることに。

そういえばこんなことを思う。学生の頃だったらこのブログさえもっと架空のものを簡単に引き寄せて日常と繋いで書いたり、過激なことを書いたり、とにかくどこか今接続しているところから遠くにいくための制作をしようと奮闘していた。最近の自分の反省は手元の制作ありきではなくなっていたようだ。自分の手元で動かしていることから頭が働き出し、自分の言葉が生まれ、それがさらに制作を稼働していく。それが制作のプロセスで強さや濃さを生み出していた気がする。

なんとなく今日はそういうことに気づく日だった。

本の続きを読もう。

そして外の空気が吸いたくて窓の外を眺めたくてもSNSで話されることはどこかやはり窓ではないんだ。遠くを見ようとするには自分の身体や欲求をここではまず聞いて動いた方がいい。

旅に行きたくなってきた。

僕はもう30も半ばになってしまった。とてもバックパッカーみたいな年齢ではないように世間では思われそうだが本当はそんなことはなくて、いくつになっても旅はした方がきっといいだろう。そして自分の言葉を手に入れて帰ってくる。旅先で聞く人の話はすっと入ってくるかもしれない。

そしてジャーナリストというのはいくつになっても旅をすることでしか書けないことがあるだろう。世界の神秘は段々と失われていくのだろうか。それでも困っている人はあとを尽きないのだから、それが旅に出る理由でもないし、そんなことは背負えはしないのだけど。想像力を働かせることはずっと出来るだろうということで旅は歓迎されるだろう。

明日も自宅療養という真逆でありどこか似ている旅に行こうと思う。今年か来年こそは旅に出たい。

2022年1月10日月曜日

久しぶりのバトルとか

 疲れた日に限って次の日早い日に限って眠れないやつやってしまった。こないだ西尾さんから聞いた話で小さい子は眠くなったら自然に眠るのでなく、人によっては眠くなった時に何かしらの促しをえて眠りにつくことが出来るのであって、眠いのにどのようにして眠れるかがわからなくて子は泣いてしまうということを聞いたのが面白かった。

足をどのような過程をえて暖められるかとか、頭が冴えた状態でベットに入れるかとかでも変わっていくんだろうなとか考えている。

隣の家の人はデフォルトで悲鳴とまではいかないけど荒々しい声をあげて無邪気に会話を友達や独り言としてするタイプの人らしくそれがよく聞こえてくるし、たまにブラックな感じの日本のヒップホップなんかも聴こえてくるけど、それらが基本的に嫌な感じはしないのだ。愛すべきに分類されるような。でも一線を越えたら、、わからないけど。今んとこ。

じゃあこっちはどうだろう?だいぶ初期はビビっていたけど、色々音出したりよく歌いながら踊ったりもしている。注意されたらやめようくらいに思ってる。まぁ近所付き合いですかね。

今年はもっと絵を売ったりしないと生活がやばそうだな。だけどそこより質が優先されるべきで、頑張りどころだ。ずっと手を抜けないな。

今日は久しぶりにバトルに出た。8ヶ月ぶり。会場に行くと元チームメイトのあつきがいた。ずっとカメラを持っていて、そんなに周りの人とも話した様子じゃなく、最後誰かが3年ぶりのバトルとか言ってた気がするけど、そんなに出ていないのかな?以前だったら彼自身がbboyのプラットフォームそのものじゃないけど社交そのものとして機能するくらいにバトルにしたっていたのに、今日は結構1人だったりあるいは同世代の人とかといるくらいでその感じは新鮮だった。と言ったって僕だってかなり1人で来てますって感じでいたのだけど。だから数年前の距離感とはまた違う感じの今日だった。それでも準優勝した彼は相変わらずずっとすごいままだった。でも今やってる仕事との葛藤もありそうだな、とか思いながら見ていて決勝の相手はりゅういちくんで、どっちかというと純粋にbboyingの部分だけをしているのがりゅういちくんでそれで最後それが押し勝ったとしたらそれはかなり美しいストーリーかもしれない。ってりゅういちくんがどういう風に現在活動しているかわからないけど、少なくとも決勝を見ながらそういうことも考えていたことがより情景を美しくしていた気がする。本当にあつきはたくさん"創ってきた"なぁと思った。世界中探してもこんなトリックとキャラクターのある動きはないだろう、キャラクター大国日本って感じの。スーパーフラットみたいな。

2022年1月1日土曜日

うま

1/1になってしまった。さっきまでは12月の後半と思っていたのに。年越しは数年振りにRENTを観て過ごした。インスタでは誰かの神社詣りの様子が出ていて、その判断だってありえたよなぁとか思ったけどそう体は動かなかった。1番幸福なやり方が選べたら良かったのにな。

正月から泣いてしまう、泣いてしまうとそれはもう正月じゃないみたい。ただの周りは暗く寝静まったその日でしかないみたい。2022年が始まるなんて思えない、周りに合わせられない、そんな気分。そういう人他にもきっといるだろうな。でも気分なんて大事じゃない、習慣や行動、傾向があるだけ、そう思うことも出来るかもしれない。

うまくやることが難しい

僕はそれに関していつも一足遅い。