2025年3月14日金曜日

うぉんうぉん

 時間を見ると3:11だった。さっきまでご飯を食べながら観ていたのは9/11に関する映画だった。その前は映画館から出て夜の長い道路を自転車で駆けていた。

こないだ搬出の帰り道、小雨の中タクシーに荷物を詰め込み飛び乗り後にする蒲田はさっきまで見ていたのと違って見えていた。たかが1枚ガラスを挟むだけで少し他人になった。旅をどこか違う街でしていて帰りに車やバスなどに乗ると急にさっきまでの街から遠かったのを感じるみたいに。 きっとフェンスの方が車窓よりは近くに感じられて、映画は車窓よりも他人に映るのだろう。

映画館で観たショーンベイカー監督によるアノーラは、数年前であればデビットフィンチャーとかに期待するようなアメリカを代表する監督だと思う。公に開かれているカテゴリーの中で。いつものきっとショーンベイカーならではのあの突如、特に気の利いた演出なんてものもなくまるで大きな落とし穴が現れるような、あの感じがどこかのタイミングに起こるのか、それともすでに見ている何かの中に仕掛けがあるのか、をずっと気にしながら見るような集中力と一方で抜けた感じ、が現代的だと思う。でも結局、何か超現実的でありながら今回のはより広く大衆向けでもあるということで魔法の粉を忘れずに描いたこの映画にいつのまにかずっと魅了されていた。そして2時間半ってたっぷりの時間をかけて、まるで一緒に時間をかけて沈黙も含めて相談し合おうっていうようにそのたっぷりの時間をかけてくれた、ということは現代においては態度そのものであるように感じられた。

少し昨日のタクシーの中で考えたこともあいまって感傷的な気持ちで映画館をあとにする。世の中から暗闇はきっと減ってしまったし、自分も歳をとってしまったけど、何か失うべきじゃないプライドの美しさを少し思い出した気がする。ずっとそれをどこか大事に腕の中で胸に抱え持っていて、守ろうとしていたのに、いつのまにか、そんな抱えたそぶりさえどこかへ行って、じゃあ抱えてたものなんてそもそもなかったの?みたいな気分で。でも、確かに抱えていたのを思い出していた。

現実を見て現実に取り組んで現実を良くしていくことでしてか生きていけないのかもしれないけど、こうありたい、と思って人目も憚らずに自分を見つめることがまだ出来るのならそれは試したっていいのではなかったか。暗闇の中で光って宇宙とも交信するような時を待っていたい。I want

2025年3月1日土曜日

よーい、そん、

またしても夜眠るペースに乗り込むことが出来ず。

展示が始まって落ち着いたり次のことに取り組めるかと思ったら、左目がピクピクと痙攣を始めた。何か疲れやストレスが抜けないのか。困ったものだ。

だけど今日は朝と夜にそれぞれ何気ない良いことがあった。朝のは公園で小さな子と保護者の方と他愛のない会話をしたこと。夜は仲間たちとのラップの時間を過ごしたこと。ラップをし、街を見渡しながら、昼に聞いた東さんのトランプ2.0の話を思い出した。これからきっと暗い時代になっていく。そういう時に自分たちの居場所があるだろうか、ということさえ心配になってきていた。色んなことがどんどん分断されるのなら、近しい人同士の間でさえ分断が増えていくのだろうか。それはちょっと見切り発車かな。何か少し心配な気持ちが出てきてるのかも、、、



随分と遠くまで時間のおかげで来れた気がする。距離を作るのに時間がかかる。

なんとなくそれで最近は再び良い意味で取り組んでるそれぞれのことが少しどうでもいいと思える瞬間がやってきて、確か以前はこういう風にして取り組んでいた気がする。なんだっていいけど、あれもこれも大事という態度。風が抜けてくような。

自分は何とも関係していない。遠く遠くにいると思え。

どうでも良いと思っているが何かへの準備をずーっとしていて、風が一瞬ふって、吹く時に強く集中する。そういうやり方。人のように何かを大事にするのは下手だし出来ない。 どうでも良いという状態ですっとする瞬間を見つける、楽しむ。解放する。



それにしても世界は窓だらけで窓で繋がっていて全ての世界を知ることが出来るようになった。知りたい世界はおそらくこの裏側にあって、瓶を振って下に落ちてこないか、下から覗いて見えるか、見えないか。全部の世界を知っているけど、あの暗闇だった部分や黒くて見えなかった部分や選り分けるのに難しかった色の混在したスペースたちの部分はどこへ行ったんだっけ?

わからないという部分は??


やっと遠くに少し来れて、それで、どうでもいいや、という気分がやってきた。