2023年12月3日日曜日

書く壁

 また眠れない。本当に困った。寝る前に頭が活発になると眠れないのか、随分今日だって体いっぱい動かして疲れたのだけど。

ひどい。村上春樹くらい生産性のない話だ。いつからかネガティブな意味での村上春樹を言うことの方が多くなった。そんな悪いところだけじゃないし。たくさん読んだし今も読みたくなる。こないだは舞台を見た、隣の観客は品の良い涙を流していたけどその理由は知る由もない。 しかしこれを今ここでやる理由はなんだろう、とか考えちゃうけど、そんなことを言ったらパレスチナを攻撃する現在のイスラエルの世界的状況に対してなんと言えるだろう。正義とかこの方が良い、やるべきだ、みたいな方向性でめっきり世界は動いたりしないと示しているような世界に生きるようになってしまった。もう少し若かったら直感が動いて行動が動いて言葉が動いて、どこかへなにかをどういう風にしてかできる自分がそこにいるんだろうか。

振り返るといつもやめたり追い出されたりし続けてきた感じがする。途中まではそこにいていなくなるということ、初めから知ってるわけじゃないけども、それでもなんかスパイみたいな居心地。

もう結構生きてきたけど35年、でも本当に100年生きるなら半分も行ってないけど、こういうことをそもそも75歳になったら言わなくなるかも。身体も思考も変わって。こういうのを書くようになったのもたぶんまだ20年くらいだし、。結構生きてきて、中々そうも言ってられないとか続きを書こうとしたけどその75年の変化を想像すると全然惨めとかそういうんじゃない気分が作れるかも。文字を書き進めたためにそういうことが起きていく。

全然なんでも大丈夫かもしれない。

自分の惨めさを文章にして書く時、そこに文字の壁が現れてその壁に寄りかかれるという時間が生じるみたいだ。

なんというか、ここには誰もいないのかもしれない。

2023年11月28日火曜日

風を待つ

 東京に戻ってきた。帰ってくるとなぜ、ここにいるんだろうという気持ちになる。なぜ、あのまま韓国でなく台湾でなく秋田でなく名古屋でないのか。

またしても眠れない。最近の自分の成果はこの眠れないことを書くくらいしかないのでは、と思う。段々といくらか文脈を共有した周りの世界との距離が今は色々あってきつく感じられる。 鬱の人の声のパターンは数種類しかなく、その声に耳をすませるとただ体を持っていかれるというようことを坂口恭平が言っていた。元気な人の声というのは逆に無数にパターンがあるとかいう。なんていうことだろう。

今年は本に書かれたテキストこそが自分を最も興奮させる芸術の一つだったように感じられる。坂口恭平の話も面白かった。あれは昨年か今年か。それはテキストではなく今まさに喋られる言葉と音楽だった。言葉を放つための準備と実践があり、音楽は別にそれを聴くためでなくあなたがやってください。ということだったと思う。 基本的には自分も今は民衆の解放のような気がする、これは広太さんも言っていたエントロピーだっけかな?また新しいワード。一部の人の権利のための芸術、なぜ、となる。

イスラエルがパレスチナを進行し続けた歴史とダンスのことを関連して考えてしまう。スペースのこととか。中国が香港や台湾を内包してしまうのには賛成出来ないが中国の文化には圧倒的な関心がある。

しかし西洋のダンスを考えるとスペースの支配みたいなことを考えてしまうところはあるかもしれない。それで今結構、集団でスペースを占領するようなダンスにうんざりもしている。

肉体で埋まってしまうとか、ナルシズムの意識でスペースが埋まってしまうとか、じゃなくて風が吹いていてほしい。雰囲気は違うけど岸田劉生の描いた坂道の先に青空がある絵。そういう風に意味を読み込むのは絵画において二次的かもしれないけど、風があの坂道に抜けていくのだけずっと知っている、みたいなダンスのことかもしれない。ずっと言葉にできなかった違和感をさすならそれかもしれない。そこには風に吹かれている人がいるのかも。劇場には風が吹かないからそのことをずっと考えている。劇場に来る人は風を見たいなんか思ってない。人を待っているだろうけど。

2023年11月26日日曜日

いびき

 明日が本番でちゃんと睡眠だ、と思ってホテルの布団に入るもいびきが聞こえ嫌な予感。結局少しだけ眠りの入り口で彷徨うも引き戻される。 いびきで嫌なのはいびきをかいてる本人の状態はもちろん眠っているということを込みで想像されるのでなおさら行き場のない。でもそんなこと言うと世の中には不公平で行き場のない思いが無限に溢れているのとに行きつき、明日僕の本番に支障が出ようとそんなことは全然たかが知れている1つの事例に過ぎないし、とにかくそうであっても良く働くことこそが大事で、そんなくじを履くくらいいつもあるとか思えたらいいのか。それにしてもそれを割り切って眠れないことを引き受ける態度をころっと切り替えられないかと思い書くのを始めた。

初めて眠りのための音楽というクソプレイリストをかけてイヤホンで聞く。すると少しだけそのいびきと音楽が一緒に演奏されているような錯覚が、そのいびきはもちろん安いイヤホンを越えて聞こえてくる。でも少し集中して聞いていくと、へんな世界観が像としてみえてくる感じもする。たとえば、竹藪の向こうが少し明るい朝を待つような光でそこをどうやら竜が通り過ぎていく。竹藪の上を今度は竹を倒してそれを地面として歩くようなイメージ。

昔、ブログを書くなら文書を書くなら鼓舞するような何か焚きつけるとか、躁的なものを書くというアベレージを目指していたんだと思われる時期があった。その時はそれを書くような毎日を同時に切り開けるようなそういう制作の態度がたぶんあった。たぶんあれた。 しかし段々とそうじゃない日もたくさん出てきて、それでもその筆を許すような判断があってつまらないとるに足りない文章も書くようになっていった。これはなんか坂口さんで言うところの躁鬱の鬱の部分の文章かもしれない。 

でもなんというかなんでもどうでもくそいいんだ、みたいな領域を誰にも侵されずにありたい、ほとんどが読まれなくてもそれでも、自分と話すためにも書く、どうしようもなさ、を全く閉じない形で実は垂れ流れてる、みたいな形であればいいとか思って書いている場所。

クソプレイリストが行ったことのない砂浜へ連れて行ってくれている、コピペのようなカモメの鳴き声だろうか。いつなんだろうそこは。じゃあ僕だって適当に思い出のたとえば直島の砂浜の記憶をコピペする。

休みが必要だ。休みなのか、戦いなのかわからないけど、一回ゼロみたいなことが必要だ。耳も目も悪くなってしまった気がする。自分のことをよく知らなかったら。


2023年11月21日火曜日

明日の色

 昨日久しぶりに家族と集まってご飯を食べた。何年ぶりだろう。そういうことって親は嬉しい光景なんだろうか、とか思う。昔は親の側に立って物事を見る事は難しかったが今は少しはそっち側にも立てる感じもするけど、これだってみんながみんなそうなわけじゃないだろうな。

またしても眠れない。このベッドは熱を起こしやすくて、結構暑くなってしまってそれで頭が冴えてしまって眠れないというのもあるんだろう。

今度、昔の友達との同窓会的なのがあるかもしれない。半分行きたくて半分行きたくないというのは、よくある意見かもしれない。人生同士を比較されそうとか思ってしまう。そんなこと言ったらたぶんたくさんの人がそういうことにびくびくしながら生きづらくなってしまっているだろう。

うまくやるのは難しい。色々準備したつもりだったけど油断すると一瞬。全然うまくやれていない。自分なりにここはこうで、とか。あぁで。とか。結構ずっと考えてきたつもりだったけどすぐに寄っかかってしまってそれで別の場所にもやってきちゃって。

強い閉塞感だけど取り戻したいなぁ。たぶん楽しくなってくると大丈夫な気がする。

半分色んなことに意味がなさそうに思えてくる、でも半分は勘で意味があるとわかってそれをやれる感じ。もう少しなんとかしたい。

父親が南三陸にボランティアに行くことで老いた自分がまた変化出来るんだと思えたという話。こないだ亡くなったおじさんは兄弟でいわゆるわかり合えるような最後にはならなかったようだけど、その三陸の後にぽろっとお前は変われたんだな、俺は変わらなかった、と言われたらしい。 兄弟というのでも家族というのでも難しい。本当に全体でのバランスのこともあれば個人と個人のこともある。僕はどうして生きたいんだろう。結構良い年齢。

とか言っちゃうけどあと65年生きるならこれからだし、結構いい年齢とか言うことでその考えに寄与してしまって余計自分の首を絞めてしまう。

明日のことに関して言えば今の明日と5年前の明日、10年前の明日、15年前の明日で色が違う気がする。


2023年11月7日火曜日

強弱の風とか

 秋田ではあんなに眠れたのに、東京に帰ってきて寝つきが心底悪い。困った。 色々なことがうまく回っていない。点検が必要だ。 

外は雨が降っている。パラパラという音と時折強い風が吹いて強弱をつける。

コロナの前かコロナ1年目くらいの時の方が世の中や身の回りの広さを想像しようとしていて、いまはどんどん狭くなっていってる気がする。自分がなのか、周りがなのか、世間がなのか、社会や世界がなのか。わからないけど窮屈で悲しい。 自分が歳をとったせいなのだろうか。

同じ事を言ってるみたいで良くないな、


2023年11月1日水曜日

雨のよだれ

 ざーざーざー 窓の外 ばーばーばー 扉を閉めるがちゃん 私が数年前に見た時よりも印象は違って見える。 台風クラブを見ていた。 カメラの導線が素晴らしい。テキストだけに語らせること以外を映画に担わせている、映画の中で創作がある。

そんなことを言いたくて書いたんじゃない。

見えない夜 は 眠くならない

秋田の時はあんなにすんなり眠れたのに。くそぉ、ベットが良くないのか、東京だからなのか。 ここはどこなんだろう。

村上龍の20年前のインタビューはまだ元気で頭も活動も動いている。最近は大丈夫?心配。


体力が回復してきてるのでランニングをしてさらに確認していく。

空っぽだ。 もう少し空っぽにしないと何も積み上がっていかない。


ハロウィン 私は 赤い炎 みどりの炎は

くらい酒場に誘われて 夜に 見た事もない。 見当たらない ドアがたぶんあきっぱなしで 台風の風ややら木の枝やら雨なりが入って来てしまうよ 映像だから言ってもわからない こんなに日本語ばかり話す未来が来る 

みんなが うまい

2023年10月1日日曜日

10月に

 10月だ。9月のほとんどは60%の力という感じであと少しでこのゴホゴホともおさらばな気がする。風邪を治すのが下手すぎる。

ずっと最近ネガティブなことを考えていた気がする。少しだけ今日は踊れて晴れた気がする。自分の制作の時間を持てないとダメだ。仕事も自分の制作みたいなところがあるのだけど、さらにその下地みたいのが自分にとってはどうやら大事みたいだ。

ハブさんと久しぶりに話したり品川に行くとあの時間をたくさん思い出すな。仕事としてはかなりフラフラしたものだったけど。そこでの時間、先行きの見えない不安。含めて。でも具体的に面白い話とかはよくしたなぁ、作品の話とか。もっと広い興味の話とか。

ところで海外にまた行きたくなってたとえば長期滞在になった時、親とか大丈夫かなとか心配の年齢になってきた。 健康をどう作るサポートが出来るのか、、無理矢理じゃなくなんかクリエイティブな形でしかも別の人を巻き込みながら、、

身体のことをもっと専門的に勉強しないと他人のワークが難しい気がする。そのことが大きなネックになっている。いわゆるダンスを敬遠して好き勝手やってきたツケが回って来たみたいだ、、

ハブさんじゃないけどずっと勉強し続けないとだよね、、家族を持ってるわけじゃない今すべきなんだわね。頑張らなきゃ。楽しそうだから、と。

2023年8月22日火曜日

乗ってる

 夜行バスになろうと思って夜行バスに久しぶりに乗っているけどあたりはカーテンで仕切られ前方も閉ざされていてビールは飲めなくなってまったく今がどこの夜なのかわからない。

眠れそうな波を今じゃないと乗り越えて、もうその波はどこかへ行ってしまった。これは北斎の描いた波じゃない。別の波。映画かアニメーションが近いと思う。それか挿絵かもしれない。

学生の頃はナイトクルージングを聞いて羅列し過ぎていく窓の外の光がそれそのものがメロディのように感じられるその夜を思い出す。そういうロマンチックそのものが、それ自体になる、みたいなところもあるんじゃないか?近年流行のドゥールズに触れる小説の記憶からそう思う。

さっき書こうとしたことはなんだっけ?

車が前方に行くこととこの耳で聴いてる音楽が進むことが重なっていくと人生そのものが前に進んでいるような気がしてこないか?アニメとかにかかる音楽みたいに。ライブ会場のように二本足で待って聴いている時は前方に進んだりしないけど、前方に進むように聴いた経験をそこでも思い起こそうと想像力の努力に取り組むこともある。

さっき書こうとしたことはなんだっけ?

そうだ、確か、車の免許があれば、夜の高速道路を手に入れることが出来る。そういうことを

2023年7月25日火曜日

こんちきしょう、

 いつもみたく音楽を帰り道に高ぶって聴いて歩いていると、このポップスを聴いた際に私がここにいることがくっきりと浮かび上がってくるように感じられて、それでじゃあもっと遠慮がちにじゃなく踊ろうと思って帰りながら踊って、立ち止まっては踊ったりした。

99.9%の人生を歌いたい時に歌っていなくて踊りたい時に踊っていないと感じた。踊りは業界のためにはないし、僕が踊ろうと思ったきっかけの多くの人の踊りを目にすることはほとんどなくなった。中途半端で、想いだけはある、いんちきな自分だけがなぜかまだ踊っていることが不思議に思えたけど、彼らにまた会いたいとか、その気持ちに会いたいと思うには踊らないといけない夜になった。踊りながら歩いて家の裏手の公園で踊った。汗なんて構わない、なんでそんなこと気にして生きているんだと思った。どこかに向けて準備して、なんて遅い。僕がストリートでやるのは全てなんかじゃない。一部のお裾分けだ。踊っていることが先にあれ!と思った。生きていることが悔しく思えた。35歳だけど、この気持ちは懐かしいけど、そこを全くクリア出来ていないで今に来ているこの生をどう考えるべきか、そういうことが一瞬にしてよぎった。

アデリン達とさよならをし、霊園を歩いて過ごし、ビールを飲んで、午前中は親のお墓を見に行って、その日の最後にそういう時間がやってきた。自分の気持ちをもう一回生きたいと思い悔しいと思って踊った。こんちきしょうだ。僕はどうしたいんだ!

2023年7月23日日曜日

集中と頑張り方と騒音

 最近、ここ数年だと思うけど、以前の頑張り方では難しい、集中出来ない状況になってきていると感じる。そのことにずっと困っていて、どうしよう。

そのことに自覚的になってきているとは思う、前はあんまり自覚が薄かったので問題が顕在化してきたとも言える。10年くらい前、1度スランプと呼んでいた時期があった。他の人に言わせたらスランプでもなんでもないのかもだけど、時に自分でそのように名付け解決したり対象化し取り組むこともやり方としてありな時もある。

この引っ越して来た場所は以前よりは騒音に悩まされていなかったけど今日は騒音が上から聞こえる。さっき覗きにいったらチルしていた。注意しようと思ったけど我慢して明日から楽器を解禁しようと思う。深夜にやるよりは全然いいだろう。


2023年7月15日土曜日

真夜中のカジキマグロ

 今夜眠るにあたって電気を消して真っ暗になって寝ることを想像する。

今夜見る夢では水族館のカジキになってる眠れないかな。今夜寝ていることが水族館の魚として経験されて、この布団の上で起きれないかな。

2023年6月11日日曜日

夜の坂を

 眠らないと夜がだらしなく広がる。

疲れたのにふとんを前にして真夜中にいて眠ることを率先し選ばない。先延ばしする。

明日はお通夜。想像もしなかった時間が目の前に横たわっている。 

今夜は小さなスペースでお酒を飲んで踊っていたり話をしていたりしていた。いちいちそういうことに意味とかを考えたり、それの着地点を探そうとしたりして全くもう。

ずっとこの夜が続くのは嫌だなぁ。時間が経てばだな。

2023年6月1日木曜日

色んな

帰る頃にはくたくたで少し休んでからご飯を作ったりしているけども、ぼんやり意味のないスマホなんかを眺めてしまって時間がもったいなく過ぎていく。ぼんやり意味のない、なんて言葉を当てても本当に意味のないかはわからないのだけど、そう呼びたい、そういう価値付けをしたいからそういうことを選び言うのだろう。
とにかく疲れ切っていて、なんとかご飯食べて寝るのに至ろうと思うのだけど夜になると無駄な言葉が溢れて、行き場のない言葉が頭に溢れて眠れない。くたくたなのに眠れない。なんてこった、だ。ずっとそのことばかり書いてる気がする。
こないだは眠れなくて村上春樹の小説を読んだ。しかし眠りを待つために本当は本なんて読みたくないのだ、だから眠れないと思ってもすぐ本をとったりが出来ない。 前ならば眠れなくてもポジティブにアイディアにいきつけばo.kだったけど、あまりにその回数が減っている。考え事もそういうことに向かってじゃなく手応えのないぼんやりしたことばかりが浮かんでいる気がする。
難しい。 

2023年5月28日日曜日

夕方4時

 夕方4時で始まる森山直太朗の歌を公園で歌っているとこないだ挨拶を交わした太鼓叩きの人が一曲聞かせてと言って少しだけ屁理屈みたいなこと先に言った後、重い腰をあげてその曲を改めて歌い直した。人がそこにいると歌声を出すにも詰まるような物理的な感触が生まれてそれを越えながら声を届けることを難しいと感じながらもなんとか少しずつ立て直したり伸びやかにしたり風を通すんだ、って気持ちが沸き起こったり、まさにライブの手つきで一生懸命に、というかやっぱりそこで風が起きるようなことを待つことと起こすことの両方の意識で演奏を終えると少しだけ感動したように見えるその人が久しぶりにちょっと来ちゃいました、と感想をくれた。嬉しかった。そしてもう少しやっぱり歌を歌おうとか思うんだ、そして僕のこの歌を歌おうとか思うんだとか言ってることは今はこの言葉をあててるけどそれだけじゃない色んな予感も含んだ言葉としては置いてることに本人だけは自覚があることは大事だと思う。

またこの曲を人に向けて歌うときに改めて歌詞の後半部分が強く読まれるという体験が自身の側には起きていて、あなたは誰?鏡の中呼びかけてみても返事はもう返ってはこない、という風に曲が終わる。ということは殺してしまったということかもしれない。4時なのかな?学生の頃に4時くらいに起きて途方に暮れる、特に冬の4時はすでに暗い。あの時にあの頃に過ごした学生の時の場所や時間とその置いてけぼりにされる部屋の身体との関係が写真のように焼きつきながらも動きを伴って今でも現れる部分的に。

昨日はたまたま見つけたsean lewのダンスを見て泣いてしまった。最高にダンサーだけども、ダンスだけで武装しているようにも見えない珍しいストリートダンサーだと思った。だから彼が代表するのはクールなストリートダンスだけじゃなく、色んな環境とか自然とかそれを私たち人はどのようにキャラクタライズしてでも仲良くなる瞬間が作れているか、そういうことも代表している踊りというか人に見えた。カッコつける必要なんてないんだよ、と。

洗濯は朝にせよ夜にせよ、干す時は外だから室内と相対的に風が感じられる行為だ。

2023年5月27日土曜日

じゃあ

 寝たくもないし、明日にもなりたくなく、眺めたくもないものが消えないである。今はどこにいるかわからないけど、全然ダメじゃなく、動くことがあるからなおさら。人と比べて落ち込みながら人と比べることでどうにかいれる、ということ?なんていうことだろう、じゃあそういうこと。

2023年5月11日木曜日

のっぽ

 のっぽさんがお亡くなりになられたそう。なぜか僕は覚えていて年代を見ていると90年にわくわくさんが始まってるから、かなり小さい時の2歳くらいの少しテレビの映像の記憶として、インタラクティブなやりとりをする前の感じで覚えているのかな。

最後お別れの回でのっぽさんとワクワクさんが話しているところは本当に今見ると茶番みたいなやりとりなんだけど、とても優しく感じられる。今見るととても安心する。 多くの人はどっちかというと思春期以降の民放などのテレビ番組のやりとりが何かしらのベースになっていくかもしれないけど、自分にとっては小学校に入る前のまだ数字などで切り分けられ過ぎていない時の、だだっ広い時間の記憶が残っている。その中の一つとしてあの教育番組のあの感じを覚えている。

2023年5月8日月曜日

ただ寝るが遠い

 今日はずっと雨降っていたなぁ。朝起きた時にも降っていてバイト先でも降っていてずっと雨が染み込んだ靴下と靴で1日過ごしてこれから寝るのにまだ雨で。ずっと雨で、どこかと繋がってそうで繋がってない世界にいるみたい。隣の人もまだいない。入居とかするのだろうか。

とても疲れていて、スマホで何度もスクロールして最も少ないカロリーで、何かをとりあえずめくろうとしてしまっている。

2023年4月22日土曜日

引越し

新しい家に移り住んできて、少しずつすでに好きになりつつある。家に住むのは、なんというか人との関係に似ているのかもしれない。動き方も、遊び方も微妙に変わるから。前の家が近いというのも何か感じるものがある、置いてきた過去みたいなのの匂いが近くに自転車で通ると感じられるみたいに。
今の家は目の前に小学校があるから、あの元気でなんというか様々な距離感を縦横無尽に時にジャンプを伴うようにして交わされる声や行動の音が聞こえてきて懐かしい。 大人になって失われつつある、でもパフォーマンスをやるものとしては取り戻したい部分を喚起されるヒントがこれによって日常的に出てくるかもしれない。

前の家ではゴミを捨てる時間こそが最も1日のうちの素晴らしい時間だった。今は3Fなので降りるのが時間がかかって少し準備もする必要があり、また変わったものになっている。駅からは15分とかかかる。
駅からそれだけかかるとより周辺というのを意識するし、街に生きてる感じがもう少しするかも。 こないだまでは駅から2分で外に出ることはそのまま駅に直結しているようなイメージさえあった。歩く時間が確保されるような感じ。この歩く時間に住んでる人たちは色んな身振りを起こすんだというのを通勤する際に感じられた。

最近は坂口恭平の動画ばかり見ている。
元気が出る。

2023年4月3日月曜日

龍と龍

 坂本龍一が死んでしまった。 少し悲しい。

坂本龍一はなんだかずっと生きているものかとどこか思ってたんだろうか、月並みだけど。

多くの人はymoの細野さんを思い浮かべると思う。でも僕はなぜか村上龍のことを考えている。坂本龍一への導入はなぜか、音楽以上に村上龍の書き残した文章で知ることが多かったように思う。そして2人は別にプライベートで仲が良いとかではないのだけど。

生きることに野性的までに書き抜けてきた村上龍はどんなだろう?彼のことが気になる。 

2023年2月28日火曜日

チャンスいつも、

そして寝れない日がやってきた。 2日にいっぺんは言い過ぎだとしても。一昨日が本番で昨日はたっぷり寝ることにしたからそのツケもあるかも。 最近は朝起きると不安だ。自分の年齢とこの先のことを考えてしまい、先行きが見えなくなる。
数日前にYouTubeで香港で良くしてくれた友達が今はジャーナリストになってウクライナにずっとついている。そのことを考えればここで生きるなんて容易いじゃないかって、香港で自由に生きるよりもまだ動ける国じゃないかって。近い人や社会と比べるから考えてしまうことと遠い何かと比べるから考えてしまうことがあって。もう少しいずれにせよ、そのYouTubeをチェックした方が良いかもしれない。
千葉雅也さんがTwitterが何かで生きてたところでって思う気持ちがわからなくもない、みたいなのが流れてきた。そのこと自体がわからなくもない、って思ってしまって、ほんとになんてこった、やれやれ、だ。神妙な言葉さえ使いたくなくて辛うじて軽妙な言葉で事態ごとごまかそうとする。
みんな真面目にやりやがって、ふざけろ、もっと、と。
こないだ踊りの帰り際に我らがめいちゃんに、コメディアンでポエムなんですよ、と言われたのが嬉しかった。見られていると思った。逆にそれでコメディであること。そして詩であること。が改めて大事な要素かもしれないと思った。

渚のシンドバッドという映画を観た。浜崎あゆみがよかった。主役の子も。恋人たちという同じ監督の映画を数年前に見た時は全然良くなかった。というか、なんだろう、時代が経つに連れて映画も濡れっぽくなっていくんだけど90年代にはどこかカラッと渇いた感じが武映画にも共通してある気がする。なんにもないんだ、っていう。
神妙になるほど良くないと思う。

昨日で仕事がひと段落したので景気付けに映画を観に行く。アントマン。選んで失敗したと思って見ていた。アベンジャーズなのにいつのまにかスターウォーズみたいだし、なにこのアメリカの茶番って毎回思いながら数年経ってしまった。でも最後の方は今度の展覧会のプランを想像しながら観ていた。
実は今年は展示系の誘いが少なからずあって、しかも自由度も高い。頑張りどころだ。

一方で劇場はどうかというと、全くわからなくなってきてしまっている。早いところいいものでも見て刷新しないと居場所がなくなってしまう気がする。
観劇していてもずっと外のことを考えてしまうのだ。今なぜこれを観るために人が集められているのか、別のやり方がなかったか、舞台に立ってる人の頑張りはどこへ向かうのか、それよりもまだ話されてない組み合わせの話があるのでは、とかそういうことを考えてしまう。
逆に言えばその設計を組み込めば出来る面白いことがあるということだと思うんだけど、、そしたらそれはもうやることがあるということなんだけど。

書く前よりは元気になっている、
スマホを通さずとも目の前の人にコメディや、詩を、チャンスはいつも、

2023年2月24日金曜日

ou.t.o.f

 一回外側に離れてみる。out of there、

今日演劇を見ながらずっと別のことを考えていた。外のこと。ここ以外のこと。ここに集まっているのにサボって外のことを考えていた。

ブライアンイーノもちょっと宇宙。(どうかな)

だからそれでなおさら少しここから引き剥がされようとする力が働いたんだろう。

離れてそこじゃないところへ、と言えばジムキャリーだ。彼のことを考える時、out of という単語が浮かぶ。1人の惑星みたいな。離れた惑星。スピードも間も違うまんま飛び続けている。

やっとこの感じだ。

out ofで考える。他の人のことは知らない。

ただ惑星がまわっているんだからそれはそれで、だ。

久しぶりにこの感じに出会して、おやすみ。

2023年2月19日日曜日

ひととび

 でも海の中では会話も歌もほとんど出来ないけど泳いだり見て近づくことなどは出来るから、その時間をたくさん駆け抜けた後に地上で空気をすって感想を話したり、岩場に辿り着いて今度は眺めて過ごしたりするんだ。アバターを見てそこからイメージして思った。

でも誰かに対して怒りを持つことと社会に対して怒りを持つこととか全然違って、誰かに対して怒りを持つも一方で怒りを持ってしまっている自分に対して悲しいと思う感情が出てくる人もいると思う。難しい。そうすると余計に時間がかかる。時間はあるいはかかってないにせよ、複雑な複数の感情がどうやらある、それの正体がなんなのか、言葉にしてこれだと思えることもあれば突き止めれないこともある。複雑。

傷口をバンドエイドで治したいと思うこともあれば、傷口に塩を塗ることに慣れている人もいるかもしれない。複数の欲望があるうちのどれかの欠如を別の何かをあてることで錯覚を起こしてそれを解決したと思えることもあれば、やっぱりその欲望に対してはちゃんと対応している欲求でクリアしたいということも。

なぜまた疲れてる日に限って寝れないんだ。

難しい、

2023年2月9日木曜日

白 空

 再び空虚さ、空白を見つけるようになってくる。何もない。 何もないから作ろうとする、作ることを始めると何か形が生まれて面白くなってくる。それでやっと始まっていく、空白との関係。でもまた空白や空虚だけが訪れて、少し待ってるとまたやろうと始める。そういう動機を少し思い出す感覚がある。あまりにもなにもないから。これはきっと考え方や環境の問題で、ある人にはあるんだろう。そしてある人にとってはまた別の問題があってそれとどう関わるかが、生きていることの中での何かになっていたりするんだろう。

エターナルサンシャインを観る中でいいなと思ったのは俳優の人に十分に描写的に演技するそれで画面を作っていくほどの時間が与えられずに会話になったり別のカットになったりすること。もちろんそれは多くの映画の中で採用され要求される映画の仕事としてあるも思うのだけど、僕はあんまり好きじゃない、もどかしくなってしまう。これはフィルムで撮ったのか、ビデオで撮ったのか、ビデオのノリで編集される街が溶けていくシーンだとかの中で小さい頃の自分にも戻る。この描き方がカメラや編集、効果の扱いの面白さ楽しさというのを伝える役割も担っている。物語のシーンとしては悲しいのに、このビデオ愛が、やはりそういうシーンをビデオは撮ってくれるし僕らはそれを観て共感したりしまえるということに泣いてしまう。楽しいのは大事よ、きっと



2023年2月5日日曜日

エターナル

 エターナルサンシャインを久しぶりに観る。これはほとんど江ノ島じゃないか、と冒頭の海のシーン。この朝を知っていると思った。

写真学校の授業でミシェルゴンドリーの話になったのに知らない人のが多かった。かつてあんなに映画や写真の学生たちは彼を追いかけていたのに。

画面はずっと手持ちカメラによって少しだけ揺れている。ビデオで撮ってるみたいな手つきでもある。話は悲しい。 映画を見ていると遠くのことを考えれるからずっと好きだ。誰も周りにいなくなってしまうことも想像出来る、それを描いてもいる。ライブだと今目の前になってしまう。それだと遠くに行くことを許してはもらえない。 空想さえあればなんとかすっと抜け出せる、そういう気持ちを作ってくれる。学生の頃の映画好きな友達2人くらいのことを考えている。とてもロマンチックな考えを持っていた。一体何しているだろう。最近はそういう人に出会していただろうか。 いつもおかしなジムキャリーが普通のテンションで演じられるけど、それがまた何かが溢れ続けるような状態を作っていて、それも目を惹きつける。

悲しい映画だ、色んな体中の傷口から涙が溢れ出てしまうような、

2023年1月26日木曜日

目を開いても瞑っていても回っているよ

 数日ぶりにメモが復活した!あきらめないで良かった。

京都に来て眠れない夜、初めて。
これは移ったホテルの部屋が暑すぎるためだ。まったく部屋にエアコンがついてあるのを大まかに三段階しか調節出来ずそれでこうなってる。

相変わらずずっとネガティブなことの方ばかり考えていて、でもなんとか引っ張ってこようとして、今日は少しだけ光が差し込む回答を言葉として得たと思う。
それはやっぱり"全部"なんだ。苦しくてもなところと、自分の中に見つけれる楽しいところ、両方ともについて取り出して考えること。時間はないじゃなくて時間なんてない、でいけないか。
踊ることは踊ることで身体の記憶として刻まれることとしてあるし、人といるということもそうあるし、言葉だって後退させちゃいけない。言葉にも失礼があるかもしれない。みんなそれぞれに個性的にあるのがひしめいている。
I canだしI can'tだ。
身体や気持ちよ弱くても持ってくれ、太陽が出たら嬉しいかもしれない。もう一度人の悲しみが自分を器に流れ込んで悲しくなったら悲しくなって。私は変身しよう。私は変身しよう。
言葉かもしれないし、態度かもしれないし、ダンスかもしれないし、音や空気、物かもしれなくなるのだ。生きている。

2023年1月23日月曜日

誰にも

 明日から京都。相変わらず荷造りがうまくならない。相変わらず、で思い出すけど相変わらず人は変わらないのかもしれない。ずっと同じとこにいてそれが濃くなったり薄くなったりする程度で人はそっちにはいけないし、こっちにもいけないのか。とかそう書く、少し諦めも込めて、というか書くに任せるとそう言っている。諦めないとしたらそれはすごく大変なことだからだ。誰もそうやったりしない。悲しいことに。いや、やる人はいるんだろう。

昨日もほとんど眠れなかった。帰り道の電車では駅員さんに起こされるくらいに寝てたのに。こないだ担当していた写真学校の授業が終わった。毎年何人かの引っかかる生徒がいてくれるおかげで毎年いつも良いんだけど、今年は人数が少なかったから割合たくさん話せた。皆は人によってはもう大人の留学生だけど、身体表現を前にしたとき、僕の見立てが甘いせいか、子供のようにそれぞれの態度で取り組んでいく、少しずついい片鱗が見れる時があって、そのことが結構1年の中でも美しい表現を見た時間として記憶に残っている。

急に自分の言葉でしゃべる時間が奪われてしまうこともある。僕は手応えを使って話そうとしがちなんだろうか。

ドタバタしながら時が過ぎていく。なんと正月からもうひと月が経つなんて。



2023年1月19日木曜日

知らない

 走り出すとドアが閉まり始めて私は全然入れない。後ろからやってくる人。周りを見渡すと全然人はいない。スーパーからの帰り道。気にしないでほしい。声で出来た塊。ネックレス。ワッペン。ボールペン。少しだけ急な坂になっている途中で拾った10年以上前のメガネ。野球ボールは投げると青色に変色。そんなもんだから今日はお味噌汁だけの夜ご飯。帰ったらサザエさん。変な噂がたって近所がざわついた。グリーン。ゴルフ場のベンチにそっと腰を下ろして半分コーヒーで半分ビールの飲み物を本の上にこぼしてしまった。一体どこにいるんだろう?

夜の銀座を歩いていたら以前の感覚を思い出していた。10年は経ってないのに変わってないみたいでいたたまれなくなる。お店の中でずっと一点だけ見つめる時間が訪れた。変だったかな?気にしない。逆にそれでこそ生きているんだと少し思えるのかも。

雪が降ってきそうだから空を見上げても雪は降ってこなかった。それでも見上げてしまう。降りそうな感じがずっとしていた。銀座の通りから見える空がそうだからなのか。

2023年1月10日火曜日

眠れない

 2023年になった。昨日は本番で、本番が終わった後にもまた練習をしに行った。結構身体は動けたし、本番もたくさん動く作品ではなかったので十分に疲れて帰ってきたにも関わらずやはり眠れない。眠れない今日に関してはネガティブなことを考えてぐるぐるしてしまった。以前、眠れないにも関わらずポジティブなことを考えれたので良しとする、みたいな時もあったのは良かったな。

今日はそうじゃない。最近は結構、現実に対してオルタナティブな夢を見ることが多かったので今日もそれが楽しみだったんだけど。やれやれって感じだ。