2026年6月12日金曜日

どらおわ

 暗闇で日記を書く。明日になると恥ずかしくなる。明日の朝は後悔と不安でいつもいっぱいになる。

それの繰り返しを生きてしまっている。


さて、最近の生きる糧となっていった韓国ドラマが終わってしまった。最終話は長いと感じたら、後半の30分ないし20分ほどで怒涛に伏線を回収しにかかってそこだけはドラマじゃないみたいにこれまでのリズムは無視して、それでも涙流して終わりを迎えた。最後のセリフは良かった。聞いたことのない言葉でドラマが終わった。あの20分でドラマの継続がなくなった、ということが現れてしまっていたのか、到底最初から仕組まれているとは思えない。一方でそれにしてもあまりにもすごい力技でこれが韓国の今のドラマの力なのか、なんてことを思った。

みんなは日本のドラマでずっと盛り上がっているような印象を最近は受ける。どうしても日本のドラマをもう見る気になれない。

このドラマの主人公は久しぶりに僕の目の前に現れたヒーローに違いなかった。時代の空気なんて読まない。まっすぐで不器用で気持ちが悪い。ずっとかわいらしげがあって。

ヒロインも最高でほとんどそれに恋をする。

仲間たちも本当にみんな素敵で、みんなのことを応援したくなる。ドラマを見て人生が応援されながら登場人物たちを応援して一生懸命に生きている感じ。ドラマで出来ることを現実でもやろうとしたのが高校生の時だった。その時のことを振り返ると、そんな風にドラマを見ることも出来るということ。読み替えるとか強く読み込むということもドラマに対してだって出来る。そしてそれを現実の中にも叶えていく。

このドラマが終わって悲しい。家に帰ってご飯を食べながら彼らと過ごしていると半分韓国に生きているようになる。近いようで遠い別の文化の国の話、少しだけ違ったり重なったりが嬉しかったり美しかったり憧れたりする。彼らの交わすカムサムニダという言葉の素朴さと永遠的優しさ。

あなたにはこのドラマが良い、とわざわざ紹介してくれたこと、そしてこのドラマが良かったことがめちゃくちゃ嬉しい。そのことこそがこのドラマを自分にとって特別なものにしたことは間違いない。もう一回見直そうかな?

モチベーションはないけど他のドラマを見てみようかな?

誰かと共有出来なくても(?)これは僕のストーリーだ、と大事に思えてよかった、

2026年6月10日水曜日

はな

パフォーマンスから帰ってくる途中、下北沢で降りる。下北沢で終電くらいの時間を過ごしたりするのって高校生の時くらいだった、あれからずいぶん変わったなぁ。

家に帰ってビールを飲みつつ韓国ドラマの続きを見る。一生懸命にこのドラマを見る、というのを生きてしっかりやろうとしているみたいだ、と思った。このドラマの中でよく2人が机を囲んで互いを讃えあうシーンがあるがこれは話を前に進める以上にただ2人の恋人が互いの良さを言うためだけに色んな比喩を駆使して話す、これはシェイクスピアだ、と思った。言葉を楽しむシーン。 主人公も見事にヒーローで、まるでゲームを進めるように現れてくる人たちに対応していく。ド





2026年6月7日日曜日

あの、こ、

韓国ドラマを家で夜ご飯を食べながら見ている。ゴジラは一旦休止中。連続ドラマを見るのはus以来だ。 連続ドラマが日常を応援する。多くの人が音楽を聞きながら人生の一部の時間をよりよく生きようとするみたいにドラマもそのような寄り添う役割があるのかもしれない。それだけじゃない坂口さんのラジオ?を聞いてるのともそこに混ざり合って入ってくる。

実家に帰ると、病気にかかった話を聞いた、というかメールで書いたじゃないと母親に突っ込まれる。いつのまにかiPhoneで文字を打つのが上手くなっていた。何かを失うとはどういうことだろう、それはたぶん同じ失ったにせよ、人それぞれでその空白だったり感じ方も違うのできっと一般化できないのに、何か他と比べてしまうところで感情の決定もいくらか左右されているんじゃないかな。ずいぶん長く幸せな時間を生きてきたような気がする。

今日は調布で高校の友達を見かけた気がする。少し気になったりもした女の子だった。話しかけなかった。そして夜はカフェでパソコンやエアードロップで昔のバイト先の後輩の名前が表示された。そんなことはないだろう、と思ったがなんとその子で、思わず話しかけた。あの頃は大学を出たての自分と高校卒業して大学生となった子たちとの4歳差をずいぶん大きく感じていだが、年をとるごとにその差は感じづらくなっていく。昔会った人たちとの関係というのは切れていくだろう、と思い始めたのは大人になってからだと思う。
最近はそのことへの疑問を持つようになった。そんなことを思い始める大人になってからの自分と小学生の時の頃の自分と比べてどっちが考え方として見習うべきだろうか、と見つめていく。
小さい頃にヒントがたくさんあるような気がしている。坂口さんも、鬱になったりするようになる前の子供に戻るように、いつでもぐっすり眠れた子供の頃に戻るように、と言ってたことにも繋がると思う。

最近はそういうことを考えてる。だから昔の、あの時の、あの頃のことが大事だ。あの頃と今が会えるということを出来れば忘れたくない、すぐ忘れてしまうけど。

2026年6月4日木曜日

どんぶん

 久しぶりのcslabに行く。こんな空間が大学の中にあるなんて、時を得るごとに驚きの増す!むーたんのwsにゲストでなく一お客さんとして参加の新鮮さや困難さ、でもフレッシュさがきっとそれを凌駕する。

明日のストリートの告知をする。

本当にいい年を生きてる大人に思えない!

大学の道を遡るように歩いて少しだけ人生を部分的に反芻する。かけがえない!

2026年5月28日木曜日

おう、

 韓国ドラマを見ている。プラダを着た悪魔2を見た。
それぞれに恋愛のシーンが描かれる。
何度も映画やドラマの中で恋愛シーンが描かれて、たくさんの人がそれを見る。
なぜ何度も、何度もそれが行われるんだろう。
少なくとも今の自分からしか考えられないけども、そんな風にある人と人が出会い、少しずつ、あるいはいきなり、何かを交わし合い、進んでいく、という一連の恋愛の様子を見れることで何か自分の先のことを想像することが出来る。自分にもきっとそういう時間が訪れるんじゃないか、手触りや質感、イメージとか。それはとてもいいことに思える。
可愛らしくてかげかえのないことに思える。
いいじゃないか、自分に何か良いことが起きてほしい、と思うことは。
誰にも見せれない自分の姿を誰かに見せれるような機会があったらいいな、と思えることは。

くだらないだろうか?
そんな風に人が思うことは、きっとなくならない。どんなに色々ひどくても、その気持ちがあることが減らないで、いてほしい。
ドラマの中の2人を、線を眺めるようにして見て、応援している。

2026年5月26日火曜日

メッセ

台湾人の子が、あなたみたいよ、みたいな感じに言って韓国のドラマを勧めてくれた。そのおかげでやっと初めてネットフリックスに入った。

そんな風に勧められると嬉しい。台湾の子が韓国のドラマを日本人に勧める、みたいな感覚が面白い。

そしてドラマを見始める。よっぽどじゃないと基本的にはドラマというのは見ようと思わない、というのもドラマというのは大体セリフで成り立つものというイメージがあって、確かに考えられたセリフもあるけども、人から人へ伝えられる言葉はもう少し偶然性によって出来ているのが自然で、そうでないものをわざわざ見る動機がなかなか出てこない。

しかし、このドラマの中のヒロインが可愛い。韓国に住んでのロマンについて想像せずにはいられなくなる。恋をして、そこに季節があって道や家や駅があって、その街並みに生活をする空想。憧れが広がる。

そしてドラマって基本的に人工的にこうまでして"愛".について描かれる。"愛"については多少過剰でも構わない分野かもしれない、普通に生活していくだけだと恋とかはあっても人間への"愛"の想像は難しい。だからみんなドラマを見るのかな?

それはとっても力強くて可愛らしいメッセージかもな、

2026年5月23日土曜日

より、

最近はよく友達と遊んでいる。かもしれない。そうか、こないだ話していて確かに昔であれば飲み会の時間をもったいないと思っていた。だからなるべく飲み会とかもしなかった、全てを作ることみたいなものに注ごうとしていた、だから時間の管理とか生きている理由とかもそこにあったかもしれない。

なし崩し的な部分と意識的な部分がそれとは違う自分をだんだんと形成していったように思う。社会も変化していったのもあると思う。以前であれば飲み会で話されることは無駄のように思っていたが、そうではなくてそこにも人の何かがなだれこんでくると思うようになった。それも含めての“生きている"みたいに思うようになっていった、と思う。前までは友達はいなくても何か向かう際に仲間のように走れること、その瞬間や時間こそが開かれているべきで、その瞬間ばかりを求めていた。他の経営者の人のインタビューなどで最近そのような意見をいまだに言っている人がいて驚いてしまった、今の考えとしてはもっと色んな時間が友達とかとの間にも流れているはずなのだから。でもそれにしては、友達を頼りとしたようなプライベートのことを話したり聞いたりというのは多くあるだろうか、といえば全然まだまだかもしれない。もっと人に話してもいいのかもしれない。弱いところを見せる、とはそういうことかもしれない。 何か時代が以前とは違って、強く見せても結局のところいよいよどうしようもなく難しいところまで来ているのかもしれない。

一方ででも最近の自分のバランスとしては、その時の生きようとしていたモチベーションを再び取り戻せないか、と思っている。過去と現在進行形のブレンドで古いようなでも何か刷新されたような考えを自分の中での進み具合として手に入れられないかなぁ、人生において、と思うのだ。これに関しては周りは関係ない。

生きていればいいのだから、色々周りに比べて出来ていなかろうが、そんなことは関係ないどころか、そんな何かは存在しないんじゃないだろうか?もっともっと複雑に全体を見渡すべきだ。そうしていくと明日や今日や昨日はより全体的に総合的にいつも広がっていると感じられる、というところに辿り着いた。


日本語や言葉を遊ぶこと。

伝えるためだけにそれらがあるわけでもない、今書いている自分がどこかへ行くために使って構わないんだきゃら。