2024年9月4日水曜日

九月

 案の定、体調を崩してしまい、ぜひ今度会ったらやんわりと注意を促したい。だってこれで結構色んな仕事にも影響が出ている。

そして明日の朝からの勤務。明日は肉体労働で少し緊張。体力が万全でないとその分辛いのが目に見えているから。でもここ数日は早く寝ているおかげでなんだか夜の苛まれは減っている気がして、今夜も気持ちがどこかメルヘン。眠れないのに、眠れない=回復遅いのにも関わらずどこか気持ちはメルヘン。携帯を取り出さないでどこかメルヘンのままがベターかも知れなかったけどこの気持ちもあった、ということを。

2024年8月31日土曜日

滅入る

 ここ連日、バイトも続いて疲れが溜まる日が続いてこの数日はちょっと体調を壊しそうって感じで、なんとか昨日少し取り戻せるような睡眠を得たけども十分ではなくて、とうとう今日の夜で、それで眠いしこれで明日はゆっくり起きて本番に備えよう、などと思うが、こういう日に限って上の階から呑気な重低音が聞こえてくるのがわかる。気にしてしまって眠れない。音楽をやるくせに重低音が下に行くことなどわかってないうセンスの悪いやつなんだろうな、とかどうでもいいことが巡り巡って眠れなくなる。今日に限ったことではないのでそろそろ管理会社に連絡しようか、などと思う。というより、本当は自分で注意しに行くべきだと思い外まで出るがそこまでの勇気と気力が足りない。管理会社なんかに頼るから、人のコミュニーションをしようという気がどんどん落ちていくんだろう、大体管理会社って何も仕事してなさそう、あの配管が詰まったと伝えたのにそれから何も言ってこない。色んなことがブラックボックスのようで相手のことがわからない。隣の部屋の人は最近見ないが生きているんだろうか。

どんどん生きるに値しない社会みたいに感じる方が楽な気がする。滅入る、滅入る。


2024年8月24日土曜日

せんたく

考えてみればコロナが始まってからずっと想像力が元気なかったんじゃないだろうか。スランプとか言ってると坂口恭平的には調子乗るな、ということになるわけだけど自分的にはよく人生の何かを指してスランプだとかその時期ごとさえ比較したがるのか、そういう風に指してしまう。 もう少し前は見ていたことがいっぱいあって、それだから出てくることや面白いことがあったような。 最近は本当にどうだろうね?

ふと自転車でプールから秋に向けて立ち止まる交差点で、自分がいつの間にかひどい顔をしていることに気づいた。息も上がってる。何か大きいことがあるわけでもないのに日々に疲れている。くたびれている。

秋田にいた時はこんな顔をしていたっけ?と思った。それは全て用意されていたからそんな顔にならなかっただけ??なんでかこんな風に緊張していて、でも東京で楽しい〜!が正義になるなんてことはありえないんだろうか。 ちょっと抽象的で検証できないかもな。

インスタにたくさんの踊りの映像が出てきてうんざりしてしまう。自分が踊らないなら観にこなかった友達のような子がいて、それはある意味で正解だと思ったし、青木さんの舞台のソロダンスの舞台に上がってきちゃった子がいた、面白い話だ。ダンスを見て実際にどうとか、そんなことは本当はどうでもいいかもしれない。それよりこの話が面白くないだろうか。人間なんて見たくないなぁと、ぼんやり思う事は色んな人にあると思う。

最近はランニングと公園とプールを行き来してミックスする時期を楽しんでる。本当はこれにもっと歩くやつともう少し室内での踊りとリズムトレーニングとかも入れたい。

最近嬉しかった事は洗濯機を買い替えたこと。まだ届いてないけど、ジャンク回収品とかじゃないとなんか自分で選んで買った嬉しさがあるし、家電が良くなるのも嬉しいんだね。あとは掃除機も良くなると嬉しいな。ささやかだけど。

生活も大変だけど。

いい言葉を聞いて、まぁいいじゃんという気持ち。

2024年8月17日土曜日

お腹

 今日は在宅で6時間パソコンに初めて向かった。通勤すると大体、他の業務も入るのでずっとパソコンということがないからだ。なので最初は不安だったが、最初の山を越えると少し違う気分になってそのまま行けた。次回あったらどうなるかわからないけど。台風もあり変な日だった。 ようやくひと通りの時間をこの街の付近で過ごすことになってやっとここに住んでいるような気がしてきた。 秋田市にいた頃はそこから別の街に行くのも時間的に余裕がないこともあり、とにかく街の中で済ませようとして結果として街と生活が結び付いていく、コンテクストとともに。そういう感覚があった。

たくさんの嵐があった日だったから街には人が少ないし、みんな翻弄されていて街や人に向けての意識は二の次で身を守ろうと動いている姿ばかりが散見された。

また、最近は再び意識的に映画でも見ていこうかな、なんて思っている。そういえばある時期までは同じ映画はなるべく見ないでなるべく新しいものを見るようにしていたことがあったが、ある時期にもうそれなりに見たはずだから好きなものはもう一度見てよし、というふうにしてから夏になるとこれ、とか冬はこれ、とかして毎年見たい映画シリーズみたいのが生まれていった。

なんか改めてどんどん映像が流れゆく時代だけども悪あがきとしてリソースとして再び意識的に映画を観ていこうかな。今夜はビューティフルドリーマーを観る。映画専攻にいたおかげで色んな映画や本やバンドを友達に教えてもらったな。

今夜、眠ろうとすると鈴虫みたいなある高さの虫の音がずっと鳴っている。電線の高さとはまた違って風流だ。あっちは冷房の音かな?

隣の引っ越してきた人と偶然鉢合わせして軽く会釈すると後ろから再び声をかけられて少し話す。珍しいね、このご時世で。嬉しかった。

今日は結構、絵も進んだ。複数の絵に取り掛かっている。そしてそれは夜のランニングとも地続きだ。互いをサポートする。

夢を見よう、今日も知ってるようで知らない街の夢を見たいな。微妙に現実と設定がいつもズレている。

100歳まで生きようとか言ってたけど、それはあくまで目標くらいに思ってたけど2024年と数え出したうちの100年でも見ることが出来たらそれなりに何かを会得した感じってするんじゃないか、と具体的なことを思った。

それにしてもあの検査を再び9月にしてみるけど、嫌な結果じゃないといいな、。

ご飯をまた遅い時間に食べてしまって胃腸をこれじゃ休められないと反省。明日も14時間くらい空けるつもり。

2024年8月15日木曜日

帰、

 秋田の幸せな日々から東京に帰ってきた。昨年と比べてもう一回り小さなチームでの連携で、今回の目的はそれはそれで昨年とはまた違う困難さを伴っているものでもあったけど身に起きた災難以外は穏やかな中でちゃんと意志を強く持って進めることが出来たと思う。 もっと余裕があればあんなことやこんなこともやれたかもしれない。それでもたとえばワークショップを終えてみんなで話して、そこに新しく来た人もいてワークを共有し、昼ごはんを食べようと安いスイカを買ってスイカ割りしたり、率直にこの仕事ばかりに目を向けて、ここで、やるんだ、と動け続けていたのはなんというか本当に幸せだ。東京に帰ってくると改めて大義名分が立て難くなっているのを感じる。なぜ、ここでこんな状況の中でまで何か特筆して表現する必要があるのか、と。誰が表現を必要としているのか?みんな結構表現する人は表現する人でたくさんいてやっているわけだから、次はどうするべきなのか、そもそも東京はどうすべきなのか、そもそも考えるべきじゃないのか。東京とはたとえば今言うなれば色んな情報のデータアーカイブがあるデスクトップくらいな感じ?ここでは表現ってよりアーカイブのオルタナティブを示は形にデスクトップだから結果的になっちゃうみたいな?、

お寿司もスイカも向こうは安くて、泊まった場所もなんだか昔おばあちゃんの家に泊まった時のことを思い出した。少し潮の匂いもしたと思う。


ただそれはやる事があったからの話かもしれない。無為の時間が増えていったらどうだろう。

新幹線で帰るのはいつも以上に何か、わたし、帰るって感じがあった。でも旅はもっともっと続けなければならないし、今住んでいる場所をもっと住む必要もきっともっとある。全然生きている理由はわからなくなったままなんだから。焦っている。

東京に帰ってくる、渋谷駅で降りるとこの喧騒はまるで東京じゃないみたいだった。どこかの東南アジアの繁華街みたいな異文化の流れ込みをノリ自体への影響として感じた。



2024年7月26日金曜日

20年前

20年も前の映画になってしまった。ずっと見てなくてDVDも持っていたけどやはり後半の部分に腰が上がらなくてそのまま時間が過ぎ、でも見た記憶や画面の美しさはずっと残ったままでいた。

まだ途中までしか見返していないのだけど、なんと美しいことだろう。2人の俳優のその世界にいる、ということがずっとまだ美しいままであった。

そしてこの映画が過去と現在を行き来することが、今の自分と過ぎていった過去と比較して見ることが出来るようになっていた。あの高校生の時だったらそんな風に見れなかった。

たとえそれがフィクションの映画であったとしても、その有名なシーンはリアルなのか?と問われれば、それにしたって強くメタファーとしても機能していると感じた。前途多難であろうと、誰かを最後に届けるために全力を捧げるということが、美してくて。若い時は僕は未来を明るく見ようと思っていたのかもしれない、だから余計にそこからいなくなる、ということに対してなんでだろうとか疑問とかがあった。けど大人になっていくと、どうだろう、未来の大きさや見えていることが変わったんだろうか、そういうことへの反発も少なくなっている気がする。

映画の人たちは反抗していた。

そしてヒロインの子はずっとそれまで甘えたりしなかったのに最後のチャンスが奪われた時にやっとそのパートナーに甘える。どこにも行くことの出来ないパートナーは空に叫ぶしかない。


色んな記憶とともに20年前のことが少し思い出されて、少し悔しい気持ちになる。でも、まだ思い出せるということが大事だと思う。たぶんもっと色んな記憶と生きる事が出来る、、し、、そんなに簡単に折り合いをつけることが出来ない。過去や未来を行き来するし、あの人とこの人の間も行き来する、複雑にしか生きられない、

そしてこれを書くのは映画を見ている時だけにこの想いが存在していたことをしたくない、書く時にまた思い出したりして気持ちを延命させたい。

2024年7月21日日曜日

どどめる

 今の気持ちを消えてしまう前に留めようと文章にしてみるのと、面白い文章というかテキストをさて書こうというのは違う試みで、夜に書くのは前者の方だ。それは昼間に良いテキストを書こうとかとにかく書くをしたくて書くをするのとは別のことのように思う。

そして何が書きたかったかの気持ちも忘れる。昔はこんなふうに文章を扱わなかった。mixiがあってそこから人に向けての媒体で何か書くようになった。その時はいい文章も書いていたと思うし、いい文章じゃないなら書くべきじゃないとも同時に思った。何かエネルギーになるようなことのアベレージを目指そうとしたがうまくはいかなかったけど、たまに機能もしていたように思う。でもいつからかどうにもならなさ、とかテキストに書いたところでうまく描写することも難しいのに何かその時のことを留めようと、なのか、表現においてクソの部分もやれる場所が必要と思った。どうでもいい、とか。応えたくない、とか、

最近は相変わらずちょっと変な夢を見るし、久しぶりに会うやつが夢の中にいる。みんなありがとな、