困った、眠れない。先週から体調を崩し、夏風邪、エアコンをかけれないと思いそうすると熱くて眠れない。困った、3日ほどそれが続く。朝は調整は出来る日だったのでまぁまぁ、だけども。
にしてもケータイばかり見て、動く体力はそれほどないから。でも夕方振り絞って動く時間は快適ではあった。
今夜、暗闇の中で手探りに潜っていくことの出来るスペースがいくつかあったんだから眠れないことも捨てたもんじゃなく、そして眠れない時間と共に生きていると言える。
明日はワークショップだから頭が爽快な状態で子供には対峙したいところ。
気付いたらインドネシアでもらったエネルギーがそろそろ切れてきた、、
気のせい、と自分で言い切らない限りそうならないからね!自分を変えて生きていきたいなぁ。
でもいい音楽は鳴っている。引き続き。
こないだ観た映画、映画館から飛び出して自転車を漕いで坂道を駆け上がっていく車じゃないけど音楽がその坂道とスピードと相まって私を光にしていく。ウォールフラワーという映画があって、車に乗って無限だ、というセリフがある。まさにあの映画のような。光になる。
ストレンジャーシングスが思っていたものと違ったけど楽しんで見ている。韓国のドラマを教えてくれたインターンの友人は帰ってしまう、もう少し話していたらよかったなぁ。 ウィノナライダーが出て、ロードオブザリングのサムが出てくる、相変わらずサムだ。プロムが出てくる。ほら、僕たちはプロムっていいよねぇーと盛り上がったのを覚えている。そんなことまだ言っている1人だ。スパイダーマンの舞台はニューヨークで20年前にサムライミのを観た時、現実としても素晴らしかった街ニューヨークにフィクションとしての一面をもたらすことに成功した映画だった。しかし今やニューヨークはどうだろう?現実としてはあの頃の輝きは半減してそうと外側から見て思う、そうなるとそこでのフィクションの価値もあり方も下がると思う、スパイダーマンが頑張ることの意味も変わってくる。要するにハリウッドは反対側を描かないことによって、もう一方の想像力を掻き立てた?いえいえ、ハリウッドでなく世界が、だろうか。
こんなことを思う。SNSは反対側を描くことによって世界の現実の広がりを見せてくれる。現実のすごさを、たくさん今までよりも観ることが可能になる。一方で、夢的な、フィクション的な想像というのは見れていない世界があったからその面積に対してエネルギーとして浮かび上がってくるものだったのかもしれない。
子供たちがプロダンサーになろうというのは、現実的で社会的な夢に属す気がしている。僕がダンスを始めた理由もそうだった。1人きりのもしかしたら仲間との秘密の小さな頃の夢、ではなくて、現実を面白くやっていくためのクールなアイディアだった。しかし大人が大変になった時に戻っていきたい時間というのはその前のもっと根本的で想像的な時間の方なんじゃないか。どうかな。
スパイダーマンが昔の友人と再び握手をする時に涙が出そうになる。ままごとを見た時も、ファンタスティックビーストを見た時も。ストレンジャーシングスは子供たちが主人公であることが、今も重要な気がする。子供たちは仲間を作って誰も見たことも聞いたこともない冒険に出会してしまいたい。
プロムのシーン、踊れなかった子、なぜあれほどまでに上手くいかなかったのだろう、と自分のことを振り返る。これは健全になってきている証拠だ、自分の事を中心に考えるという意味において。 振り返れば踊れはしてきたんだ、僕の人生は。ただそれは踊る人だったから踊る人としてその時間が流れていたんだ。あの時はかけがえのない時間としていくらか残ったんだけど。もしかしたらそうした時間単位でしか残っていかないのかもしれない。
何か変な次元に生き続けている、