またしても映画館で間違えてしまった。レイトショーのチケットを入り口で機械に読み込ませると、ピーとなって従業員の人が見ると別の館の予約をしてしまったらしい。たまたま10分後に同じ映画をやるというので改めてチケットを買った。やれやれ、だ。
久しぶりに地元の映画館で観る。なんだかこのショッピングモールにはやっぱり20年以上前からの思い出が詰まっている。働いていたアイスクリーム屋はすでにないが、ここにあったということは今でも強く結びつきを感じてしまう。
よくバイト後にも時間を見つけては映画を見に行っていた。大学を卒業し、7年くらいは冴えない時を過ごしたような気もする。フリマのバイトも懐かしい、あの時のグレイ色の時間は蓄積したままだ。
リドリースコットの映画をオデュッセイアの代わりにたまたま観ることになった。非常に変な映画で変なタイミングで観た。エンディングも変で、映画というにふさわしい時間だった。あんなに有名な監督なのに、この作品のことなんて誰も日本じゃ気にしないだろう、みたいな映画の時間だった。でもめちゃなんかそれもよかった。もちろん全然語れるような映画でもあるけど、どうでもいい気もしたし、すごくどうでも良くないような気もした。終わりにかけてクリントイーストウッドが映画人生から引退した話を思い出した。リドリースコットも一種、過激で映画を駆け抜けた人で、もしかしたら最後の方の作品になるかもしれない、その中でこのような作品をとった、というようにも感じられるものだった。何も気にせずにエネルギーもお金もアイディアもあって、しかもそれもアメリカで、というのが可能だった時代。
ここに来て歴史の重みも一方で強く感じられるような現代になってきて、映画という大衆的なメディアを通してそれでも200年ほどの歴史の中の文化を中心に展開せざるをえない国の方法の限界みたいなことも思った。それでパンデミック後の世界を描いたとて。全然違う宗教、文化、考え方による人間の生き方があるよ〜みたいなことを思ったりもした。
あかたも当たり前にそれを享受しきって来てしまったけどね、それは日本という強くアメリカへの憧れを持って進展した場所において。
映画館を出るとちょうどそれは過去に何度もレイトショーを観たあとの時間と同じくらいだというのも感じた。あの時、あの通りの照明に照らされて駄弁っていた人たちがいたっけなぁ、とか。思うのだった。