2019年4月26日金曜日

雨降りそう

やはり今日は朝に仕事がないために起きたら昼前で、寝坊だった。スケジュールを考えるなら。
だから結局、片付けや絵を描くことは出来なくて楽器に触ることだけいくらかしたあとに家を出る。これかは都心に向かってカフェなんかでパソコンをいじってデータをダウンロードしたりの小さなあれこれをおこなったら待ち合わせの時間になるだろう。
先日まで行われていた展示では珍しい名前がいくつか芳名帳にのっていた。
高校の友達、中学の友達。
あの時の複雑に多層的で物理的な友達との関係をこれからも作っていけるのだろうか、言い表すのが難しい。

15歳の頃の自分からの今の自分への変化は、今の自分から45歳までの変化として作ることは可能なのかと考える。今はあの時より経済が絡んで来るから、果たしてどうしたものか。今、こうしてその時間のことさえ相対的に扱えるような気分であることが大事かもしれない。

2019年4月12日金曜日

半分眠い。
シーズンばかり聴いている。
早朝のバイト先はやることが少なく余裕を持って接客を出来る。受ける方も然り。忙しい時間があるからこその猶予の時間なのか、都会の仕事の立地においては。

シーズンを通底している切ないメロディーは歌の最初の方はその波よりもむしろバイオリンの音色に乗っていて、トンネルを出た後にむしろそっちに乗っかるように作成者により舗装されている。トンネルを出ると違う景色が見えてくる、まさにそれで、水の綺麗な、感覚の研ぎ澄まされた自然の中に出るのだ。一方でパーカッションの音にも十分乗れてはしゃげるパートがあり、これははしゃぐと書いたがむしろそこでしっかり運転者ならハンドルを、後部座席に乗るものであれば手すりなりに掴まりながらしっかり乗ることで確実なものにそのドライブ体験がなっていくようなそんな時間と言える。そんな気がしたよ。

うまくやっているかい?
と久しぶりに彼が聞いていく。
大学生と接する中であまりに現実的なことを求めているが、自分の事を思い返せば随分、そこでは自意識という、見えない意識を扱っていたじゃないかと、いうことを思い出している。それが誰も知らない遠くへ案内したじゃないか。前より行きにくく雑草が生い茂っていないだろうか?そんなことをこの曲を聴いて思い出して。