2020年1月21日火曜日

car speed and human body

今日も映画を観た。
先日、病院の検査でクレアチニンの数値が高いと指摘された。調べると腎臓が悪いということだった。明日、病院に行くのでもう一回聞いてみようと思う。
そう年末から体調崩してからほとんど家の近くの映画館によく行っている。考えてみれば劇場やライブハウス、展示などに行くのはやはりもう少しコミュニティ、社会に出て行く感じがある。映画館なら誰にも会わない、もう少し自分の中での時間軸を大事にしているという感じがする。そのことと体調を崩してペインティングばかり描いている時間というのは少し似てどちらもこもっている感じがする。
書きながらなんかちょっと、変なリズムがお腹の方でする、これは腎臓が悪いというのは塩分などを控えないといけないことに対して大きなポップコーンの塩味&キャラメル+コーラを2日続けて摂取したことが引き起こしているのか、帰ったらどうしよう、ランニングでもして少し紛らそうかな。

今日はフォードvsフェラーリを観た。
観る前、これはよくある対立構造と切磋琢磨、友情あたりを扱う作品かな、なんて思っていたんだけど予想よりも入り組んでいるし、もういくつかの側面が足されて描かれている。この映画を通していくつか頭に浮かんだことばがあり、
つまり映画とは万華鏡のようで手に取ることが出来てそれを覗けば光が差し込み色がよりいくつもに分かれて回して楽しくなるように、大きな画面と、照明や太陽などの光が差し込み人の動きが立体で動きそこに音楽があてられ観ているこちらの身体もまるで動き出すことを誘われるように映画館の中で時間を過ごす。

また車の速さを思った。
スピードに対し、感動するということがあるのではないだろうか。その速さの果ての、映画のセリフの中でもあるようなことをそう言えば踊っている中で発したことがあった、つまり身体だけになる、みたいな。
果てしなく速くて、ただそこに自己の肉体だけがマシーンの中にあった際にその景色をどう思うか、感動はあるのだろうか。
速すぎたり、遠すぎたり、離れすぎたりするということは強い孤独を生む、その孤独は旅の孤独とは違うのか。

1人で映画を観始めたのは18,9年も前になる。映画を1人で見始めた時に自身の人生が始まる、とも少し言えるのかもしれない。
18,9年くらいはまだ映画を見て人生が照らされるように感動している。
この先のことはわからないって思いは強まるが、しっかり"その映画"を観たように自分の仕事や世界にまなざしを向け取り組む事をやらなきゃいけない。
また少しでも、すばらしいwonderfulな映画がきっとどこかで生まれるように、準備をしなければいけない。
そんな風に描けるようにすべてをなるべく注ぐように取り組んでいくべきだ、

2020年1月20日月曜日

燃費

今日は誕生日だ。
32になる。
誕生日のこの日良かったことといえば呪いのように先月から続いていた風邪(それだけではない)が劇的に良くなったと思えるくらい回復。多分あと数日で治る、そう思うと明日からの平日に耳鼻科へ行こうと思っていたプランはなくなる、と同時に健康での2日の予定を新たに立てる気まんまんなのだけどそれは見切り発車で、皮膚科に久しぶりに寄るべきではないのか、あの数値を確かめに行くべきでなかったのか。絵を描く時間をとるか病院に行く時間をとるか、だろうか。
いや、そこは病院へ行こうよ。

飴屋さんの本をもらったので、それを読み始める。もらわなかったら読まなかっただろうな。飴屋さんはいつも気になる、誰しも気になる人ではあると思う。だけど独特な距離感で知っていて、そうこの距離感なんだと思う。いやそういうことすら書くべきじゃなく、ただ頭に浮かんだりする、そういうことが大事なんじゃないだろうか。

今日どうしても絵を描くこととダンスの練習会に参加することはしたかったから、その2つは達成。
夜は練習を早めに切り上げて映画館でイーストウッド。
イーストウッドは毎回、社会派映画をとる。
ということは毎年、その主題を取材し制作に取り掛かっているんじゃないだろうか。随分おじいさんなのに多くのことを知り、人に伝えるように作る、という作業をしてることになる、と前にこの作品の予告編を観た時に思ったのだった。そしてまたこの想いがやってきた。
ニュースやらで想像されればそれでちゃんと頭に入ってくることだってできるのにやはり映画を見ることで想像の手助けをしてもらっているみたいだ。
なんというか燃費が悪い。

相変わらず燃費の悪い男がまた一つ歳を重ねた。

2020年1月11日土曜日

pink and blue

今はtychoのjapanってのを聴いている。ちょくちょくそういう風に曲のタイトルに土地の名前がつくということがある。適当もあるだろうし、実際に行って思い入れがあるというのもあるだろう。

昨晩アップリンクにマリッジストーリーを観に行った、普通なら大きな映画館でやるだろう、だってアダムドライバーにスカーレットヨハンソンなんだから。なんてことを狭い席に座って思った。だけどこの手作り映画館はやはりどこかかわいくて家のようだ、小さい室内で少し席の離れたところでする物音や話し声がこの空間のことを少し愛おしくもさせるのは映画の序盤、入りかけの観客だから許されるかなぁ。

この映画が終わりとても1人であることを感じたのか。
RENTを今は観たいんだ、ということを思い出していた。
なぜ10年前あんな気持ちを持ったのか、ここには誰にもわかってもらえない、場所がない思っていた。
今、そんな気分。

ここで今まで作ってきた答えだって、今ここにいるから生まれてきた。返答集だ。
他に話せたかもしれないことが、言葉が、動きが、行動が、生まれないとしたら作れなかったとしたら泣いてしまいそう。

この10年でどこかに投げた言葉はすぐに壁があって、戻ってくる、何を言っても社会的なものになってしまう。
何百年も前、海の向こうに国があったかどうかもわからない時代が懐かしい。

身の周りを考えた社会的な制作に取り組まず、遠い宇宙のことを考えるんだ。