2021年12月2日木曜日

そのピアノの出だしで泣いてしまう

 映画を見た。
主人公が歌い始め、彼を中心とした世界が始まる。もちろん意識を戻せヴァ、まったく彼を気にしない世界が動いている。
ミュージカルは独白を映す。
でも自意識とか思春期ってほとんどそれで出来てる。
それでどこか懐かしくなって、忘れていたことがもう一度どこどこと音を立てて引き出しから出てくるようにして、もう一回!とやってくる。
映画見てたらもう一回何か出来るような気がしてくるのだ。
まだやれていないこと、やれなかったために苦しんでるものがあるような気がして、、いや、気づいて。

机の上に昨日、美しかったもみじがのっている。

SNSの時代、でもどこか誰かに見て欲しくて。
年を重ねていくとなるべくオープンになって、実際的になって、やることが現実的になって。
子供っぽいだろうか?この感覚。
でもそれが世界に響く可能性は?ない?

もう一回、美しいかもしれないと思う、今思える言葉をなるべくどこかに書こうとする。
自分がこう生きたいを誰からのフィードバックも気にしないところで書いておくことは可能かな。
そう思い立ってベット(布団)の上でこれを書く。
布団よりベットの方が決まって見えるから。でも今は布団の上だ。

こういったミュージカルの感傷なんて今後、大人の社会では使えないだろうか?

学生の頃、たくさん公開される日記に恥ずかしいことを書いては次の日、学校でみんなに会うのが恥ずかしくなっていた。

2つ自分がいることを会った時になんとか調整してわかってもらうことは出来るだろうか、そんな努力は不要だろうか、芸術に邁進するなら気にしなくていいことかも。でも芸術はあなたとの間に起きるものでもあるから、ここに、あなたの目の前にも私は立つ必要があり。

美しい曲を書きたいと思った。
こういうことは20年くらい前にも思ったことだ。
ずっとその時の気持ちが続いていることもとっても大事なんだ。

よし

2021年11月28日日曜日

それと光

 眠れない夜にぼくは1つの線を闇に描きたくなり、棒を手にする。深夜の棒。をまっすぐふかくさしこんでたてにひきさいていく、まっすぐの線は横にたまにズレながら切り裂き傷が左右に引っ張られるようにして出来ていく。闇は黒く、山は暗く、あたりは沈んでいく。ちょうど周りの白い汚れのように見えるやつが大体実は光で。

地球からその光たちのことをぼくは星と呼んだりする。 ぼくとくまはすぐに隣にいてずっと黙ったまま突っ立っていて"あてもなくわけもなく"。忘れた頃にまた形がぼんやりと浮かび上がってくる。

ぜんぶそれらは真上の頂上で行われていたからきっと雨が頭に届くくらいの時間がかかってやっと伝わるだろう。

、、、

それまではコーヒーを飲みにちょっとそこへ行こう。

僕らは丸いテーブルの上にカップを置いてコーヒーがドリップされるのを待つ。雨の中にたまに混じっているんだ。うまくいったから今夜はすぐに2人でコーヒーを飲むことが出きた。くまがコップを使ってコーヒーを飲むのを見るのはかわいい。ごくごく。

やがて静かなそこに青い車が走ってきて止まる。乗り込んだり誘われたりもしない。ただ雨の中、ライトを2つ前方につけて走ってきたブルーの車がうつくしいのだ。くるまの中にくまがいるよ、、耳元で小さなささやき声が聞こえて振り向くとなにもなくなってしまっていた。

テーブルの上であおいくるまもくまもあめも失ってしまった。再びなにもかも失ってしまったからだがとぼとぼと闇の中を歩く。わたしにはからだがある。からだがあるから闇の中にからだをおける。

なぜ、闇なんて言うんだろ。闇を借りてくるんだろう。闇はカーテンの種類の一つくらいのもので、そんなにすぐ闇、闇、借りて言うなよ。そうも今の体でぼくは思えるんだった。

目を開くと明るくてさまざまな色が飛び込んできた。ぼくの命より先に光があったし、色もあったし、今ぼくはそこに参加している。海の満ち引きもそうだけど、光のグラデーションの中にいない瞬間がない。全部が動いている。死んでいない。黒から白まで光まで赤や黄色いや青木やみどりにつたもちつたもはっぱもおいしげるおいしいみずもおじさんも花もいろんな理由もそのわけも理由も自由も色もカタカナも映画もホワイト語も、わたしたちは全部持っている。持ち歩いていていつも溢れこぼれ、落として空気で上昇し歩いている。キスをしたい。

夜中それに気付くと画面が雨で濡れていった。

その状態で今度は夢の中にグーでジャンプし入っていこうと思う。

人と話す時、こんな風に話せない。あふれる想いは伝わる言葉に、音に変換され互いを飛び交う。でもこのかわるがわるのうつくしい光の中を生きているとどうしてももっと違うことばで話したくなってしまう、もっともっともっともっとどうにかして光をあびてしまいたくてしまいたいな、よ。


いきなりどこで泣いてもばかじゃないうそじゃないほんとうじゃない、それしかない。

2021年10月24日日曜日

最近

 段々寒くなってきた。この毛布らだけで大丈夫かな?心配になってきた。 夜ご飯を食べながら映画館で衝撃を受けた宮本から君へ、をAmazon primeで見始める。 そういえばこれ峯田君がインスタで誉めててその後に映画館で観たのだった。峯田君がすごい褒めてて、どんなもんじゃいと見に行ったら日本映画、、ごめんなさい、すごいと思った経験でした。今回、パソコンの小さな画面で見ると改めてどうかな?

最近は世田谷公園のあたりまで走って一周してというランニングコースを走るようになった。が多摩川を走ってたときはたぶん5kmで今のところだと3kmとか、、うーん微妙っちゃ微妙だけど。まぁ様子見で。

少しずつ怪我は良くなっている気がする。少しずつ観劇や鑑賞が再び戻りつつある。

変な技術習得への取り組みの時間がもっと必要だ。出来れば12月に向けてもう少し料理の腕を上げる期間がほしい。レストランでバイトでもする、、とか?なしじゃない気がする、、が時間はいずれにせよあんまりないのだ、、

2021年10月14日木曜日

道路のネズミ

 一平くんと小暮さんのダンスを見た今夜、いてもたってもいられなくなりとにかく少しでもとランニングを、、いや、正直早い段階で今日は帰ったらランニングしようとは決めていたのだけど、それを実行した。帰り道、道路の真ん中の方に盛り上がった物体を発見。いつからか雨とかだとカエルとかがいるんじゃないかと物体などがある程度の大きさであれば見てしまいがち。で、その流れで見てみるとネズミの死骸だった。いつもなら素通りだけど、何かどこか反省モードでせめてもう一回ひかれる心配のない道路脇に死体を移動してやるのはどうか、と思いいたり、うろちょろし何かその死体を運ぶためのものを探してやっと見つけた段ボールの破片を使って身体をそこにのせ運び置いた。あの場所で良かったのだろうか。はっぱをのせ、手を合わせて一礼をした。


2021年10月7日木曜日

 Ostrichの初日が終わったけどあんまりその感じがしなくて明日も劇場に行き稽古し調整し本番中もそこで参加するお客さんと一緒に調整しようとする、というのが上演という気がする。

僕がいわゆるダンスの現場ばかりにいたわけじゃなくどっちかと言えば演劇での小屋入りの方が数えたら多くなってるかもしれないからかそこで育てられた何か基準みたいのはありそう。

とにかく1日目。このチームで作れることがうれしい。率直に。文化祭に参加するのが好きだった高校生の頃、そのことを思い出す。ずっとまだその時間が好きだし、その時に過ごした人とのことも思い出す。

本番を通して観客の人が入ってくるということがいつからかその瞬間だけ作ることに参加することだと思うようになったんだ。 

大塚はいい街で日に日に好きになる、池袋より好きになっちゃいそう。大塚の街の話し始め方が好きだ。どのように話し始めるかがいいなぁと思う、憧れも入っている。

あと2日、ともかく卵をあたためるように、それまでは熱くやろう。

2021年9月21日火曜日

思うをできる

 信じられないことに、とても信じがたいことにこんなに疲れているのにやはり例によって眠れない。明日からそのまま空港から稽古だというのに困った。

ここ一年くらいか疲れているのに眠れないという事態が生じやすくなったように思う。コロナのせいなのか、年齢のせいなのか。考えてしまう。

直前まで眠たい頭を起こし作業に取り組んでいたからなのか、眠りにつくことが出来ない。この作業中の中で昼寝がてら10分横になるということさえ組み込んだ時間もあったのに!よし寝るぞと準備をし布団に入ったら肝心の眠るに入っていくことが出来ない。

ホテルの引き出しに睡眠薬でも、、、あるわけがない。飛行機の中では寝てしまうだろう、機内でしたかった考え事も進めたかった仕事もお預けだ。悲しい。

夢の中に入れなかったことでダメージを受けるのはむしろ現実の方で、現実の方でやっつけれていない仕事の方で出来ない時間が蓄積されそのストレスの方が溜まっていく。 悪い循環だ。考えなきゃいけない。いや、考えない方がいいのかもしれない。かっこ悪い悩みだ、スムースじゃない、全然スムースクリミナルじゃない。そういうところが我ながらある、けどそんなイメージは外側からは持たれていないかもしれない。そう思うとそっち側から変えられて裏返るということもあるなぁ。

裏返るといえばリバーシブル。先日飛行機の上から見渡した街の映像があったと思えば今日は地上からフェニックスの形をした空を撮影した。スケールが行き来する。Tシャツを羽織る時、一瞬目の前が見えなくなって覆い隠されて、私たちはどこかへ行ってすぐに戻って来ている。それとももしかしたら裏返された世界は全く違う世界を着てしまっているのかもしれない。

Tシャツ逆だよ、と言う友達の世界が反転せよ、という合図かもしれない、と思う時。私たちは背中を合わせて裏側をアクションする一瞬の身振り。

小節の中で辿り着く新しいイデアに

接続詞で終わっても。はつけない。

。をつけずに空白に接続せよ、と思う

この広がる白に接続せよ、と思う

願うまでは行かない、思う、ということなら私の中でやれそうだから。ダンスをするくらい簡単に私の中で願うより思うはやれることとしてあるんだ。そのことが美しいと思う。やれることはそんなに多くないけど、この小さなやれることが愛おしい。アリに出来ることが少ないみたいに人に出来ることも少ない、けどきっとそれでアリ達は話せるみたいに私たちもいれる、と思う。思うは今強い。



2021年9月5日日曜日

ぬくもる

 信じられなことに一瞬で眠れなくなってしまった。今日は早起きでずっと1日通して眠くて、なんならそういう時は油断すると体調を崩しかねないそういう危ういバランスを我ながら感じつつ乗り切る。乗り切りやっとたどり着いた就寝なのに、なんてことだろう、眠れなくなってしまった。 困った。 体力を回復しなかったらどうしよう。 そういえばこの9月を面白く乗り越えられるんだろうか、という不安があってそれは、いくつかのプロジェクトが重なってあるのにそこがぼんやりしていてフォーカスが定まっていない感じがある。このままほとんどのプロジェクトを面白く出来なかったとしたらという不安がある。 そのためにも明日を体力十分で迎えることはかなり重要なのだ、、そのことを考えると余計に頭が焦る。 このことはコロナ前からあった気がするが、もう少し調整が可能だった気がする。

そういえばこうして眠れない時は掛け布団を部分的にかけたり外したりするためか、冷えてるとこやあたためられた部分があることに気付き、ひんやりさせたいところにはまだ冷えてる部分のある掛け布団をもってきてあてたり、そういう風にして使うというのはずーっと前からやってきたことだと思うが、それは少し掛け布団を生きているように扱うみたいだな、とか思う。 ぬくもり。 ぬくもる。

ぬくもる、なんて動詞はないが思わず動詞化させようとしたり、、



2021年9月3日金曜日

秋の前

 この家で夜にゴミを出しに行くとすればほとんど深夜で、あまりひと通りもない。そうするとふわっとした空気が流れていて、木の揺れる音や照明の光、その辺の家の側面、そっちに伸びる道路とかの真ん中に私が立つ。向かいの家はどうやら3F建てみたいなんだけど、昔ながらの日本の家って感じでたくさんの植物が少しだけ飛び出すように生えている。これらをこの空気の流れがある中で見たり、見上げている時間がとっても好きだ。ゴミ出しが私を解放するみたいな。

逆に言うと夜帰ってからの家での過ごし方がうまく回ってないなぁと感じることの方が多い。ぼんやり携帯を片手に1時間過ぎてしまって慌ててなんてことがよくある。どうしちゃったんだろう、やることたくさんあるのに。 最近は改めて何かを練習する時間を意識的に用意出来るようになろうとしていたことを思い出したりしていて、出来ればもう一回そういう風に生活を立て直し、目標に近付きたいなぁと自分の中で思っています。

季節はすっかり秋になりそう。 

2021年8月24日火曜日

不思議な8月

 不思議な8月を過ごしている。昨年とはまた違う。日本に関して言えばそれぞれが全然違う時間を過ごしているように感じられる。海外を入れればもっとかもしれない。SNSを通して何か過ごした時が修正、整理され集まり直されるような効果を作ることが出来ていた気がするのだけど、違う時間をきっと見てるような気がする。


その外で過ごす時間が充実しているというか、友達たちのおかげで確認出来ていることがあるなぁって。ならそれをもう少しシェア出来るようなことも考えなければ、と今度はSNSでの人の発言などを見ていて慌てて思うのだった。

今日はオストリッチのミーティング。まだみんな低空飛行な感じする、だって今年は昨年よりそれぞれにやることがほかにあるような気がしている。だけれども気を引き締めて取り組まねば。 このオストリッチのミーティングは、いつのまにか泣きそうになる瞬間があったことを思い出した。全部を言えるわけじゃない、限られた時間と空間が集約されたzoomというメディアを通したアクティビティだから。それぞれメンバーが集まるとそれぞれの役割というのがあって、誰かは誰かにシンパシーを抱いて、とかそういう線が少し想像される気がしてうれしいのだった。再演、頑張りたい。

昨日はwwfesの会議で広太さんは厳しい顔をしてミーティングに参加していたように思う。誰よりも早く整理されたプログラムを用意し、全体に関して危機感を抱いている。このプロジェクト、失敗は出来ないよ、って。第一線で誰よりも活躍してきた、誰よりも先にダンスの概念や物理的な衝撃を世界中でプレゼンしてきた人なのに。

そういうそれぞれの状況が始まりつつある中で、やっぱしwater boysのドラマを見ると泣いてしまって。それで、自身に出来うることをもう一回検討したいと思うんだった。人生で出来ること。

少しずつ生活から改善したい、、

どうかな、

2021年7月31日土曜日

ねむれないにつかまるよる

 眠れない捕まってしまった。朝早い日に限ってうまく寝るための何かを少しでも怠るとつかまりやすくなってしまうみたいに。

今住んでる街はいつか形容するならこうだと考えているあてたい言い回しがあってそれは、小さい頃に全部の電気を消すのは怖いのでせめて豆電球をつけたままか、部屋のドアをあけたまま階段の電気がこぼれて入るようにしていたことがあって、その色のような、真っ暗にはしないで豆電球だけつけておくような夜を迎える街なんだ。それは都心の隣にあるということなのかもしれない。ここには昔から住んでいた人と思しき老人たちやその家族と最近になって新しく入ってきたような人が見受けられるように思う。駅前のスタバなんかでの人の行き来を見ていると。

日本はそういった地域のことに力を入れてきたのかというとそうでもないような気がする。というのは自分の身を振り返ってそう思うし、ハードルの高さを感じる。それは自分の責任としても感じるべきことのようにも思う。

夏に読み切りたい本が5冊もある。ここ数年読むスピードも読むのに充てる時間もめっきり減っているので自信ないけど、読みたい興奮には包まれている。

apafのリハーサルも始まった。だんだんと少しずつあたたまってはきている、けど昨年のようなモチベーションを果たしてどう作れるかなって心配があったけど今日の稽古は良かった。これは引き続き想像力にかかっている、どのようにしてそれが成し遂げられるか、をギリギリまで考えること。もしそれが出来るなら作品は出来る、、というかなんというか少しでもチームが良くなっていける、ということなんだと思う。そしてチームとは広い意味でだ。チームを広くとらえようとすることだ。

ウォーターボーイズのドラマを見ている。18年前に放送されていたんだね。 青春のきらめきとプールのきらめきが重なって目に映り込み涙が出てくる。彼らが口にする今しかない、ということや、やらなければ過ぎ去ってしまうことへの眼差しを見ていると自分の目にそれが移ってきてどうしたっていられなくなる。高校生の頃、もちろん現実を前にあんなロマンチックな横顔をその都度していたわけじゃなくてただ、目の前のことに出来ることを現実的に取り組んでいた。(と思う。実際はむさ苦しく勘違い野郎みたいだったかも)

その走っていたことにやっと気付いたのは卒業式の次の日の朝ごはんを食べていた時だったのを覚えている。今日はもう学校に行かないということに遅く起きてスパゲッティを食べている時に急に涙が出て来たのだった。

これからの学校や青春さえコロナなどをきっかけに変化していくかもしれない、きっと問題点も多くあるだろうし。そうすると今までのような時の追いかけ方とは変わっていくのかもしれない。そういえば昨年、その舞台が終わってチームみんなでやはり画面上で顔合わせた時だったか、それともメインチームだけの集まりの時だったか、似たような感情に包まれていたんだった。

現実とそういった感情との関係は全然まだわからないことばかりだ。けどもう一回ドラマを見返しながら、胸を熱くして今度はどういうことを考えれるか、人と生きようと出来るか、努力出来るかとか、なんかそういう気分が見ている最中は起きてくる。

33歳なんだけど、もっと複雑に考えよう。100歳まで生きるとしたらもっと複雑に考えていくべきだ。(そこから考えるとやはり高校や青春映画っていうのもあまりにも限定的過ぎる話でもあるな!汗)

描いてしまいがちなのが20〜30代と偏りがあるから(人口割合のせいももちろん今まではあったろう)、多くの人は老人までいる状態での国のあり方を考えれてないというのがあるかもな。


2021年7月25日日曜日

約束

 ずっと頭の中をレスターがほんのり流れていって。たまに自分でも練習っていってギターを片手に歌う。口ずさみもする。レスターをよく聞いていたのは大学生の頃だ。夕方に目覚めて大学に向かう時間と歌詞の中の夕方4時が近い時間を示すために、引力のようなもので引き合った結果だろうか。

彼にとってのレスターのような曲を作ることが出来ないか、そう考えている。何かが待っているような気がして、それでそのことが作れるんだという気分を作っている。

色んなことに待ってもらっているような感じがある。待っているそこに向けて様々な準備に時間がかかっているという感じ。

歌が待っているみたいな感覚。

淡い約束をどこかで交わしたような感覚。生きているうちにそのしたかも定かじゃないような約束、確か待っていてくれてるはずというようなものに向かって進む時間や気持ちを忘れないように。

2021年7月16日金曜日

目を閉じる

 この夜の間に起きたいくつかのこと。それはコロナに関する最近、僕が結構見ている大木チャンネルから飛んであるコロナ患者を積極的に見ている開業医の記事。なぜ開業医たちにコロナ患者を見るような事を医師会が促してくれないのか、ということ。朝生でクリアな発言をよくしていた大木さんが気になって見ると、自身でYouTubeチャンネルを作ってコロナに関しての番組をいくつも作って説明してくれている。(あべさん支持者なのだけが気がかりだが、、まぁそれよりもともかく今は情報が必要だ)その大木さんがシェアしてた記事から飛んで読んだ。 結局、緊急事態宣言というのはなんのために出されているのか、これだけを見ているところ医療逼迫というかそもそも医療体制をずっと用意出来ていないのだからということになってしまう。そんなことは実はあんまりSNSでも言われていない、僕のタイムラインだと東さんとか三浦さんとかは言ってるかな、、?

さてさて、この家には窓が少ないから夜ゴミを捨てる時に道路を挟んで隣の家の庭には迫り出すようにいくつかの種類の緑が植えられていて、これを風呂上がりの体で風が涼しく吹く中で一瞬だけ目に入れることがとても気持ち良く感じられる。

そして振付家からのおすすめで瞳を閉じてについての映像が送られてくる。素晴らしい映像で、懐かしい。生きたこともない時代を懐かしいと感じる、戻って一緒にその景色をその心で感じたいと思ってしまう。過去に対してそのように思うことについて、保坂さんの小説を読むようになってから強く感じるようになった。そのようにして僕らは過去とともに現在を生きている。だからこの気持ちも大事にしていいのかもしれない。今起きている事もそのうちそうして過去になる。

こないだ展示が終わりました。たくさんの人に来てもらえてありがたかったです。今回は思いがけない懐かしい人とかがとにかく来てくれた。アートがどう、とかではなく。色んな友人たちが来てくれて喋ったりすることが出来た。コロナというのもきっと大きかった気がする。今日電車の中で振り返ると、たとえば誰かと話をする時って約束を取り付けて会うというのが今ほとんどだけど。そうじゃなくて、展示で待っていると色んな人が会いにとか、いっちょいってやるかと来てくれたことは相当にこの時期に対して恵まれていたこと、救われたことだった。

と言いつつ、やはり説明をたくさんするうちにくたびれてもしまったけど。色んな人に会えたことが大きかった。


2021年7月7日水曜日

人生で1番嬉しかったことは何かと思い出して人に話すときによくあげているのは中学1年生の頃に野球部でぎりぎり20番のゼッケンをもらってベンチ入りが決まった瞬間の時と答える。その時の景色を鮮明に覚えている、気がする。

その後、中学2年の途中で野球部はやめてしまった。中学2年生くらいから映画を観たり音楽を意識的に聴くようになって(歌詞とか読んだり)すると段々何か周りとの調整の中で価値観が決まるのでなく、自分がどう考え言葉にしたり作るのかということに意識も努力も向かっていくようになってしまった。

野球部のゼッケンが嬉しかった時は、主語は自分にありそうでなくて、みんなが自分だったように思う。

そのあと自分で作るようになっていくと、どこか引いて見ている自分が出て来て実際問題何かをクリアすると同時に別の何かが起きていない状態というのがなくなってエンドレスで終わりのない状態に入ってしまってそれが続いているように思う。

だからこそあの時のゼッケンをもらった時のことが対比的にずっと鮮明にある。


今日、映像作品を見ていたら感動してしまって、今一緒に生きているということが嬉しくなってしまった。そう思う日が来るとは出会った時は思ってもいないことだ。

10年くらい前を思い出してみると、やっぱりそういう瞬間があったようにこの感動に連鎖して思い出すことが出来た。


今は何も知らないなぁって思う。

今について今、何も知らないなぁって。


お年寄りや子供に会うことも関係してきているかもしれない。

、、、

とここまではfacebookにも書いていたんだけど、最近salyuのnameばかり聴いている。salyuの歌声は好きだけど、実は存分に彼女の歌声をポピュラーソングとして多くの人が集まれる場所のように作られることはついぞなかったように思う。他のトイズファクトリーの歌手などに比して。 そういう中からそれでもsalyuの良さとポピュラー具合が高いところで出来ている曲としてnameを聴くのだ。聴いていると泣きそうになる、この時心の中では頭の中では自分は強く踊っている、そのことと歌い方が重なって出したい感情が溢れて泣きそうになる。 最近は泣きそうになってばかりだ。さみしいんだろうか、とかも考える。素敵な女の子とデートすればさみしさは消えるだろうかとかスーパーで買い物しながら考えていた。それともやっぱしコロナの自粛だろうか。 でもたとえば泣くと昔泣いた時と同じように体が涙を流す工程をえていることがわかるね、鼻をぐすんとする時の鼻の通りとか。泣いている時、そしてこの泣き方だからっていうのもあると思うのだけど、自分の涙だけじゃないような気がする。主語が僕だけじゃない、泣いているいくらかの人たちの涙の一部みたいな感じ。たぶん同じように泣いている人がいくらかいるのをわかっているみたいにして泣く。ライブ見たりして泣く時もきっとそう。個人の涙だけじゃない。その時、その人は1人じゃなくみんな?というよりあるグループになる。こういう動詞みたいのが度々あるような気がする。動詞が全て個人にかかるのでなく、グループなどにかかってくるということがあるような気がする、度々。

おやすみなさい

2021年7月6日火曜日

最近

 左足の親指が痛い。捻挫系の上に曲げたくない系の痛み。そもそもこれは左足の側面をぶつけてしまった怪我を4月にしていてそれでも動いていたことがたぶん原因でかばおうと負担がかかってしまって痛くなってきているんだと思う。この怪我の連鎖ってそういえば昔から。中高生くらいからずっとだ。何かを怪我したまま続けると別の場所を怪我するというやつ。本番までは待ってほしいと毎日思いながら過ごす緊張感は生まれている。

引っ越してからめっきりランニングが減ったけど今日はSNSをきっと眺めすぎて気持ち悪くなってきて散歩にでも出た方がいいと夜思って、それでランニングをすることにした。怪我してた指も靴履いて走るのはそんなに苦じゃない。けど結果的に寝る前に少し痛いし疲れている。まぁ様子見で今週もう一回走りたい。

こないだは展示に姉が来てくれた。直接は誘ってないのに来てくれて、久しぶりに話すのは少しどきどきしたけど段々話すと感覚が戻り、兄妹がいるということを思い出した。思い出したって変だしもちろん姉のことを思い浮かべてる時間も生活の中にちゃんとあるけど、こうして実際的な話をすることが良かった。

最近は当たり前のことにやたら嬉しくなる。人と人がその瞬間を出会いながら踊っているさまとか、両親もまぁ元気そうなこととか。先日、選挙するので実家に寄って両親にちょっとマッサージをした。昨年からちょくちょくしているのだけど、それは自分にとっても確認作業みたいなことだし、他の人にもそのことを知ってほしいから自分でも実践しているところがあるなぁ。親にボケてほしくないように、世間のおじいさんおばあさんにもボケてほしくないし、人と人とが関わり合う交わり合うことを通して刺激的に切磋琢磨してほしい、パフォーマンスが高い状態でありたいと思ってしまうのだ。

あと少しで展示が終わってしまう。出来れば展示がまた次に出来ることとかが決まるといいのになぁ。もうひと頑張り。

2021年7月1日木曜日

目の前

 今日はバイト先の送別会。学生の1人が企画してくれた。ありがたいなと思った。久しぶりに歌舞伎町の居酒屋で沢山の人で埋まる空間に入った。最初、遅れてくるメンバーはみんなおそるおそるマスクを外してお酒を手に取る、そんな感じ。

バイト先には色んな人がいる。そのバイト先を目掛けてさまざまなバックグラウンドを持つ人が集まるから当然なのだけど。逆に言えばアートやダンスに取り組む普段の友人達だってもっと個人的な話を辿れば別々の個人であることがわかるかもしれない。

でもとにかくその居酒屋の時間こそが、そのままそれぞれの違いを飛び越えようとする言葉や、現状のままにしておこうとか、様々な瞬発的な判断や逡巡を得たものにきっと溢れていることが嬉しかった。輝いていた。こういうところが懐かしいと思った、中学や高校、大学の時を思い出した。


楽しくて帰り道、1人になって適当に写真撮ったりして歩いた。

電車に乗ってSNSを開くと同世代のアーティストの訃報を知った。

生きているうち、いつのまにか気付くと誰かが引き抜かれてしまっていると思った。1人ずつそうして引き抜かれてしまうみたいに。

小さい頃、明日の学校が全てだと思っていたことを思い出す。だから友達と喧嘩別れすると明日が怖くて仕方なかった。もう会いたくないのに会わないといけなくて、その会う時はお互いのパフォーマンスにすべてかかっていて、仲直りしちゃったりする。結局ほとんど大人になっても問題は変わっていないような気がする。明日があって、そこでどう出来るか。

そう考えると友達ニアイコール明日、みたいな。そんなことを考えた。気付くと誰かが引き抜かれてしまってかなしい。

泣かなくてもいいのかもしれない。生きていることや目の前に誰かがいるということとか。部屋で1人でも外に出て誰かがいるということ。

最近、稽古場に子供が来ていて結構生まれたてまもない。お母さんとのやりとりに、たぶん本能的に子供が常に強くお母さんを求めている姿があって。

改めて考えることがある。季節が毎年あることが嬉しくて、そのことと改めてというか何度も何かを思い直すようなことを逆に生きている中でずっとやろうとしたりしてもいい。

2021年6月12日土曜日

夏前

 今日は朝から赤坂に行って所属団体が受ける予定の助成金の説明会。先日まで展示をしに行った会社が近くにあったんだよなぁなんて思いながら通り過ぎる。 あんまり寝てなかったのと終わったらすぐ歯医者に行く予定だったのですぐに帰宅。 ふぅん。

少し仮眠し、リハーサルに向けて内容をもう一回考え直しつつ、字幕のやつも確認。展示まで2週間は切ったのに思いの他、絵を描く時間をあんまり作れていなくめ焦る。

最近、アジカンを聴いていてアジカンを聴くと思い出す人がいる。高校の時のバスケ部だった彼だ。彼はほとんど卒業前の最後の方は机に突っ伏して音楽ばかり聴いていた。バンプとアジカンが好きというのは知っていた。他にも何か聴いていたのか。

ぼんやりとそのことが浮かんだりする。 

今日は夕方リハーサルしに行くと別のダンサーたちもリハーサルをする。現実的にテクニカルな舞台の話を色々思いつつも、ダンサーであったり、スタッフの方に会う中で自身のリハーサルをした。それでたぶん今こうして書きながら思い返してみると、たぶん舞台を準備する人たちが自分以外にもせっせと取り組んでいる姿を見た、ということが嬉しかったんだと思う、そのことに今更思っているのかもしれない。

待ち遠しかった夏がやってくる。

コロナだって奪えないだろう。確かに夏を感じれる瞬間を大事にする


2021年6月10日木曜日

奪われた夜

 1ヶ月以上書いてないんだ。書こう書こうと思ってると疲れていて書けなかった。あ、昨年の疲れとは違う疲れが今年は来ている。

日々、楽しいことはあるし、どうぶつえんなんかやる度にその思い出だけでもう十分幸せだとか振り返って思うことがあるくらいなんだけど。

やはり疲れているよ、ずっと夜は奪われたまま。 誰かが盗んだみたいな物言いだけど。そんなことは言えないくらいに自分だって、省みなきゃいけないことは山ほどある。だけど緊急事態宣言つらいな、、我慢している方ではないかもしんないけど、比べてもしょうがない。たぶん原因はこれだと思う。

夜に吠えたい、ロマンチックな部分を全部持っていかれたみたいなこと?月を見る時間が少なくなった。月のような輝きを見る時間も減った。悲しい。毎日少しずつ悲しい。 

2021年5月4日火曜日

帰り路

 1000回以上行き来した街だから実家への道を久しぶりに歩く。

卒業したての頃、お金はないけど時間だけはあった時何回も行き来した。片道45分はかかる。
自転車を買わなかったのは、その金額に躊躇したっていう貧乏性みたいな。でも自転車は中学生の頃になくしてからずっとなかったんだよね。車の免許は今も持ってなくて、海外に行くのだからいらないと思っていたんだけど結局海外にいるわけでもなくて。脚を使った移動以外の可能性についてずっと距離があったのか。

ってかさっき町田で久しぶりに練習して23:30まで使えて、ほとんど人いないけど広場だから途方に暮れた人たちは相変わらずそこにいて、でも街に人は少なくて、そうまだコロナなんだ、不思議な時間を生きているなぁと思った。

歩いている途中、止めたママチャリにまたがってダベる2人の若い女性のうち1人が、この体勢疲れてきたぁーなんて話が耳に入る頃、数日前に訃報を知った西川さんという1_wallに出ていたグラフィックの人のことを思い出した。彼女の作品はグラフィックなのに強くて、絵の前にそれなりに人を置いて見させる時間を生むような強さがあった、これからの活躍や作品の展開を想像していた。確か35歳とかだった。

これから色々失っていくのか、ってか今まで失って来ていないのかもしれないし、失ったくせにその喪失をそれほど感じてないのかもしれない、と失うことについて考えようとしたら色々思い始めた。

この歩いている道のポイントは畑も横に通り過ぎることで、近くに施設などもある、坂道や公園もある。カエルが鳴く時期もあって、宮沢賢治のことを考えたりもちょくちょくするんだよね、銀河鉄道の夜とか。100年以上も前のことを考えるけど、このことは過去の去ったことであると同時に今のことでもある、一緒に今生きているということでもある、そのことが強く大事みたいなことを少し前に読んだ時間という本の中で書いていた。
これって本当にすごいことだね、生きていることの中にもっともっと色々なことを込めることが出来るのかもしれない、すごい悲しくなってしまうことが増えたり多くなったら、元気なことを取り入れてあげて悲しいことをなくさずに一緒にいさせてあげることも出来るかもしれない。

あと少しで到着。

2021年4月26日月曜日

噴水の前で

新しい新居での生活は慌ただしく、まるで毎日仮設のパフォーマンスを組んでるみたいなところがある。生活と呼べない、準備は足りていない、その営み手前のパフォーマンスのような段階。これが少しづつ成長すると生活になるのだろうか、そういうことを初歩的に思いながら毎日を積み重ねていく。あんまり走ったり、歌ったりしづらくはなっていてどうしたものかと思っている。少しづつ慣れよう。

今日は学生の頃の友達に会った。結構ふざけていて楽しかった。コロナのせいかそれぞれが仕事ばかりに追われている感じがしなくて、話題もそっちのプレッシャーに押されたりなんかせずに話している時間だったと思う、、、ってか僕は話し過ぎただっけか?wすまんすまん、、いや、そんなことないよって言われそうだけど。 今度、パーティーもしそう。楽しみだな、学生の頃みたいじゃんってどこか思うんだけど、実はそういうのも悪くない時は全然悪くないのだ。日本だと年を取るにつれて何か若い頃に戻るようなことは恥ずかしいような、辿るべきではないような感じがあるが、たぶんうまくやれそうならむしろやることで若い人を(というか自分のある側面を)許していけるし、出来ることがきっと人生において増えるんじゃないかって漠然とした希望もあるのだ。って今度のパーティーにそんな大袈裟な希望を抱かれても、だなw

まぁいずれにせよ!

2021年4月19日月曜日

山あり谷あり

 今日は本当に久しぶりに疲れた。25knほどの距離を自転車で12kgほどの荷物を背負って移動した。

田園都市線沿いというのは山あり谷ありじゃなく、山と谷しかないってくらいに下っては上がるを繰り返す。これが多摩川を越えて世田谷に来たあたりからほとんど平地になっていく、これは本当に驚いた。自転車だと歩き以上に上り下りというのを意識することにも気付いた。自動車だとどうだろう?

なので前半とかは何がスーパーフラットだ、どこが平坦だとか訳のわからない怒りがずっとこみ上げながら走っていた。自分で把握してなかったためにこうして怒っているのか、そもそも人としてのレベルが低いから怒っているのか、それともこの怒るみたいなことはどういうことなのか、何かの源泉なのかとかも少し考える。2時間10分の予想時間を大幅に越えてほぼ3時間半ほどで到着。その後、休んで少し整理して練習に出かけた。

この自転車で走っている時もなぜ、今日予約してしまったんだ、と練習のことについて考えていた。キャンセルをする選択肢もあったけど、何か嫌だった。この嫌だった、がよくある。 今日の場合はなんだろう?と考えてみるとこんな言葉が浮かんできた。1日の身体を動かす習慣や目安は優に越えているから家で休むなり、他の片付けなり整理なりしてもう今日はどこかに行かないでいいんじゃない?という問いに対して出てきた言葉は、今日という日を長く感じる日にしたいから、というのが浮かんだ。

この言葉が十分に自分を説得させた。たとえ練習先で全然疲れて動けなくても、練習場所にさらに自転車を使って向かうことが非常にキツくても予定していた家での整理の作業が到着が遅れてしまったため十分に出来ていなくても、ともかく今日一日を長い日だったと感じるためにはもう一回どこか別の場所や空気に触れることがそうさせる気がして、そうしたのだった。

言葉が面白いと思った。また、今日のイライラはSNSとかに書き込みたくないとも思っていた。言葉にして整理させたくなかった、この怒りなり過ごした時間なりを言葉で説明、整理してしまうのでなく、誰かにはなしたり、ぷんぷん怒った顔してジョークを伝えるなりして過ごせたらどんなに素敵もしれない。SNSをやらないあの人はそんな風に生きているのかもしれない、とかそんなことを思った。文章というやり方が大事な人もいるかもしれないけど、別のやり方が実は無限にあって生き物だった。

憧れるね!

2021年3月10日水曜日

大丈夫じゃないことがない、okの中を生きる

 やつのクビをとりにいくような鋭い目つきと集中力を持ってエモい夜の間を何倍にも広げてナイフで切り裂かれていくくうかんのなかで手探りのこのてはきっと音楽みたいにすてきなメロディを伴いきりひらいているからその音域を自由にとぶ飛行機のひこうきぐもは暗闇でもしっかりと演奏される。円走する。

こと音を出せばひねれば高音が出ると言うから高い音がなってずっとそこで飛んでいる。

"飛んでいる"って書いて思い出しているクラブの空間で"私の曲!"がかかってずっとジャンプして飛び跳ねていた子の事。そのジャンプが永遠に続いていてずっと泣いていた。嬉しくて。ずーっとそこにいた。永遠に覚えている。忘れない。

そういう思い出があるから負けない。ふたたびたましい。たましいなんて遅い言葉!遅い身体!早いイメージ!今日も夜中、歩いているとグングンと車が追い越していく。光はもっと早い。光の速い中に私たちはいて、いつもお互いを光の中で確認する。目を瞑っても聴こえるからそれでも大丈夫。大丈夫じゃないことがない。オールオーケー!本当に信号みたいに三色を点滅して世界中が生きているみたいに本当に夜、美しいものが見たいともう何万回も決意と祈りをしている。10分じゃない!! 

起きているときに夢を見るんだ。

2021年3月5日金曜日

そんな風に立っていれば良いんだね、

 たまたまアップルミュージックの中で出てきたcoccoで、小学生ぶりに聞いてみようと聞いてみたらすごい良くて、調べたら元々バレエダンサーであったこと、色々合点がいって急に接近した。

裸足で歌うこと、身体の地面に対しての乗り方と前を見つめる目や顔の向き方、体を流れる空気とか、そういうものを一気に感じた気になって、これだ、と思った。

singer songerもすごいね、くるりが用意した完璧な特急列車の窓から歌が聞こえてくるみたい。歌が最後に途切れた時にやっとくるりとわかる、みたいな。

自分の声がどんな風に世界に現れるか知ってるみたいだ。空気のようにいつも歌っていた、と言っていて今、自分が辿り着いてやろうと試みていることを沖縄の人は生活のなかで自然と生まれているのだろうか。すごいね。とても素敵だと思った。 素敵なものに出会ったら、今目の前にしている素敵だと自分が思えることをもっとやったりあとはこれから出会うことを想像してみたりしていると、少しいつも切羽詰まったものと違う空気が一瞬とかいっとき、もう少し長くと続く気がするね。

すごい、いけそう、きっと自分にも出来そう、よし、うん、


2021年2月25日木曜日

はんぶんめのなか

 誰もいなくなった ら あるいてあるいて目的地までわたしは。 暗くなったライトが照らさなくなった世界を半目でみている。ことばよりも前に出たくて涙を浮かべるしかなくなる。わたしは海にいたいのと叫ぶ子供たちを道路で思い出している。

コロナが長く続いて誰にも会えない気がしてくる。子供たちが溢れてしまうのを見て一瞬で子供の時に引き戻されて一緒にほとんど泣きそうになってしまう。 隠れんぼのように、このまま誰にも会えない夜を続けたくなってしまう。ある意味で子供の頃に戻れないとするならある人たちとの隠れんぼはずっと続いているということか。


2021年2月3日水曜日

カールスバーグ。

 どこにもいけない感じがつらいなぁ。
いけるっちゃいけるんだけど、そうじゃないというか。
自分の欲望に対して出来ることが少ないというか、発車出来ないような。
どこにもいけないみたいだ。SNSに活路を見出すも混戦状態というか。向こうの先を見れないクラウド、人の群になっていて。したい話が通らないだろうこと。
平然を装ってるように見えるから尚更厳しいのか。全部が錯覚かもしれない。
夜、大量に買ったカールスバーグにたどり着くのだけがフレッシュ、みたいだ。

2021年1月10日日曜日

言い切る

 今年しかないと思って生きるようなことが最近少なくなった気がする。最近とかいう前は歳をとると、というフレーズをつけそうになったけど、最近の尺度を伸ばして広い範囲を指す言葉として最近を使ったのだけど、それさえすでに遅し、というか蛇足で、このせいで態度への覚悟を濁らせる。

言い切る速さとは本当に永遠だなぁ。

永遠の使い方が昭和的だ。ランボーは昭和より以前のくせに、多くの日本人にとっては翻訳の結果、昭和のものとして受け取られてしまったんじゃないだろうか。

いずれにせよ、今年しかないと思って生きることを目指せるのはどの瞬間だろう。誰も見ていないところか、言い切れるところを探さないと。

すたっとそこからも消え去る