今日はバイト先の送別会。学生の1人が企画してくれた。ありがたいなと思った。久しぶりに歌舞伎町の居酒屋で沢山の人で埋まる空間に入った。最初、遅れてくるメンバーはみんなおそるおそるマスクを外してお酒を手に取る、そんな感じ。
バイト先には色んな人がいる。そのバイト先を目掛けてさまざまなバックグラウンドを持つ人が集まるから当然なのだけど。逆に言えばアートやダンスに取り組む普段の友人達だってもっと個人的な話を辿れば別々の個人であることがわかるかもしれない。
でもとにかくその居酒屋の時間こそが、そのままそれぞれの違いを飛び越えようとする言葉や、現状のままにしておこうとか、様々な瞬発的な判断や逡巡を得たものにきっと溢れていることが嬉しかった。輝いていた。こういうところが懐かしいと思った、中学や高校、大学の時を思い出した。
楽しくて帰り道、1人になって適当に写真撮ったりして歩いた。
電車に乗ってSNSを開くと同世代のアーティストの訃報を知った。
生きているうち、いつのまにか気付くと誰かが引き抜かれてしまっていると思った。1人ずつそうして引き抜かれてしまうみたいに。
小さい頃、明日の学校が全てだと思っていたことを思い出す。だから友達と喧嘩別れすると明日が怖くて仕方なかった。もう会いたくないのに会わないといけなくて、その会う時はお互いのパフォーマンスにすべてかかっていて、仲直りしちゃったりする。結局ほとんど大人になっても問題は変わっていないような気がする。明日があって、そこでどう出来るか。
そう考えると友達ニアイコール明日、みたいな。そんなことを考えた。気付くと誰かが引き抜かれてしまってかなしい。
泣かなくてもいいのかもしれない。生きていることや目の前に誰かがいるということとか。部屋で1人でも外に出て誰かがいるということ。
最近、稽古場に子供が来ていて結構生まれたてまもない。お母さんとのやりとりに、たぶん本能的に子供が常に強くお母さんを求めている姿があって。
改めて考えることがある。季節が毎年あることが嬉しくて、そのことと改めてというか何度も何かを思い直すようなことを逆に生きている中でずっとやろうとしたりしてもいい。
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