人生で1番嬉しかったことは何かと思い出して人に話すときによくあげているのは中学1年生の頃に野球部でぎりぎり20番のゼッケンをもらってベンチ入りが決まった瞬間の時と答える。その時の景色を鮮明に覚えている、気がする。
その後、中学2年の途中で野球部はやめてしまった。中学2年生くらいから映画を観たり音楽を意識的に聴くようになって(歌詞とか読んだり)すると段々何か周りとの調整の中で価値観が決まるのでなく、自分がどう考え言葉にしたり作るのかということに意識も努力も向かっていくようになってしまった。
野球部のゼッケンが嬉しかった時は、主語は自分にありそうでなくて、みんなが自分だったように思う。
そのあと自分で作るようになっていくと、どこか引いて見ている自分が出て来て実際問題何かをクリアすると同時に別の何かが起きていない状態というのがなくなってエンドレスで終わりのない状態に入ってしまってそれが続いているように思う。
だからこそあの時のゼッケンをもらった時のことが対比的にずっと鮮明にある。
今日、映像作品を見ていたら感動してしまって、今一緒に生きているということが嬉しくなってしまった。そう思う日が来るとは出会った時は思ってもいないことだ。
10年くらい前を思い出してみると、やっぱりそういう瞬間があったようにこの感動に連鎖して思い出すことが出来た。
今は何も知らないなぁって思う。
今について今、何も知らないなぁって。
お年寄りや子供に会うことも関係してきているかもしれない。
、、、
とここまではfacebookにも書いていたんだけど、最近salyuのnameばかり聴いている。salyuの歌声は好きだけど、実は存分に彼女の歌声をポピュラーソングとして多くの人が集まれる場所のように作られることはついぞなかったように思う。他のトイズファクトリーの歌手などに比して。 そういう中からそれでもsalyuの良さとポピュラー具合が高いところで出来ている曲としてnameを聴くのだ。聴いていると泣きそうになる、この時心の中では頭の中では自分は強く踊っている、そのことと歌い方が重なって出したい感情が溢れて泣きそうになる。 最近は泣きそうになってばかりだ。さみしいんだろうか、とかも考える。素敵な女の子とデートすればさみしさは消えるだろうかとかスーパーで買い物しながら考えていた。それともやっぱしコロナの自粛だろうか。 でもたとえば泣くと昔泣いた時と同じように体が涙を流す工程をえていることがわかるね、鼻をぐすんとする時の鼻の通りとか。泣いている時、そしてこの泣き方だからっていうのもあると思うのだけど、自分の涙だけじゃないような気がする。主語が僕だけじゃない、泣いているいくらかの人たちの涙の一部みたいな感じ。たぶん同じように泣いている人がいくらかいるのをわかっているみたいにして泣く。ライブ見たりして泣く時もきっとそう。個人の涙だけじゃない。その時、その人は1人じゃなくみんな?というよりあるグループになる。こういう動詞みたいのが度々あるような気がする。動詞が全て個人にかかるのでなく、グループなどにかかってくるということがあるような気がする、度々。
おやすみなさい
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