東京に戻ってきた。帰ってくるとなぜ、ここにいるんだろうという気持ちになる。なぜ、あのまま韓国でなく台湾でなく秋田でなく名古屋でないのか。
またしても眠れない。最近の自分の成果はこの眠れないことを書くくらいしかないのでは、と思う。段々といくらか文脈を共有した周りの世界との距離が今は色々あってきつく感じられる。 鬱の人の声のパターンは数種類しかなく、その声に耳をすませるとただ体を持っていかれるというようことを坂口恭平が言っていた。元気な人の声というのは逆に無数にパターンがあるとかいう。なんていうことだろう。
今年は本に書かれたテキストこそが自分を最も興奮させる芸術の一つだったように感じられる。坂口恭平の話も面白かった。あれは昨年か今年か。それはテキストではなく今まさに喋られる言葉と音楽だった。言葉を放つための準備と実践があり、音楽は別にそれを聴くためでなくあなたがやってください。ということだったと思う。 基本的には自分も今は民衆の解放のような気がする、これは広太さんも言っていたエントロピーだっけかな?また新しいワード。一部の人の権利のための芸術、なぜ、となる。
イスラエルがパレスチナを進行し続けた歴史とダンスのことを関連して考えてしまう。スペースのこととか。中国が香港や台湾を内包してしまうのには賛成出来ないが中国の文化には圧倒的な関心がある。
しかし西洋のダンスを考えるとスペースの支配みたいなことを考えてしまうところはあるかもしれない。それで今結構、集団でスペースを占領するようなダンスにうんざりもしている。
肉体で埋まってしまうとか、ナルシズムの意識でスペースが埋まってしまうとか、じゃなくて風が吹いていてほしい。雰囲気は違うけど岸田劉生の描いた坂道の先に青空がある絵。そういう風に意味を読み込むのは絵画において二次的かもしれないけど、風があの坂道に抜けていくのだけずっと知っている、みたいなダンスのことかもしれない。ずっと言葉にできなかった違和感をさすならそれかもしれない。そこには風に吹かれている人がいるのかも。劇場には風が吹かないからそのことをずっと考えている。劇場に来る人は風を見たいなんか思ってない。人を待っているだろうけど。
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