数日前にYouTubeで香港で良くしてくれた友達が今はジャーナリストになってウクライナにずっとついている。そのことを考えればここで生きるなんて容易いじゃないかって、香港で自由に生きるよりもまだ動ける国じゃないかって。近い人や社会と比べるから考えてしまうことと遠い何かと比べるから考えてしまうことがあって。もう少しいずれにせよ、そのYouTubeをチェックした方が良いかもしれない。
千葉雅也さんがTwitterが何かで生きてたところでって思う気持ちがわからなくもない、みたいなのが流れてきた。そのこと自体がわからなくもない、って思ってしまって、ほんとになんてこった、やれやれ、だ。神妙な言葉さえ使いたくなくて辛うじて軽妙な言葉で事態ごとごまかそうとする。
みんな真面目にやりやがって、ふざけろ、もっと、と。
こないだ踊りの帰り際に我らがめいちゃんに、コメディアンでポエムなんですよ、と言われたのが嬉しかった。見られていると思った。逆にそれでコメディであること。そして詩であること。が改めて大事な要素かもしれないと思った。
渚のシンドバッドという映画を観た。浜崎あゆみがよかった。主役の子も。恋人たちという同じ監督の映画を数年前に見た時は全然良くなかった。というか、なんだろう、時代が経つに連れて映画も濡れっぽくなっていくんだけど90年代にはどこかカラッと渇いた感じが武映画にも共通してある気がする。なんにもないんだ、っていう。
神妙になるほど良くないと思う。
昨日で仕事がひと段落したので景気付けに映画を観に行く。アントマン。選んで失敗したと思って見ていた。アベンジャーズなのにいつのまにかスターウォーズみたいだし、なにこのアメリカの茶番って毎回思いながら数年経ってしまった。でも最後の方は今度の展覧会のプランを想像しながら観ていた。
実は今年は展示系の誘いが少なからずあって、しかも自由度も高い。頑張りどころだ。
一方で劇場はどうかというと、全くわからなくなってきてしまっている。早いところいいものでも見て刷新しないと居場所がなくなってしまう気がする。
観劇していてもずっと外のことを考えてしまうのだ。今なぜこれを観るために人が集められているのか、別のやり方がなかったか、舞台に立ってる人の頑張りはどこへ向かうのか、それよりもまだ話されてない組み合わせの話があるのでは、とかそういうことを考えてしまう。
逆に言えばその設計を組み込めば出来る面白いことがあるということだと思うんだけど、、そしたらそれはもうやることがあるということなんだけど。
書く前よりは元気になっている、
スマホを通さずとも目の前の人にコメディや、詩を、チャンスはいつも、
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