2020年10月1日木曜日

タクシーの詩は良かった

 今夜は疲れている。東京に帰ってきてからまた1日の中で頭痛やちょっとの体勢のズレで疲れてしまったり、目の奥や頭が痛く集中出来なくなるやつ、錯覚で呼吸も不安になるやつ、がやってくる。こんながいつも続くなら結構東京にいるのダメかもしんないな。じゃあどこかに行くのはどうなの?どうなんだろう。そもそもモチベーションがないかもしんない。

時間的には今日は結構いいやりくりが出来た日だったと思う。うん。展示も見に行ったり、スタジオでも練習出来たし、絵も少しとりかかれたし、オンラインの方も少しだけやりとりをした。

すれ違いざまの友達にまるでエスカレーターみたいに通過していくね、遠くから言われた。その通りだった、あの次の電車に乗ることこそが優先事項で目指された先になっていた。久しぶりの再会だったのに。

原宿のスタジオからの帰り道、人気のない原宿から渋谷にかけては4、5月を思い出す。あの時はたくさん空間と時間があって、誰かに会いたくてよくあの曲を聴きながら歩いていた。昼なのに夜にふさわしいキラキラした曲を聴くのだった、戻ってきてほしい時間のことだった。

夜はAmazonプライムのドラマを観た。インド系の彼はスラムドックミリオネアに出ていた。恋人との出会いの一連の流れが素晴らしく興奮したのだけど、これは映画あるあるの恋が生まれるところっていうのはやっぱり一番なんていうか興奮して瑞々しくフレッシュな輝きを観客に与えるのは当たり前か、だって複雑になってギスギスを瑞々しく表現し観客に興奮し初恋のような気持ちを与えるなんてそれは無理な話だから。当たり前なのかもしんないけど、相変わらずやはりその一連の流れにすごく引き込まれているのだった。

誰の目も気にせずに新しいことに日々飛び込めたらどんなに素晴らしいだろう。

そういう気持ちがあるからなのか、いつも誰かと一緒にいるというのは出来ないのか、かと言って飛び込む勇気もないのか宙ぶらりんなのかもしんない。ともかく言葉を出してみる。

もっと仕事を自由に出来るはずなのに出来ない日本の社会はクソだと思った。仕事の手先こそがそれぞれの未来を作っていく芸術そのものなのに目的は別のことにとってかわられている。怖がりな社会がそうしている。

そのことを考えていると急に竹内さんのことも考えちゃった。いま会いにゆきますは、高校の時に何度か観にいった。女の子とも観に行った、その子のことを好きになろうとは結局しなかった。音楽が好きで何回か行った、不器用な主人公に自分を重ねようと観に行っていたのかもしれない。

その頃はよく竹内さんを見かけたけど、いい女優さんだなんて思ったことは一回もなかった。どこか不自然で、なぜ?って思っていた、なぜこの人に女優をやってもらおうとしているのかわからなかった。

仕事の話と繋げて考えるならば、仕事ということの面白さをあまりにも軽く見ている人たちで作り上げた社会みたいになっていると思う。綺麗だから女優さんにしちゃおう、とかやめた方がいい。様々なことは動詞的に選ばれるべきかもしれない、そしてその動詞にもう少し委ねよう、いいか?みんなで作っている最中なんだ、これは。全員で手を動かしているんだ、ということを確認したい。そこにこそ楽しさがあるじゃないか、楽しさを脇に置いておくなんて馬鹿げている。



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