秋田の幸せな日々から東京に帰ってきた。昨年と比べてもう一回り小さなチームでの連携で、今回の目的はそれはそれで昨年とはまた違う困難さを伴っているものでもあったけど身に起きた災難以外は穏やかな中でちゃんと意志を強く持って進めることが出来たと思う。 もっと余裕があればあんなことやこんなこともやれたかもしれない。それでもたとえばワークショップを終えてみんなで話して、そこに新しく来た人もいてワークを共有し、昼ごはんを食べようと安いスイカを買ってスイカ割りしたり、率直にこの仕事ばかりに目を向けて、ここで、やるんだ、と動け続けていたのはなんというか本当に幸せだ。東京に帰ってくると改めて大義名分が立て難くなっているのを感じる。なぜ、ここでこんな状況の中でまで何か特筆して表現する必要があるのか、と。誰が表現を必要としているのか?みんな結構表現する人は表現する人でたくさんいてやっているわけだから、次はどうするべきなのか、そもそも東京はどうすべきなのか、そもそも考えるべきじゃないのか。東京とはたとえば今言うなれば色んな情報のデータアーカイブがあるデスクトップくらいな感じ?ここでは表現ってよりアーカイブのオルタナティブを示は形にデスクトップだから結果的になっちゃうみたいな?、
お寿司もスイカも向こうは安くて、泊まった場所もなんだか昔おばあちゃんの家に泊まった時のことを思い出した。少し潮の匂いもしたと思う。
ただそれはやる事があったからの話かもしれない。無為の時間が増えていったらどうだろう。
新幹線で帰るのはいつも以上に何か、わたし、帰るって感じがあった。でも旅はもっともっと続けなければならないし、今住んでいる場所をもっと住む必要もきっともっとある。全然生きている理由はわからなくなったままなんだから。焦っている。
東京に帰ってくる、渋谷駅で降りるとこの喧騒はまるで東京じゃないみたいだった。どこかの東南アジアの繁華街みたいな異文化の流れ込みをノリ自体への影響として感じた。
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