2024年11月24日日曜日

歌空

 少しずつ色んなことが思い出されていく。やりたかったこととか。たぶんやっぱりコロナが起きていった時期は大きくて色んな計画が意識的と無意識的な両輪でズレていって時間を大いに割ければ修正を図ることが出来たかもしれない。が、今思い出されたのが今、だ。

今日は長い1日だった。

1日の締めくくりにスタジオを借りて踊った。調子は戻りつつある。なぜならこの動きをしたいというのにアクセスし取り組めるようになっていると感じられた。収穫。明日も動こう。

ところで素晴らしい曲のラインナップだと感じられる中で華原朋美のアイムプラウドが流れて来てそこからはもうそれに、引っ張られて最後まで。帰り道もお供してもらった。街中でいる場所なんてどこにもない。身体中から涙溢れている。身体中から涙が溢れている、っていうこと。90年代の涙を今流すような感じがあった。その時の大変さは実はまだ思い出されることで生きているのかもしれない。本人はあんなに可愛らしいのに声はモンスターのようだと思った。人間の声として良い、じゃなくて何か別のサムシング。何かになっていく。そのギャップが無意識の中に本人の中に共存していたんじゃないか。

ともちゃんのその声を夜空の街の中で聴いてたはずなのにその歌は何か広い空のことをさしていて、次にはその大きな空を引き連れていくようなイメージが浮かんでいた。あなたは大丈夫。1人でもこの翼がある、ということがわかった。久しぶりに翼を生やせたことが嬉しくて嬉しくて。こんな風に歌を音楽を聴けることがあることが僕にとっての人生の大切なことであったと思う。

2024年11月8日金曜日

2種類

 世の中にはいびきをかいてぐっすり寝る人と、それを聞いて寝付けなくなる人の2種類がいる。

と、言いたくなるが実際はもっとこの時代にあって多様なグラデーションがあるのだろうが現在の自分のユースホステルでの状況がそうだ。もうユースホステルなんだからしょうがない。養豚場のように所狭しと部屋に並んだ2段ベットの様々なところからいびきが聞こえてくる。特に自分の上の人がひどい。昨日もひどかったのに、今日はわざわざ昼寝をします、と一言言ってきたくせに、さっきまでがちゃがちゃ自分が寝れないからか音を立ててたくせにすぐ今度は寝つけていびきをかきはじめた。もう、たぶん自分が寝れないのはこの状況だけのせいじゃないのはわかってきたが辛い。

家の上の階の人のデジャブじゃないだろうか。人に眠るのを侵害されて体調を崩すルーティーンはなんとかしたい。

はぁ、明日もハードだ。

2024年11月7日木曜日

川空

 一瞬にして寝れない条件が成立する。全く寝れないわけではないのだけど。昨日もずいぶん疲れたのに寝れなくてそれで今日は広島の到着を遅らせた。帰りの新幹線も自由席にしてみようと思う。

コロナくらいから甘えが始まったように思う。なんかもういい加減、やめないといけない自己憐憫みたいな気分がある。それが眠れないことにも繋がっているんじゃないか。それでもこないだの稽古期間が終わる頃にはどうしても疲れて、呼吸も結構難しいという状況になって流石にそれは"頑張った"んだと思うことにしてほんの少し自分を労って、控えていた仕事も無理をしないと言い聞かせてやった。どれくらい効果があったか知らないけど。でもまたこうして寝れないと結局また疲れが溜まるし、どうしたものか。

20歳ぐらいの頃はいい日記を平均して書けるという時期があって、そのいい日記とは、何か読んでいて書いていてそれにドライブしていくような感じのあるやつだった。それがいつの間にか、いわゆる表の活動で頑張るのに対して頑張らない、媚びない、勝手にやる、適当な場所を確保しようと思ってそういう場所としてやっていった。

今は色んなバランスが崩れている。見渡すとぜんぜんなんだか良いことがないように思うし、人生の指針を見失ってる気がする。これはダメだ。でもそうじゃなくて、目の前のことが良いと思う瞬間はたくさんある。だからその時間を生きようとするところから始めて(すでに)いけばいいんじゃないか?という理屈が立ちつつある。これはポジティブ。これで、ここから、こうして抜け出せれるかなぁ。

帰り道、銭湯から歩くと夜道には色んな誘惑がある。めちゃ広島の闇の繁華街。神社を通り過ぎるとそこには流れる水は腐らない、と書いてあった。流れ続ける、止まってると思ったところにまた流れていく。

広島のヒントをもらった気がする。ところで広島を歩いているとなぜここと長崎に原爆が落ちたんだろうと思う。川を見つめているとそう思うんだ。川には空が映る。空に川は映らない。

2024年11月4日月曜日

いったん、

 以前住んでいた家で最も好きだった時間は寝る前にゴミを捨てに行く時間だった。そこで少し静かになった街の、人が作った家や街灯や道路がそこにあって夜空がそこにあって、そこで吸う風呂上がりの空気が美味しかった。

最近は今の家でゴミを捨てる時に歯磨きをしながら降りていく。今夜は星も見えて風も美味しかった。下からマンションの構造を見上げるのもいいと感じた。

人生について考えると、最近はネガティヴなことばかりが思われるけど。たとえば家族とかを見るととても羨ましく思う。そんな風に誰かの人生に関与出来ることで始まることがあるんじゃないか、と勝手な一方的な妄想があって。だけども、みんながみんな、新しく家族を持つわけではないし、今日だって色んな人に会った。クリエーションだって数ヶ月人と過ごし、1人で作る何かだってポイントで人と関わる。すでに色んな人生が錯綜しているのだ。その人生さえ、認めないことになってしまう。それは変だ。

そんな時に子供のことを考える。子供の時に見た光景のことをどこか感覚的に覚えていて、あの時のことがきっと今生きている子供たちの中にも起きているのなら、それがどこかでまだ会ってない人たちやもう会ってる人たちでそういう子供がいるのは知っている、彼らにとってその何かいい光景が起こっているのならそれでいいんじゃないか。そして、つまり回り回ってどこかで繋がり、それが錯綜しているなら、もうそれで素晴らしいんじゃないか。

さっき、手を動かしながらそんなことを思ったようだ。ひとまず。まぁ明日は明日。いったん、

2024年11月2日土曜日

残りの稽古もあと2日。このタイミングでまた上の階の騒音に悩まされる。音楽をやっているのに低音が地面に向かうことを知らない人なのかもしれない。一応そのこともビルの各部屋に届いた紙に書いてあったはずだけど、そのことが何を示すかわからないのかもしれない。いや、単刀直入にバカなのかもしれない。
なんだか最近知らない人にクレームばかり言ってる気もする。よく言えばちゃんと意見を言っている。
自分の状態がそこまで良いわけでもないのだし、あんまり強がれないので、しょうがない。
そんな中でこないだのドラッグクイーンのショーは間違いなく勇気をもらえるものだった。
好きなものを好きと言って何か輝いてみせる姿。それはどうしたって表舞台!と言われるような場所ではないが、そもそも多くの表舞台なんて、与えられるべき人に与えられてはいないじゃないか。
それでも彼らが立つ舞台で起こることに対して、それを信じたい。色んなことは置いておいて、今それに感動する、そういう瞬間が起きていた。
それは今の自分にとって強く励ましで鼓舞でケアであった。まるで裸にされるようにしてダサい自分のまま舞台に上げられるような経験だった。

上に書いたように必ずしも与えられるべき人に与えられない、ということがこの年になってたくさん見かけるようになってきている気がして。年をとると未来に希望を見なくなる理由の一つはこれも一つかもしれないですね。