昨日あんまり眠れずぎりぎりな気持ちもありつつワークショップこどもたち、うまくいったと思う!頑張った、全力!本当は70%で安定してやるという気持ちで準備なところもあったけど、実際の子供や大人とのやりとりの中で実際的な判断がそう運んでいった感。
終わって本当にフラフラ。スタッフチームとちょっと労う。
東京や日本がさみしくなればなるほど、頑張る方針の立て方もいかに真面目にやるか、あるいは形容詞とかが死ぬ気で、とかになっているのは何もその人が選びたくやっているより、傾向の中に立つとそう口にせざるを得ないのかも知れない、その状況こそが悲しく思えてきたりもする。
子供のワークを準備しながら、大人が作る総合的な作る、でもある演劇を見ようと岡田さんの新作を観る。友達の優秀な仕事もあったけど、途中からずっと苦痛で早くここから出して、の思い。演劇に出来るのは話を作ってそれに向けて俳優たちが言葉を動員させていくルートに観客もともに登っていくこと、というのも側面としてあるかもしれないが、それに登らなくてもいいかな?という気が起きた。基本的にはその話を運ぶために全員の体がパフォームするというルールから外れることは出来ないとなるとどの人を追っていても基本的にはその話を追うような促しがあって、それをサボって別の場所をぼんやり観ることが難しいと感じられた。それこそゾンビやお化けのようにデッドスペースみたいにないものになっていた。もし俳優が別の目的のことを話しだりしないかな?と思っていた。
最近、めっきり安全な舞台の上でわざわざそこに立つ人が言うことを聞く必要はあるのか?もっと聞くべき声や話すべき人がいないか、安全だったら友達だったらもっと他に話すことはないか、と考えしまうのだった。
YouTubeとかのトークも聞いたりpodcastが流行っているそう。でも基本的にはそこで互いに話すことは情報を出していくだけ、これだと僕的には80点、いっても85点が精一杯。まぁ情報を得るために書いているからそれでいいんだけど。たとえば坂口恭平のTwitterスペースなどを使っての相談ややりとりを聞くと、その時間内での変化が起きる。相談者の中に。人が具体的に何かをする、というのは好奇心が刺激される。人が何かをやる、という根本的に強く面白い。
だからつまり基本的にはこれだけの悪意の社会において、他人と出会すこと、そこで具体的な交しをする。
知ってるのにそのことは言わないのがほとんど?なのはさみしいな、
0 件のコメント:
コメントを投稿