2025年9月18日木曜日

あうびと

 さぁ、今日も眠れない。明日の朝早い。ずいぶん疲れていて、今日も身体が動かないみたいな感じからなんとか出発してイベントも無事終えれたのだが。一週間がこんな風に過ごせたらなぁと思うような理想の起伏を持った形に全くならない。ギリギリの山登りを山下りがいきなり平坦な道から始まったりしているように感じられる。どうみたってスケジュール表の上ではそんなにハードじゃないのに、体や気持ちが年老いてしまったのか以前よりも。それにしても大変だ。

そんなことわかってるのだけど、そんなことは嘘かもしれないとも思ったりしながら、色んな人が自分に正直で自分に嘘をついて、それでもやっていってる、すすんでいる。

今日はでもピクニックをしながら保坂さんの小説みたいだ、と思った。色んなことをしていくのは色んな人に会う為なんだろうか、と久しぶりに思った。同じ人に会うにしても何回会う度に変わるし、毎回違う。あるいは誰かこの人って人に会いたい、という気持ちもあるのだろう。そんなことは中々ないのだけど、それでもとにかく人にまた会うと何か違うものに出会うことになるのがやっぱりなんかある。それはある。それしかないのか。1人の時間も最高だけど。向こうに人がいる、ということ。

ということであれば、疲れているが明日は誰かに会うわけだ。

誰も知らない日本語を書こうと挑戦したら?

百日が北、攻め合い時があり次第の度重なって果てた鮫に鯨の漁の具合によって明日の野球の試合に臨む選手達の心意気も海や山へと向かうことと想像し、酒の進む夜に読む本を閉じ開き何度もする落ち着かなさ。

2025年9月15日月曜日

そう

この一週間ほどはうまく眠りに入れない。

今日こそは寝れると思ったのだけど、少し寝たら何故か目覚めてしまった。目の前にプールがあって、飛び込んで入ろうとしたら空気に押し戻されるような身体以外が働いてそうさせるような感じ。

最近は、外側のことへのイライラというか不満も出てきた。それは自分にアイディアがあるからで良いことだとも思う。バランスではあるのだが。これにもエネルギーが必要で、それがなかったから。少しずつついてきた。

2025年9月9日火曜日

パワー、

 冷房の音がすっすっすーっといって冷気が流れ込んでくる。昨年はどうだっだけかな?今年になって寝る導入くらいの時間は冷房をつけることにした。

それにしても時間の使い方が下手だ、となって落ち込むのが夕方前らへんにやってくることの毎日。なぜ、あのような毎日であれば、という毎日から遠ざかってしまうのか。

気持ちを待って小さな行動をすることの方が多く、その気持ちがあと数時間後に起こるのではないか、という気でいるがそれは結局起こらずにやれないことが積み重なっていく。

最近、実家に帰った時にリハビリにと、ピアノギター太鼓編成で音楽を奏でた。なるべく続けたい。

本来であれば(本来だなんてことがそもそもないんだけど)、愛を向けるべき対象が何かもっと外に向かうような時期と言われそうだけど、家族にも今になって向いているようだ。それはもう年齢とかもあるんだと思うけど、そのエネルギーみたいのがある。生きることでもギリギリなのだけど、なんとか。

もし自分に家族がいれば、今しているみたいな時間の過ごし方はきっと難しいにせよ、今自分の状況をそれぞれが生きるしかない。そしてそれをどうしても互いに比べてしまったり。いつまでたっても互いに子供である。


2025年9月4日木曜日

きょう、りゅう

 ジュラシックパークを観に行った。人と観るジュラシックパークは楽しく、よく笑いを堪えた。きっと1人で見ていたらもっとこういう映画は感傷的になってしまう。でも、なんかその感傷的な気持ちを再び受け入れようという気持ちが込み上げてきているのが最近だ。変な話だが、どうしたってそこから自分が出発してやってきたようなことを思い出してきている。自分がいる場所というのはどうしたって、そこだっていうところがあったんじゃないか、という気持ち。

今回のジュラシックパークはホラー映画のように観客を演出で面白がらせる。でもそれも何か昔へのオマージュなんだという見せ方がある。以前よりもキャストに魅力がないとか感じるにせよ、それでも少しずついいところを見つけていく。スカーレットヨハンソンの顔を見ながら東京の映画を思い出していた。随分時間が経った、映画の中にいる時間。

僕は随分このアメリカ映画に色んなものを見せられたんだ。そして彼らは、誰も思いもよらないアイディアをまさに映画にしていったんだと思った。まさか恐竜の映画を通して、子どもたちが寝る時にどんな夢を見たのか、ということを想像した。誰も見たことのない夢をまだ出来るかもしれない、ということについて考えなきゃと思った。そこに誰もいないかも知れない、ということが怖くてなのか、ずっと出来ない。見えていることをするのが自分の仕事だろうか。そういうことをまた少し思った。

2025年9月2日火曜日

thank youと英語

久しぶりに英語をよく話した。本当は8月、9月は渡仏に向けての英語月間だったんだけど予定を組むことも身体をそちらに向けることも叶わなかった。ギリギリのところで身体を壊すくらいに。でももしかしたら乗り切れたのかもしれないね、人生は、さ。
英語を喋りながら色んな表情が自分にも出てくるのがわかってそれが嬉しかった。自分に驚くことが出来て、それは楽しい。

子どもたちとのやりとりも久しぶりで楽しかった。彼らとは大人同士だともう中々叶わないやりとりをもう一度出来るような気分がある。その胸を借りてやっているだけかもしれない。言葉以外の合図とか、少し適当なところとか、あるいは真剣なところが大人とはまた違うところにあるから。

2025年9月1日月曜日

川崎の子

 お腹が痛い。一昨日の夜に眠る前にだいぶ疲れている感じがあり、案の定昨日の朝起きるとお腹が痛く、体の節々も痛くて若干風邪のような、でもお腹が痛まない時間は動ける、みたいな感じ。運動はあんまり出来ず、しかし太陽にはあたりたいので時間をかけてでも外に行って少しはいつものワークに取り組んだのが昨日と今日。休めってことかな、と今日もお昼くらいまでは布団の上でぐーたら。明日には治っててほしい。

今日は後輩に誘われて下北沢でストレートプレイの演劇を観た。そしてそのあとで銀河くんの久しぶりのライブをライブハウスで見た。なんて懐かしい場所なんだろう、帰り道にはあのファーストキッチンがまだ健在だった。あの時、川崎の方の高校生たちとかと打ち上げをしたのだった、ちょっとデートとかしたあの女の子、可愛かったのにな。そんなことを思い出した。もう20年よりも前だ。あの子はきっとギャルママにでもなって愛に溢れた人を生きてるかもしれない。

下北沢を堪能した夜。全く思いがけない。

2025年8月20日水曜日

秋寝田新

歩きながら興奮していることに気付いて、その興奮を使って色々考えれていなかったことを猛スピードで取り戻そうとエネルギーを使ってると気付いた。それは秋田での明日から数日での企画などのことで、もっと前から準備して少しずつエネルギーを使って合わせるように上がっていければ良かったのかもしれない。そうじゃないとやっぱりその興奮がずっと1日のてっぺんまで変に作用しちゃってそれで眠れなくなっちゃうんだとも気付いた。腎臓の本を読みながらまさかそのことにも触れられるとは思ってなかったから、確かに繋がっていないわけがない。
母の入院があってから人にリハビリをすすめる立場としては自分でも言われたことをしないと公平じゃないと腎臓の本をついに読み始めた。もちろんつまらないわけがない、時間を作っていなかっただけだ。この時間が出発になって食事のことや身体の別の部分にまで伸びていくといいな。身体のことを勉強したいのは、自分の身体への理解もあるが、それよりはやはりその高齢の親なり他の高齢の方なりに身体で対応してみたいというのがあるからだ、今は感覚的な部分も多く、それだと信用にかけるとも思うのだ。
変な話だが以前、銀杏boyzのライブというのはきっとライブハウスの中でのエネルギーを交換し合うような、そういうパンクに強い関心があった。生命にも向かうようなエネルギー。それは舞台でもそうだ。
しかし時が経って今僕が考えてしまうのはダンスにせよ歌とか音とかにせよ、人に向けて投げかけれることでそうすると投げかけられた方は何かしらを感じとらざるをえない、ということで、ケンカにも言えるが吹っ掛けるとイラっとするにせよエネルギーの交換がある、逆に言うとそこで初めて自分のエネルギーに気付いたり、いい関係ではないにせよ、エネルギーが持ち直すみたいなことがある気がしていて、この可能性に掛けたいという気持ちが強くなっている。
だから1人になっている人とかに何か投げかけるようなことを、どうしたらエネルギーのある人がしていけるか、そしてまた活発に人間同士がコミュニケーションを交わし合えるか、これは昔見ていた青春映画と一緒だね、と半分ジョークで言うと新潟でパクくんが本当にそうだ、と強く言われて僕はむしろ慌ててしまった。腹がまだくくれていなかったんだと思う。
新潟から入るこの旅のおともに俳句の句集の他に腎臓の本や読みきってなかった猪瀬さんの戦争の本、そしてプレーンソングと谷川さんの十八歳。日本語のヒントを探して連れてきた。新潟から秋田に向かう、にかほにピッタリの本だったと思う。1950年と書かれたページと僕の小さい頃の90年代の新潟の日本海の景色は少しその間を狭めるように思う。なぜだろう、東京よりは田舎の方が過去に近付く。ひょっとして異世界をすでに感じ始める。そういう感覚があるのかもしれないよ、同じ時代を生きてそうで場所によっては時間の感覚などが違うというラインが走っている可能性さえ。そのことはどう書くのがいいかわからないことだから、きっと感覚的にある人にはあるとかそういうレベルで、、、それは書いてみて思ったことだ。書くというのはすごいなぁ、どこに行くんだ。

こないだ寝れない時に、なぜ普段のイライラした人の悪口を回復のために口走りながら、その横ではそれがうるさくて眠れない人がいることを想像するのをやめてしまう。だから、あんまりひどく長かったら言いにいこうと思いつつ、それでもすでに我慢できなくて布団の上からヒーヒー言っていたのは聞こえていたのかわからないけど。相手が大丈夫と思い、悪口を続ける。案の定、そのいなくなった後も結局僕は眠れないわけなんだけども。なるべく人の悪口は聞きたくないとしたら松井選手は本当に本当にすごい。

最近は何をみてもほとんどいい名前やタイトルを日本語で見つけない、と思うことのが多い。時代もあるんだろうか。英語の世界はどうだろう?とか思いながら。それでもこの言語の歴史が最近はめちゃ尊いので、一周回ってそう見えるだけで信じて付けよう、という気持ちでもある。