色々と手に持ち過ぎているのかもしんない。右手のアイスクリーム、買い物袋も肘らへんにぶらさがっていて、左手には読み途中の本、背中にはリュックサック、あと大きなコートも着ている。アメリカのNYの輝かしい時代のドラマみたいに忙しく。
そんなに華やかでも希望に溢れてるやつじゃない。彼らだって、でも別に希望に溢れてなんかいなくてむしろストレスフルだったかもしれない。人の幸福は計り知れない。
し、最近じゃ幸福である必要さえ疑っちゃうような考えも少しづつ出て来てると思う。
何かを欲しがってしまうと、どうしても難しくなることはある。
欲しがってしまった分。もし欲しがり続けるならそこから解放されることはその戦いをやめる時まではやってこないのかもしんない。
でも、ずっとこのままじゃきついからたまには他の視点も欲しい。他の視点がすぱって入って来たら、少し癒されたりうまい姿勢の取り方を手に入れれるかもしんない。
帰ってからDVDを見た。どうしてか80.90.年代のアメリカのNYのラブストーリーが好きだ。キラキラしていて、音楽も艶っぽくて、高い建物と忙しそうな人々やタクシー、大きめのコートを着たりしてて、ドアをくぐったりする。街すべての景色がピダゴラスイッチみたいな装置みたいで、何かたくさんのスイッチが関係しあってるみたいで。それを1つの作品にたとえたなら、ホームアローン2ということになるのかもしんないって今、考えたけど今日見たのはミシェルファイファーとジョージクルーニーのやつ。
自分の人生のどこかではこのキラキラを再現するようなことはしたい、というのが目標の1つです。
あとグレートギャツビーを今年読むのが目標で、それは達成された。でも案の定、映画のエンディングに流れていたthe xx.の曲が本を読んでる最中ずっと流れていて、内容と相まって沈んでいくようだった。美しく暗い。暗いのを、救いのないのを美しいと思ってしまう。なんてこった。やれやれ、だ。
だから世の中は多くのうまくいかないに溢れてしまうのかもしんない、そこに美しさを抱いてしまって、ぐるぐるしちゃう。
こないだ六本木を歩いてると前から胸の大きな、まるで豊胸手術をしたかのような胸を協調した人とすれ違って、場所も場所だったから、考えてしまった。
なぜそんなにまでする必要があったのか、そうまでして生きるのか、人生の難しさみたいなことを。でもそれは失礼なことで、自然な胸かもしれないし、色んなそれ以外の可能性も本人の気持ちもあるかもしれない。だから言ってみれば僕は勝手に考えたいストーリーを捏造して、勝手に憂いていたんだ。
でもそれが人生の難しさだったとして、それは言い換えるなら人生をもう少しなんとかするための工夫だったのかもしれない。
工夫というとマイナスをプラスにするような意味が含まれている響きだ。
だからそんなようにして、いつもそれはマイナスに見えたりプラスに見えたりして存在していくんだろうね。
あれ、またうまくまとまらなかった、、、はぁ、
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