2024年5月29日水曜日

イヤな夢、

 和室が良いとか書いていたのに昨日はとても悪い夢を見た。現実のように感じられて眠った気がしないで起きた。それはとても悲しかった。悲しくて悲しい嫌だった。どうしても嫌、どうしてもいやな夢だった。どうか違ってほしいとしか思えなくて、でもそうもいかない、そんなのやめてほしかった。起きるとそうだった。

まだ眠る夢に期待してしまうところがある。


クリエーションで遅ればせながらも井上ひさし特集のように本を読んでいる。段々と井上ひさしのことが好きになっている時期、そしてそこの周りに関わる人も人生も見えてくる読者のターン。人が楽しそうに生きていたんだな。いま生きていることを忘れそう。

2024年5月28日火曜日

和室

 ひひゃうー、こっちでは思ったよりも(いつも思ったよりも、だ)忙しくて中々手をつけられていないことが多々ある。寝るのはでもはやい。大体この12時くらい。和室に泊まっていて、木の板の廊下を歩くのはなんとも気持ちいい。多少寒い日もあるが、なんとか乗り切る。和室で寝れるのは気持ちいい。何か安心の記憶と結びついているみたいだ、自分が何者かを少しだけイメージできる何かと結びつけてくれるみたいだ。田舎のおばあちゃん家に泊まった時は田舎だったけど、そういうこと?小さい時に田舎に行くと畳の部屋で数人で布団をひいて同じ天井を向いて寝た。向こうにいったらやることはほとんどなくて、だから遊んだりすることしかない。

連日、小さな幼児に会う日が続いている。彼らは起きて遊んでいる時、ぼーっとする時間はほとんどないことに気付く。どういうこっちゃ。まるで人は疲れたりしないみたいに、ずっと動いている。親は改めて大変だと思う。

帰れる場所があったり、それを作ろうとしたりするのはいいことだなぁ。

2024年5月23日木曜日

遠く、けど近い、寝る

 信じられないくらい早い時間にベットにいる。ここ数日のうちに別の寝床で寝ることが並ぶ、横須賀、家、実家、大石田。起きる時どんな気持ちだろう。少しだけでも元気で起きれるといいな。 何を書くとき、それはネットに書く限り知っている誰かが見るかもしれないし、会ったことのない誰かが見るかもしれないし、いつまでも会うことのない人や、ちがう時代を生きた遠い人かもしれない、ということも思うことがある。大学に入ってからパソコンとかで書いたりするようになったのかな、高校生の時は掲示板とか。

ともかくおやすみなさい。


2024年5月22日水曜日

ことば、

 本当に寝るのが下手になってしまった。上の階のくそ重低音がかすかに聞こえるのも耳障りだったけど、ここ数日いくつかの場所で寝たけどどれもうまくいかない、ぎりぎり風邪をひいてなくてよかった。

テレビの録画で見た昔、井上ひさしが子供達に対して話す番組がよかった。言葉と友達になろう、というタイトルだった。言葉に可能性はあるはずだが、それを感じるのはどういう場面か人によって違うと思うが、その一つは僕は形とかかな、組み合わせとかも含めての。また文字を書くことのラインにも凄い可能性があると思っている。たとえば文字を読むだけで身体が変容させられてしまう感覚。しかし演劇とかを見ていて、言葉に向かう演劇は少ないのだろうか、ドラマに向かっているように思う。ドラマは人と人とのやりとりだけど、なんか個人のその前の人と形とのやりとりの部分とかもあるような気がする。

今日はストリートで足を止めた3人のOLの人たちに話したときにそこでやられるダンスについて話すと、関心を持って聞いてくれているようだった。まぁそれは説明みたいなこと?でもたぶんそれだけじゃない。初めて会った人が身振りを交わしながら話すことや、自転車をこいでいると前からスマホを見てこっちを見てなかった人にあぶないーと声をかけること、声を出し、かける、他人だけど頼ろうと出来る時はする。上の階の人の音に関しては言えなかったわけだけど。

大木さんの映像を展覧会で見た時に映像に関して、だけじゃなくて見えてる聞こえてる世界に関して話したくなったけど、あんまりそういう感想を見ない、まったく何をみんな見てるんだろう、と状況にちょっとイライラ。絵とかについてやっぱ話すの?

小学校四年の時の班で回されていた日記が出てきて。僕の文章はひどかった。ユーモアはあった。文章や伝えるとはどういうことか、へのアイディアがあった。誠実とはまた別の。でもそれを読んで随分それでも遠くまで来たじゃないかと思った。つまり今本を読んだらテキストや言葉を面白がっているし、論文は書かなくても長い文章への期待がある。片付けで色んなノートが出てくるけど、本当に勉強をほんのりしかやってなかったとわかる。でもそれは完全な拒否とかではなく、いくらかやっていて、それでバカみたいな感じ。他に熱心というか楽しいことがあるんだろうな、という。

連日、赤ちゃんに会っていてかわいかった。向こうからハイハイでやってくる、食べたら噛んだり握ったり、なんでもする。アクションの選び方が自由なインプロみたいだ。それはつまり子供だけに切り離されたことなんかじゃない、紛れもないそれ以降の人の生にも繋がる。

自分の場合は元気と想像力はセットで向上するはずなので、そこに持っていくとどういうことが出来るかな。

これは公開だけどなんかすぐにわかって着地に向かう文体なんかにはしたくない。してはいけない、本当は。伝えるな。文字を書け、読め、全ての人に対して。それくらいの可能性を基本的に持たなければ。文字は面白くなっていかない。赤ちゃんはすべてをそのままでやる。それに合うと嬉しい。ずっとママみたいに付き合っていたら疲れるとかもあるかもしれないけど。

明日は元気に起きられるとい

伝わる止め、だと日本語を考え切れないのでは、と思う。ギリギリを攻めたりもしないと一語や一単語の性質が見えてこない可能性がある、そういうことを考えれるようになったのはいくつかの作家や数人の友人のおかげでもある、


2024年5月21日火曜日

取り壊し

 昨日、公演を終えた。古民家でそれなりに場所と対峙。もっと伸び代あるかもな。 にしても古民家やりながら自分の中では"日本語"をやる、に少しだけ足をかけれたかも。ちょっと映像見てみないとわからないけど。

今日は子ども食堂とそれのダンスワークショップ。やっぱり公演という単位をやると明らかに身体の火照りとかが違う。翌日の。疲れているし、緊張もある、あんまりすぐ仕事はよっぽどじゃない限りやるべきじゃないと今日思った。自分を労らねば。自分でまぁ大丈夫だろう、は少し身体や今後のスケジュール、仕事に対しても失礼になる可能性がある、、、今更思った。

明日は実家の片付け。もう5月に取り壊し、大石田に行くのでもう家に会えないのは悲しい。そこに新しく家が建つわけだけど。触ることの出来る景色がなくなるということだけど、それはつまり記憶を呼び起こすための装置が消えてしまうということ?なぜ、このことを悲しいと具体的に思えるのか、それらをむしろ記憶を繋ぎ止めるその装置は一体どのようにして作られるのか、それを作れるというのは、、生きているというのは何かを作っていくことが出来るということなんだと思うけど。


2024年5月15日水曜日

くもり

いつのまにか色々行き詰まってしまっていて、あんまり先を想像しづらいのでそれで他のことも考える時に、劇場とかをどうポジティブに考えれるかと思うとそこに集まった人たちで相談をすることが出来ることが可能性だと応えるのが最適解だった。だけど、なんというか劇場の客席は他の人ともいるというのが厳しいという場合もある時にそこにいるのは一度難しいことに変わってしまう。月日も経てば色んな人との関係もできていく中でそこにいたいというのは難しくなってくることもある。かなり政治の場だ。
最近あんまりいい情報も受け取れていないんだと思う。だけどまず受け取ろうと少しチェックするようになって習慣づいている部分は悪くない、そして次の段階としてなんかちょっと鎖国みたいで、どうなの?自分?面白いの?みたいなツッコミが入ってくるようになったのは次の段階だったかもしれない。そして色んなことをつまらない、そして理由も明確になってくると、それは重要なサインで、じゃあどうすればいいのかの段階になっていくかも。

久しぶりに真っ暗になる前に駆け込むようにして公園で身体を動かした。裸足にもなる。裸足が足りない。


2024年5月9日木曜日

小4

 moon riverではない曲がエンディングで流れていたのにギターが爪弾かれるのを聴いて"その部屋"を知っているとなった。クラシックギターの音階がわかるから、それは慣れ親しんだ部屋の間取りを曲によって球が気まぐれに行き交うだけの違い、だけどそこでたくさんの時間を過ごしかのように安心する。きっと昔に演奏された曲を今聴いているのに、懐かしくて知っている。

ソフィアコッポラの作品はいつも少しさみしいままに終わるのを思い出した。somewhereが見たい。

電車の中で向かいの席の人に顔を見られたくないと伏せて自分の手元への集中力をたぐり寄せようとする。印象としては女性の方が車内でそういう身振りをする気がする。自分が集中したり、心ここにあらずならそういう気がわかるな。

前に住んでいた家の引越しの準備をする。倉庫のように作品とか資料とか無駄なものまで置いてしまってる。たくさんの時間を過ごした。

高校入学したてのクラスみんなが自分を紹介していくページを見る。家族について書く欄がある、書き方はバラバラだけど、そうか、当時そんなことを思いとどめもしなかったかもしれない。文化祭の資料が捨てられない。もしかしたら青春映画を取るかもだからとっとこうなんて引き延ばして。

そういう無邪気な夢はサボってるうちにずいぶん遠のいて見えるようになってしまって、そういうことが毎朝何よりも早く自分に突き刺さってきつい。

ひゃひゃひゃ

小学四年生のころに班の交換日記がひどくて驚いてしまった。こんなにも言語から遠い人だったんだ。そこから中1になって千と千尋をよく1人で観に行くようになったんだから。子供は尊いなぁ。最近よく会うたびに眩しい、というか面白い、ぐにゃぐにゃしていて形が変形し続けている状態そのものみたいで。私は錆びてしまったみたいだ。サックスのいい感じのメロディーが90s風に流れてきて、それが油だったらいいのに。またそれが私を滑らかにしてくれたらいいのに。

帰る際、家のドアがさみしい。さみしい、をまたこれから増やせるように生きれたらな。ずっといつも抱きすぎて泣いているみたいな。そういえばそんな友達がいたような。

中高の卒業式間近、よく壊れかけのradioを歌っていた。登戸のあのカラオケ。高校の制服を着て、私服で一生懸命そこで歌えば、それはカラオケを越えて何か自分の身体になる、と強く思っていた。色んな場所ごとが自分のライブだった。

向こうを眺める、見つめる、目の半分は水に浸かってる目をして、川に船が浮かんでいる、月が浮かんでいる、その目でどこまでも遠くだったり近くだったりをすっと見つける。見つける、こと。私はそれを見ることができる。私はそれを見つけることができる。

笑われてもいい。

2024年5月4日土曜日

いい日にす

 気付くと部屋がすごいことになっている。全然公園にも行けていない。積み重なっていかない。前はどんな風に生きていたんだっけ、と慌てて置いてけぼりにしていた反省を取り繕うとする。またずーんとする時間がやってくる。

自分が楽しくないとどこに楽しいと思ってる人なんているんだろうか、という思いがやってくる。 健康に作り続けれる環境をいかに用意出来るかということが重要なんだろう、とわかってくる。

映画、異人たちを観た。かつて大林監督の偉人たちとの夏を見た時とは違うものになっていたが、これは勝手な想像だけど死んだ人と生きる、会えるという感覚ってやはり日本は慣れているところがあるのでは。だから映画を見て一緒にご飯を食べるシーンは衝撃的でありながらどこかすでに知っていることのようにも思えないだろうか。

もう今年が4ヶ月進んだのに、ずっと何もわからないままだと半分の自分が思っていて。でも正気になってたまに思うのはそれでも習慣づいた身体がなんとか思考は追いついてなくても身体を前に進めているおかげでの部分は大きいのでは?自分を評したり、あるいは反省したりするバランスは難しい。

明日はいい日にするぞ、と実家のトイレでペンで書いてあった。泣ける。