2021年9月5日日曜日

ぬくもる

 信じられなことに一瞬で眠れなくなってしまった。今日は早起きでずっと1日通して眠くて、なんならそういう時は油断すると体調を崩しかねないそういう危ういバランスを我ながら感じつつ乗り切る。乗り切りやっとたどり着いた就寝なのに、なんてことだろう、眠れなくなってしまった。 困った。 体力を回復しなかったらどうしよう。 そういえばこの9月を面白く乗り越えられるんだろうか、という不安があってそれは、いくつかのプロジェクトが重なってあるのにそこがぼんやりしていてフォーカスが定まっていない感じがある。このままほとんどのプロジェクトを面白く出来なかったとしたらという不安がある。 そのためにも明日を体力十分で迎えることはかなり重要なのだ、、そのことを考えると余計に頭が焦る。 このことはコロナ前からあった気がするが、もう少し調整が可能だった気がする。

そういえばこうして眠れない時は掛け布団を部分的にかけたり外したりするためか、冷えてるとこやあたためられた部分があることに気付き、ひんやりさせたいところにはまだ冷えてる部分のある掛け布団をもってきてあてたり、そういう風にして使うというのはずーっと前からやってきたことだと思うが、それは少し掛け布団を生きているように扱うみたいだな、とか思う。 ぬくもり。 ぬくもる。

ぬくもる、なんて動詞はないが思わず動詞化させようとしたり、、



2021年9月3日金曜日

秋の前

 この家で夜にゴミを出しに行くとすればほとんど深夜で、あまりひと通りもない。そうするとふわっとした空気が流れていて、木の揺れる音や照明の光、その辺の家の側面、そっちに伸びる道路とかの真ん中に私が立つ。向かいの家はどうやら3F建てみたいなんだけど、昔ながらの日本の家って感じでたくさんの植物が少しだけ飛び出すように生えている。これらをこの空気の流れがある中で見たり、見上げている時間がとっても好きだ。ゴミ出しが私を解放するみたいな。

逆に言うと夜帰ってからの家での過ごし方がうまく回ってないなぁと感じることの方が多い。ぼんやり携帯を片手に1時間過ぎてしまって慌ててなんてことがよくある。どうしちゃったんだろう、やることたくさんあるのに。 最近は改めて何かを練習する時間を意識的に用意出来るようになろうとしていたことを思い出したりしていて、出来ればもう一回そういう風に生活を立て直し、目標に近付きたいなぁと自分の中で思っています。

季節はすっかり秋になりそう。 

2021年8月24日火曜日

不思議な8月

 不思議な8月を過ごしている。昨年とはまた違う。日本に関して言えばそれぞれが全然違う時間を過ごしているように感じられる。海外を入れればもっとかもしれない。SNSを通して何か過ごした時が修正、整理され集まり直されるような効果を作ることが出来ていた気がするのだけど、違う時間をきっと見てるような気がする。


その外で過ごす時間が充実しているというか、友達たちのおかげで確認出来ていることがあるなぁって。ならそれをもう少しシェア出来るようなことも考えなければ、と今度はSNSでの人の発言などを見ていて慌てて思うのだった。

今日はオストリッチのミーティング。まだみんな低空飛行な感じする、だって今年は昨年よりそれぞれにやることがほかにあるような気がしている。だけれども気を引き締めて取り組まねば。 このオストリッチのミーティングは、いつのまにか泣きそうになる瞬間があったことを思い出した。全部を言えるわけじゃない、限られた時間と空間が集約されたzoomというメディアを通したアクティビティだから。それぞれメンバーが集まるとそれぞれの役割というのがあって、誰かは誰かにシンパシーを抱いて、とかそういう線が少し想像される気がしてうれしいのだった。再演、頑張りたい。

昨日はwwfesの会議で広太さんは厳しい顔をしてミーティングに参加していたように思う。誰よりも早く整理されたプログラムを用意し、全体に関して危機感を抱いている。このプロジェクト、失敗は出来ないよ、って。第一線で誰よりも活躍してきた、誰よりも先にダンスの概念や物理的な衝撃を世界中でプレゼンしてきた人なのに。

そういうそれぞれの状況が始まりつつある中で、やっぱしwater boysのドラマを見ると泣いてしまって。それで、自身に出来うることをもう一回検討したいと思うんだった。人生で出来ること。

少しずつ生活から改善したい、、

どうかな、

2021年7月31日土曜日

ねむれないにつかまるよる

 眠れない捕まってしまった。朝早い日に限ってうまく寝るための何かを少しでも怠るとつかまりやすくなってしまうみたいに。

今住んでる街はいつか形容するならこうだと考えているあてたい言い回しがあってそれは、小さい頃に全部の電気を消すのは怖いのでせめて豆電球をつけたままか、部屋のドアをあけたまま階段の電気がこぼれて入るようにしていたことがあって、その色のような、真っ暗にはしないで豆電球だけつけておくような夜を迎える街なんだ。それは都心の隣にあるということなのかもしれない。ここには昔から住んでいた人と思しき老人たちやその家族と最近になって新しく入ってきたような人が見受けられるように思う。駅前のスタバなんかでの人の行き来を見ていると。

日本はそういった地域のことに力を入れてきたのかというとそうでもないような気がする。というのは自分の身を振り返ってそう思うし、ハードルの高さを感じる。それは自分の責任としても感じるべきことのようにも思う。

夏に読み切りたい本が5冊もある。ここ数年読むスピードも読むのに充てる時間もめっきり減っているので自信ないけど、読みたい興奮には包まれている。

apafのリハーサルも始まった。だんだんと少しずつあたたまってはきている、けど昨年のようなモチベーションを果たしてどう作れるかなって心配があったけど今日の稽古は良かった。これは引き続き想像力にかかっている、どのようにしてそれが成し遂げられるか、をギリギリまで考えること。もしそれが出来るなら作品は出来る、、というかなんというか少しでもチームが良くなっていける、ということなんだと思う。そしてチームとは広い意味でだ。チームを広くとらえようとすることだ。

ウォーターボーイズのドラマを見ている。18年前に放送されていたんだね。 青春のきらめきとプールのきらめきが重なって目に映り込み涙が出てくる。彼らが口にする今しかない、ということや、やらなければ過ぎ去ってしまうことへの眼差しを見ていると自分の目にそれが移ってきてどうしたっていられなくなる。高校生の頃、もちろん現実を前にあんなロマンチックな横顔をその都度していたわけじゃなくてただ、目の前のことに出来ることを現実的に取り組んでいた。(と思う。実際はむさ苦しく勘違い野郎みたいだったかも)

その走っていたことにやっと気付いたのは卒業式の次の日の朝ごはんを食べていた時だったのを覚えている。今日はもう学校に行かないということに遅く起きてスパゲッティを食べている時に急に涙が出て来たのだった。

これからの学校や青春さえコロナなどをきっかけに変化していくかもしれない、きっと問題点も多くあるだろうし。そうすると今までのような時の追いかけ方とは変わっていくのかもしれない。そういえば昨年、その舞台が終わってチームみんなでやはり画面上で顔合わせた時だったか、それともメインチームだけの集まりの時だったか、似たような感情に包まれていたんだった。

現実とそういった感情との関係は全然まだわからないことばかりだ。けどもう一回ドラマを見返しながら、胸を熱くして今度はどういうことを考えれるか、人と生きようと出来るか、努力出来るかとか、なんかそういう気分が見ている最中は起きてくる。

33歳なんだけど、もっと複雑に考えよう。100歳まで生きるとしたらもっと複雑に考えていくべきだ。(そこから考えるとやはり高校や青春映画っていうのもあまりにも限定的過ぎる話でもあるな!汗)

描いてしまいがちなのが20〜30代と偏りがあるから(人口割合のせいももちろん今まではあったろう)、多くの人は老人までいる状態での国のあり方を考えれてないというのがあるかもな。


2021年7月25日日曜日

約束

 ずっと頭の中をレスターがほんのり流れていって。たまに自分でも練習っていってギターを片手に歌う。口ずさみもする。レスターをよく聞いていたのは大学生の頃だ。夕方に目覚めて大学に向かう時間と歌詞の中の夕方4時が近い時間を示すために、引力のようなもので引き合った結果だろうか。

彼にとってのレスターのような曲を作ることが出来ないか、そう考えている。何かが待っているような気がして、それでそのことが作れるんだという気分を作っている。

色んなことに待ってもらっているような感じがある。待っているそこに向けて様々な準備に時間がかかっているという感じ。

歌が待っているみたいな感覚。

淡い約束をどこかで交わしたような感覚。生きているうちにそのしたかも定かじゃないような約束、確か待っていてくれてるはずというようなものに向かって進む時間や気持ちを忘れないように。

2021年7月16日金曜日

目を閉じる

 この夜の間に起きたいくつかのこと。それはコロナに関する最近、僕が結構見ている大木チャンネルから飛んであるコロナ患者を積極的に見ている開業医の記事。なぜ開業医たちにコロナ患者を見るような事を医師会が促してくれないのか、ということ。朝生でクリアな発言をよくしていた大木さんが気になって見ると、自身でYouTubeチャンネルを作ってコロナに関しての番組をいくつも作って説明してくれている。(あべさん支持者なのだけが気がかりだが、、まぁそれよりもともかく今は情報が必要だ)その大木さんがシェアしてた記事から飛んで読んだ。 結局、緊急事態宣言というのはなんのために出されているのか、これだけを見ているところ医療逼迫というかそもそも医療体制をずっと用意出来ていないのだからということになってしまう。そんなことは実はあんまりSNSでも言われていない、僕のタイムラインだと東さんとか三浦さんとかは言ってるかな、、?

さてさて、この家には窓が少ないから夜ゴミを捨てる時に道路を挟んで隣の家の庭には迫り出すようにいくつかの種類の緑が植えられていて、これを風呂上がりの体で風が涼しく吹く中で一瞬だけ目に入れることがとても気持ち良く感じられる。

そして振付家からのおすすめで瞳を閉じてについての映像が送られてくる。素晴らしい映像で、懐かしい。生きたこともない時代を懐かしいと感じる、戻って一緒にその景色をその心で感じたいと思ってしまう。過去に対してそのように思うことについて、保坂さんの小説を読むようになってから強く感じるようになった。そのようにして僕らは過去とともに現在を生きている。だからこの気持ちも大事にしていいのかもしれない。今起きている事もそのうちそうして過去になる。

こないだ展示が終わりました。たくさんの人に来てもらえてありがたかったです。今回は思いがけない懐かしい人とかがとにかく来てくれた。アートがどう、とかではなく。色んな友人たちが来てくれて喋ったりすることが出来た。コロナというのもきっと大きかった気がする。今日電車の中で振り返ると、たとえば誰かと話をする時って約束を取り付けて会うというのが今ほとんどだけど。そうじゃなくて、展示で待っていると色んな人が会いにとか、いっちょいってやるかと来てくれたことは相当にこの時期に対して恵まれていたこと、救われたことだった。

と言いつつ、やはり説明をたくさんするうちにくたびれてもしまったけど。色んな人に会えたことが大きかった。


2021年7月7日水曜日

人生で1番嬉しかったことは何かと思い出して人に話すときによくあげているのは中学1年生の頃に野球部でぎりぎり20番のゼッケンをもらってベンチ入りが決まった瞬間の時と答える。その時の景色を鮮明に覚えている、気がする。

その後、中学2年の途中で野球部はやめてしまった。中学2年生くらいから映画を観たり音楽を意識的に聴くようになって(歌詞とか読んだり)すると段々何か周りとの調整の中で価値観が決まるのでなく、自分がどう考え言葉にしたり作るのかということに意識も努力も向かっていくようになってしまった。

野球部のゼッケンが嬉しかった時は、主語は自分にありそうでなくて、みんなが自分だったように思う。

そのあと自分で作るようになっていくと、どこか引いて見ている自分が出て来て実際問題何かをクリアすると同時に別の何かが起きていない状態というのがなくなってエンドレスで終わりのない状態に入ってしまってそれが続いているように思う。

だからこそあの時のゼッケンをもらった時のことが対比的にずっと鮮明にある。


今日、映像作品を見ていたら感動してしまって、今一緒に生きているということが嬉しくなってしまった。そう思う日が来るとは出会った時は思ってもいないことだ。

10年くらい前を思い出してみると、やっぱりそういう瞬間があったようにこの感動に連鎖して思い出すことが出来た。


今は何も知らないなぁって思う。

今について今、何も知らないなぁって。


お年寄りや子供に会うことも関係してきているかもしれない。

、、、

とここまではfacebookにも書いていたんだけど、最近salyuのnameばかり聴いている。salyuの歌声は好きだけど、実は存分に彼女の歌声をポピュラーソングとして多くの人が集まれる場所のように作られることはついぞなかったように思う。他のトイズファクトリーの歌手などに比して。 そういう中からそれでもsalyuの良さとポピュラー具合が高いところで出来ている曲としてnameを聴くのだ。聴いていると泣きそうになる、この時心の中では頭の中では自分は強く踊っている、そのことと歌い方が重なって出したい感情が溢れて泣きそうになる。 最近は泣きそうになってばかりだ。さみしいんだろうか、とかも考える。素敵な女の子とデートすればさみしさは消えるだろうかとかスーパーで買い物しながら考えていた。それともやっぱしコロナの自粛だろうか。 でもたとえば泣くと昔泣いた時と同じように体が涙を流す工程をえていることがわかるね、鼻をぐすんとする時の鼻の通りとか。泣いている時、そしてこの泣き方だからっていうのもあると思うのだけど、自分の涙だけじゃないような気がする。主語が僕だけじゃない、泣いているいくらかの人たちの涙の一部みたいな感じ。たぶん同じように泣いている人がいくらかいるのをわかっているみたいにして泣く。ライブ見たりして泣く時もきっとそう。個人の涙だけじゃない。その時、その人は1人じゃなくみんな?というよりあるグループになる。こういう動詞みたいのが度々あるような気がする。動詞が全て個人にかかるのでなく、グループなどにかかってくるということがあるような気がする、度々。

おやすみなさい