2022年3月16日水曜日

久しぶりに大学で

 久しぶりに数年振りに大学を訪れる。前まで働いてスペースを訪れるとイベントのタイミングで学生や教授、これまで関わっていた人、外部の人などがほどよく集まっていた。 少しだけ新鮮な気持ちでドキドキしながら中に入っていくと親しげなみんなに少しずつほぐされていく。この感覚はちょくちょくタイミングごとにある、働いていた場所だったり、それこそ学校だったり、所属していた場所だったり、それでもこの感覚をある一つの場所に生涯久しぶりに訪れる度に感じるということの方が少ないだろうと思う。この感覚はほどよい距離感に時間が経ち生まれて、関係とのバランスで消えてしまうものでもあると思う。

新しい学生と話し新鮮な考えに触れ、感化されたり後輩が頼りがいのある仕事っぷりをしていたり、全員と話すことはできなかったし、結局学生の頃のやったようにほとんど滞在時間ないけどそれもいっかとダラダラとした時間に到着してしまい少しだけ見たいところだけかいつまんだ範囲で大学をあとにする形になった。

ラボを出る時、1人の学生が走り寄って来て何を言うかと思ったらファンです、と伝えられ周りに知り合いのアーティストの人とかもいてなんとも恥ずかしくなってしまい、もにょもにょ笑って対応してしまって申し訳なかったかもな。今度は話しましょうよ、とか言えててもよかったな。 でも学生の率直さがやはりこれも新鮮でときめいた。 ラボをでて図書館の下のトンネルをくぐるたびに今日の大学の終わりを感じる、、あの時のさみしさやそこから橋本に向かう時のテンションや様々な記憶がトンネルを介して思い出される。

"あの時"という時間が好きだなぁ。もう会えない人や構成され再結成されたりしない人の時間や関係性。あの時に過ごしたあの状態ということが度々解散を繰り返して思い出とかになっていく。そしてこうして思い出される。 訪れよう、人と過ごし作ろう、そう思えました。どうかな、これからの人生にそのことがどれくらい適しているかはわからない。

2022年3月15日火曜日

また書こう、

 小さくなってしまいそうでこわく、砂よりも大きめの石を集めて投げ散らかすと海へ。

ひらかなでかくのはそのほうがひとつずつに対して身体が応答できる気がする、形に対して。感じだと画数が多く身体よりも意味を受けとりそうだ。

こんな日はきっと向こうの家なら夜走って海まで行くことができる。 海まで行っておしっこだけして帰って来たことがあった。悪くない過ごし方だと思う。最近新しいものに触れているだろうか?今日Google マップで行く目的のあった場所を調べると近くに行ったことのない大きな博物館を発見した。自転車で行けそうだ。なぜそういう時間を大事にしようとしないのだろうか。

スーパーへ行くと相変わらずフルーツが高い。ヨーロッパでは安かったのに。安くなればそれだけで嬉しい。美味しいフルーツがあって公園に持ち込んで食べれるならそれだけで嬉しい。あたたくなったらピクニックをしよう。

頭の中にはたくさんの植物を育て、自然に習うようにそれらに聞くといい。

何故こんな風に簡単に物事を詩みたいに考えることを忘れてしまうのだろう。大事なのは詩のように自由にあること。

そしてさっき少し書いた、それで少し晴れやか、また書こう、

2022年2月23日水曜日

明るいところへ

 ダメだ疲れてるのに眠れない。

明日は久しぶりにストリートを再開しようと思う。コロナで寝込んでしまった時期もありついに2月の後半になってしまった、年末からだいぶたつ。ストリートをやっているとそこを目掛けてこようとする人がいたと話を聞くから、なるべくはやっていて誰かが来れるようにしておくべきなんだ。そう思うとこのことはやっていてよかったとなるなぁ。 最近、坂口恭平さんの本を読んだというのもあるかもしれないが改めて何をしたら後悔がないのか、ということを考えたいとも思う。世間の評価とは関係なく、なになら続けたら嬉しいとかやって良かったと思い続けられるか。今度もしかしたら人と踊ることになりそうで、それは何か大事に出来るんじゃないかな、、とか寝れない頭でぼんやり思う。 さっきウエストサイドストーリーを観てきた。たくさんダンスが出てくる、そりゃあそうだ。でも僕の記憶は小学生の頃のまだダンスも始めてない時期に親と一緒にBSか何かで見た記憶でそうするとダンスもあるけど、あの暗い街をバックに俳優たちにやたらあたる照明の光とのコントラストなどかもしれない。そこで踊られるダンスと自分のダンスは切り離されていて、よく自分はまだダンスをしているなぁとドキドキする。

こないだイベントで久しぶりに即興だし、何もそんなにいわゆる決まった期待のされ方もしていない、誰も来ないかもしれないパフォーマンスの機会があって、うまくいった日があった。本当に嬉しくてその日は打ち上げまで楽しかった。その日はずっと人と話す手応えがあった、ずっとどうすればいいのか?を問えるような。手応えのある日がずいぶん減ってしまった。人と会うと生まれるあれだ。だからこないだのイベントにはすごく感謝している、好きなものに出会えたっていう感じ。僕は一体なんなのだ、ということを少し肯定出来たような感じ。 ダンスの場にいると絶えず比べるということが起こるからかもしれない。

今年は本当言うなら不安だ。あんまり仕事も決まっていなくて、何か繋がっていかないのかも、とか思い始めちゃう。だけどコロナだし、そういう人はもっとたくさんいると思うから僕だけの問題じゃないな。そしてこういうことも忘れていないだろうか?つまり世界よ、私を置いていけ、みたいなこと。誰かと一緒にいる時間も増える分、きっとこれまであんまりあからさまに出てきてはなかったけど近い分、比べてしまう、みたいなことも起きているのかもしんない。この生き方はあんまりしてこなかったからまだ慣れていないだけかもしんない。 世界よ、私を置いていけ、という態度は孤独こそ似合うのかもしれない。そういうことが制作にはつきものだろうか?それとももう少しきっと違う文学がある気がする、もっとポジティブで明るいがゆえに多様な。坂口恭平さんの発言の中にもあるけど、暗いよりも明るい中にこそ多様性のバリエーションがあるという話、すばらしい。保坂さんみたいだ。暗いのはバリエーションがないから集まりやすさもあるんじゃないかね。

明るいものを作っていけるかな。

2022年2月10日木曜日

旅のこと

 例によって寝れないが今日に限ってはそんなに焦りがない。自宅療養中だからだ。寝れないで困ったが手元のライトを取り出して本でも読んでみることに。

そういえばこんなことを思う。学生の頃だったらこのブログさえもっと架空のものを簡単に引き寄せて日常と繋いで書いたり、過激なことを書いたり、とにかくどこか今接続しているところから遠くにいくための制作をしようと奮闘していた。最近の自分の反省は手元の制作ありきではなくなっていたようだ。自分の手元で動かしていることから頭が働き出し、自分の言葉が生まれ、それがさらに制作を稼働していく。それが制作のプロセスで強さや濃さを生み出していた気がする。

なんとなく今日はそういうことに気づく日だった。

本の続きを読もう。

そして外の空気が吸いたくて窓の外を眺めたくてもSNSで話されることはどこかやはり窓ではないんだ。遠くを見ようとするには自分の身体や欲求をここではまず聞いて動いた方がいい。

旅に行きたくなってきた。

僕はもう30も半ばになってしまった。とてもバックパッカーみたいな年齢ではないように世間では思われそうだが本当はそんなことはなくて、いくつになっても旅はした方がきっといいだろう。そして自分の言葉を手に入れて帰ってくる。旅先で聞く人の話はすっと入ってくるかもしれない。

そしてジャーナリストというのはいくつになっても旅をすることでしか書けないことがあるだろう。世界の神秘は段々と失われていくのだろうか。それでも困っている人はあとを尽きないのだから、それが旅に出る理由でもないし、そんなことは背負えはしないのだけど。想像力を働かせることはずっと出来るだろうということで旅は歓迎されるだろう。

明日も自宅療養という真逆でありどこか似ている旅に行こうと思う。今年か来年こそは旅に出たい。

2022年1月10日月曜日

久しぶりのバトルとか

 疲れた日に限って次の日早い日に限って眠れないやつやってしまった。こないだ西尾さんから聞いた話で小さい子は眠くなったら自然に眠るのでなく、人によっては眠くなった時に何かしらの促しをえて眠りにつくことが出来るのであって、眠いのにどのようにして眠れるかがわからなくて子は泣いてしまうということを聞いたのが面白かった。

足をどのような過程をえて暖められるかとか、頭が冴えた状態でベットに入れるかとかでも変わっていくんだろうなとか考えている。

隣の家の人はデフォルトで悲鳴とまではいかないけど荒々しい声をあげて無邪気に会話を友達や独り言としてするタイプの人らしくそれがよく聞こえてくるし、たまにブラックな感じの日本のヒップホップなんかも聴こえてくるけど、それらが基本的に嫌な感じはしないのだ。愛すべきに分類されるような。でも一線を越えたら、、わからないけど。今んとこ。

じゃあこっちはどうだろう?だいぶ初期はビビっていたけど、色々音出したりよく歌いながら踊ったりもしている。注意されたらやめようくらいに思ってる。まぁ近所付き合いですかね。

今年はもっと絵を売ったりしないと生活がやばそうだな。だけどそこより質が優先されるべきで、頑張りどころだ。ずっと手を抜けないな。

今日は久しぶりにバトルに出た。8ヶ月ぶり。会場に行くと元チームメイトのあつきがいた。ずっとカメラを持っていて、そんなに周りの人とも話した様子じゃなく、最後誰かが3年ぶりのバトルとか言ってた気がするけど、そんなに出ていないのかな?以前だったら彼自身がbboyのプラットフォームそのものじゃないけど社交そのものとして機能するくらいにバトルにしたっていたのに、今日は結構1人だったりあるいは同世代の人とかといるくらいでその感じは新鮮だった。と言ったって僕だってかなり1人で来てますって感じでいたのだけど。だから数年前の距離感とはまた違う感じの今日だった。それでも準優勝した彼は相変わらずずっとすごいままだった。でも今やってる仕事との葛藤もありそうだな、とか思いながら見ていて決勝の相手はりゅういちくんで、どっちかというと純粋にbboyingの部分だけをしているのがりゅういちくんでそれで最後それが押し勝ったとしたらそれはかなり美しいストーリーかもしれない。ってりゅういちくんがどういう風に現在活動しているかわからないけど、少なくとも決勝を見ながらそういうことも考えていたことがより情景を美しくしていた気がする。本当にあつきはたくさん"創ってきた"なぁと思った。世界中探してもこんなトリックとキャラクターのある動きはないだろう、キャラクター大国日本って感じの。スーパーフラットみたいな。

2022年1月1日土曜日

うま

1/1になってしまった。さっきまでは12月の後半と思っていたのに。年越しは数年振りにRENTを観て過ごした。インスタでは誰かの神社詣りの様子が出ていて、その判断だってありえたよなぁとか思ったけどそう体は動かなかった。1番幸福なやり方が選べたら良かったのにな。

正月から泣いてしまう、泣いてしまうとそれはもう正月じゃないみたい。ただの周りは暗く寝静まったその日でしかないみたい。2022年が始まるなんて思えない、周りに合わせられない、そんな気分。そういう人他にもきっといるだろうな。でも気分なんて大事じゃない、習慣や行動、傾向があるだけ、そう思うことも出来るかもしれない。

うまくやることが難しい

僕はそれに関していつも一足遅い。

2021年12月2日木曜日

そのピアノの出だしで泣いてしまう

 映画を見た。
主人公が歌い始め、彼を中心とした世界が始まる。もちろん意識を戻せヴァ、まったく彼を気にしない世界が動いている。
ミュージカルは独白を映す。
でも自意識とか思春期ってほとんどそれで出来てる。
それでどこか懐かしくなって、忘れていたことがもう一度どこどこと音を立てて引き出しから出てくるようにして、もう一回!とやってくる。
映画見てたらもう一回何か出来るような気がしてくるのだ。
まだやれていないこと、やれなかったために苦しんでるものがあるような気がして、、いや、気づいて。

机の上に昨日、美しかったもみじがのっている。

SNSの時代、でもどこか誰かに見て欲しくて。
年を重ねていくとなるべくオープンになって、実際的になって、やることが現実的になって。
子供っぽいだろうか?この感覚。
でもそれが世界に響く可能性は?ない?

もう一回、美しいかもしれないと思う、今思える言葉をなるべくどこかに書こうとする。
自分がこう生きたいを誰からのフィードバックも気にしないところで書いておくことは可能かな。
そう思い立ってベット(布団)の上でこれを書く。
布団よりベットの方が決まって見えるから。でも今は布団の上だ。

こういったミュージカルの感傷なんて今後、大人の社会では使えないだろうか?

学生の頃、たくさん公開される日記に恥ずかしいことを書いては次の日、学校でみんなに会うのが恥ずかしくなっていた。

2つ自分がいることを会った時になんとか調整してわかってもらうことは出来るだろうか、そんな努力は不要だろうか、芸術に邁進するなら気にしなくていいことかも。でも芸術はあなたとの間に起きるものでもあるから、ここに、あなたの目の前にも私は立つ必要があり。

美しい曲を書きたいと思った。
こういうことは20年くらい前にも思ったことだ。
ずっとその時の気持ちが続いていることもとっても大事なんだ。

よし