さっきまで見ていた映画はアメリカ映画で恋愛コメディもの。
ハリウッドがなんだかんだ好きなのはチャーミングなカップルを描きがちで、思わずなんどもそんなもの見せられたらうっとりしたり、自分だって、という気が起こるからそういう風に引っ張ってくれるのって中々良いっちゃいいなと思うんだ。
シネコンなどの映画館に行くとクソみたいな商業日本映画の予告編が流れて、でもその中にもやっぱり見ればチャーミングな2人が描かれているのだろうか、、と一瞬よぎったけど脚本のセンスとかは重要かもしれないからそれはなさそうだと、偏見のまま終わる。wいずれにせよ、クソみたいな日本映画達は今の政治や企業との癒着くらいこれから変わんないとずっとダサいままな人生送ってしまうぞ、って感じだけど。
って今日はファッキンワード連発だけど、別に怒ってるわけじゃない。
確かに映画館で予告編が流れるたびに絶望して国に失望しているわけだけど。
さっきまで良い映画を見ていたわけだから。
とか言いつつ、楽しかった時間も思い出されて感情が様々な味のいくつも重なったハンバーガーみたくなる。
そうだ、この恋愛映画を見て生まれるこの感情に名前をつけるなら"感情のハンバーガー現象"だ。
最近は日課で走っててなるべく毎日走ることが出来たら少しでも風邪ひかないことに近付けるかもというかもという信仰でもって8日間くらい続いてる。
イチローが毎日、練習などをしてもケガなど少ないとしたらケガが起きないような練習であり、パフォーマンスもあげるような練習がゆるく、時に集中してがっと詰めて行なわれ続けている故なんじゃないかと走り出した夜のランニング序盤に思ったところだ。
思い出ぽろぽろはいい映画だった。
昔の日本映画も最近観てて、大林監督のとか、相米さんとか見ていてやっぱり相米さんの映画がすごいのは人間や映ってる景色や時代や街を美しいと思える時間が多い。映り込んでしまったものの美しさ。大林監督のは時代を跨いで活動しているからソフトごとの比較は楽しいけど、演出が過剰なのか美しいか、と聞かれると残念ながらほとんどそう思えない。
どうもaokidです。東京を中心に活動していますが、夢は大きくもっと色んなところで活動活躍出来たらと日々もんもんとしています。 活動はaokidとしておどったり、絵を描いたり、aokid cityという架空の街を作るというプロジェクトを持っていたり、ゲリラパフォーマンスなんかをしたりしています。
2020年4月7日火曜日
最近、ぽろぽろ
書こう、書こう思ってついぞ書かずやっと書く。書く、って書くのは好きだ。以外に誰か届ける人がわかってる時とかは書いてみる、とか書こうとか、そういう言葉が選ばれる状況が多い気がする。 書く、は自分で完結するから潔い。自分のために踊るみたいで、自分のための積み木とか工作みたいな時間になる、、、なるは言い過ぎだけど。そんな役割さえ書くに含まれそう。
思い出ぽろぽろを観た。こないだストリートビールでみりちゃんにおすすめされたのだった。映画はおすすめしたり、おすすめされたりして簡単に見返せることが好き。すぐにその人観た人と同じく新しくなって話せるから。
こないだ各地の空港にピアノを置いてるテレビ番組の中で確かオーストラリアのどこかの空港のピアノでこの思い出ぽろぽろのエンディングを弾いてる人がいて、その人はピアノの調律師だったかな?美しい曲です。
サビのような曲。たくさんそんな瞬間に立ち会いたいね、抱きしめるような時を。
思い出ぽろぽろは、小さい頃にあったちょっとした機微を捉えている。一般的な家庭が描かれているかもしんないが、その中でもある子供として傷付くことや家族のこと、友達とのことなんか。思い出したなぁ。
それらのこともそっか映画になるよな。それらのことは、ふと年齢を重ねると確かに訪れてそこから今の自分の事を見ていくような感じがする。自分の中でのそんな行き来が起きてくるし、一方で他の子供なんかと接したりして、子供と大人だけじゃなく、子供の時の自分もそこにいたりしながら、いれることだってあるかもしんない。
そうするとすごい、一回しか生きてないってわけじゃなくなりそう。多重的に生きてるみたいな。
小さい頃、広尾に住んでいて、大学を卒業したくらいから散歩したりよく歩くことが増えて、そこを歩いてところなどからまた思い出すんだよね。
絵描いててもそうだけど。
踊ってて思い出すのは思春期以降で、絵描いてて思い出すのはそれより前の頃のことなのかな。
やっぱりまだ寝る時間がこれくらいになっちゃうのそろそろ変えないとな。
思い出ぽろぽろを観た。こないだストリートビールでみりちゃんにおすすめされたのだった。映画はおすすめしたり、おすすめされたりして簡単に見返せることが好き。すぐにその人観た人と同じく新しくなって話せるから。
こないだ各地の空港にピアノを置いてるテレビ番組の中で確かオーストラリアのどこかの空港のピアノでこの思い出ぽろぽろのエンディングを弾いてる人がいて、その人はピアノの調律師だったかな?美しい曲です。
サビのような曲。たくさんそんな瞬間に立ち会いたいね、抱きしめるような時を。
思い出ぽろぽろは、小さい頃にあったちょっとした機微を捉えている。一般的な家庭が描かれているかもしんないが、その中でもある子供として傷付くことや家族のこと、友達とのことなんか。思い出したなぁ。
それらのこともそっか映画になるよな。それらのことは、ふと年齢を重ねると確かに訪れてそこから今の自分の事を見ていくような感じがする。自分の中でのそんな行き来が起きてくるし、一方で他の子供なんかと接したりして、子供と大人だけじゃなく、子供の時の自分もそこにいたりしながら、いれることだってあるかもしんない。
そうするとすごい、一回しか生きてないってわけじゃなくなりそう。多重的に生きてるみたいな。
小さい頃、広尾に住んでいて、大学を卒業したくらいから散歩したりよく歩くことが増えて、そこを歩いてところなどからまた思い出すんだよね。
絵描いててもそうだけど。
踊ってて思い出すのは思春期以降で、絵描いてて思い出すのはそれより前の頃のことなのかな。
やっぱりまだ寝る時間がこれくらいになっちゃうのそろそろ変えないとな。
2020年3月22日日曜日
今日vs明日
走っている最中に
高校生の時のようにあとこの3年しかとにかく時間がない。この限られた時間や学校のメンバーとどのようにして青春を過ごし切れるか、という葛藤に追われなるべく全力で取り組もうとしていたことを思い出す。
大学生くらいからは逆に終わりの見えない中でずっと取り組んでいる感じで。もしかしたら3年じゃないけど、ある人にとっては結婚とか、そういうことを設定することで切実さを引き寄せようとしてやるやり方もあるのかもしれないなど考える。
のんびり戦っているような感じは拭えなくて、一方で泥沼のゲリラ戦を必死に戦ってるような気分の両方がある。
でも、今や明日しかないって思うことならもしかしたらまだ出来るかもしれないって少なくとも走って斜め上を住宅街の開けた通りを走っているときに思えたんだ今夜。
今夜。今の夜と書いてこんや、か。
素敵なナイトだね。
いまのよる、か。
だって、今や明日をなんとかする、なんてパフォーマンスをしてる人としては得意中の得意分野ではないか。
なんて気の利いたジョーダンを自分に向ける。
いや、ジョーダンなんてもんじゃない、明日の自分が言う。
そういう今日の私vs明日の私
だね!
高校生の時のようにあとこの3年しかとにかく時間がない。この限られた時間や学校のメンバーとどのようにして青春を過ごし切れるか、という葛藤に追われなるべく全力で取り組もうとしていたことを思い出す。
大学生くらいからは逆に終わりの見えない中でずっと取り組んでいる感じで。もしかしたら3年じゃないけど、ある人にとっては結婚とか、そういうことを設定することで切実さを引き寄せようとしてやるやり方もあるのかもしれないなど考える。
のんびり戦っているような感じは拭えなくて、一方で泥沼のゲリラ戦を必死に戦ってるような気分の両方がある。
でも、今や明日しかないって思うことならもしかしたらまだ出来るかもしれないって少なくとも走って斜め上を住宅街の開けた通りを走っているときに思えたんだ今夜。
今夜。今の夜と書いてこんや、か。
素敵なナイトだね。
いまのよる、か。
だって、今や明日をなんとかする、なんてパフォーマンスをしてる人としては得意中の得意分野ではないか。
なんて気の利いたジョーダンを自分に向ける。
いや、ジョーダンなんてもんじゃない、明日の自分が言う。
そういう今日の私vs明日の私
だね!
2020年2月21日金曜日
エクソフォニー
そう、もう年齢も30を越えているのでそれなりに疲れる。
20代のようにはいかない、というのはよく聞いた言葉だったがいざ最近の疲れというのは経験されるとそれのことか、とわかる。
たとえば夜中1時くらいを越えてくるとふらふらしてくる少しの作業が覚束なくなってだるくなってくる。パフォーマンスができない状態になってくる。
ちょっと以前ならこれは特殊な事例として深く考えずにもいたが、さすがに結構な確率であるのでこれはむしろ"例によって"だ。
これとよし付き合っていくということですね。
ここ最近の目標はもう少し連続してなるべく走る生活をしていく。
もう少し風邪をひき難くなっていくのが目標。
そう最近、多和田葉子さんのエクソフォニーという本を読んだ。
こないだの展示は小林エリカさんも一緒だったので、何か文章づいてる。(雑〜!)
その本はドイツ語で小説などを書き、また日本語でも文章を書き、その両方にどっちつかずにならない注意を払いながら活動していることで得ていく技術や知識、起きてくることについて描かれている。
これは自身の現在の話にもまったく言えることで、たとえばダンスと絵やアートについて、とダンスと音楽について、だったりにも言えるし、そう比べられるものがいくつかあってそれを一緒に探求していくことで生まれる面白い要素たちの具体的な事象の紹介だ。
このバランスはともすればすべてが誰も説得出来ないようなパフォーマンスに陥ってしまう可能性もはらむが、引き続きの緊張感を持って挑めばそれなりに成果をあげれそうな予感がある。というかむしろいくつもの専門性を持ちうるがもっと広まったりしていくと面白いと思う。許容が増えて色んなことを面白がったり、わかることのできる事象や相手やコミュニケーションが増えそう。
まだ語学に関しては全然だけど、勉強したさはうずうずある。
言葉を一つもらうとそれだけでたくさん想像が広がるのを知ってる体も今はもう持ってるから。どんどん楽しくなるといいね。
20代のようにはいかない、というのはよく聞いた言葉だったがいざ最近の疲れというのは経験されるとそれのことか、とわかる。
たとえば夜中1時くらいを越えてくるとふらふらしてくる少しの作業が覚束なくなってだるくなってくる。パフォーマンスができない状態になってくる。
ちょっと以前ならこれは特殊な事例として深く考えずにもいたが、さすがに結構な確率であるのでこれはむしろ"例によって"だ。
これとよし付き合っていくということですね。
ここ最近の目標はもう少し連続してなるべく走る生活をしていく。
もう少し風邪をひき難くなっていくのが目標。
そう最近、多和田葉子さんのエクソフォニーという本を読んだ。
こないだの展示は小林エリカさんも一緒だったので、何か文章づいてる。(雑〜!)
その本はドイツ語で小説などを書き、また日本語でも文章を書き、その両方にどっちつかずにならない注意を払いながら活動していることで得ていく技術や知識、起きてくることについて描かれている。
これは自身の現在の話にもまったく言えることで、たとえばダンスと絵やアートについて、とダンスと音楽について、だったりにも言えるし、そう比べられるものがいくつかあってそれを一緒に探求していくことで生まれる面白い要素たちの具体的な事象の紹介だ。
このバランスはともすればすべてが誰も説得出来ないようなパフォーマンスに陥ってしまう可能性もはらむが、引き続きの緊張感を持って挑めばそれなりに成果をあげれそうな予感がある。というかむしろいくつもの専門性を持ちうるがもっと広まったりしていくと面白いと思う。許容が増えて色んなことを面白がったり、わかることのできる事象や相手やコミュニケーションが増えそう。
まだ語学に関しては全然だけど、勉強したさはうずうずある。
言葉を一つもらうとそれだけでたくさん想像が広がるのを知ってる体も今はもう持ってるから。どんどん楽しくなるといいね。
2020年1月21日火曜日
car speed and human body
今日も映画を観た。
先日、病院の検査でクレアチニンの数値が高いと指摘された。調べると腎臓が悪いということだった。明日、病院に行くのでもう一回聞いてみようと思う。
そう年末から体調崩してからほとんど家の近くの映画館によく行っている。考えてみれば劇場やライブハウス、展示などに行くのはやはりもう少しコミュニティ、社会に出て行く感じがある。映画館なら誰にも会わない、もう少し自分の中での時間軸を大事にしているという感じがする。そのことと体調を崩してペインティングばかり描いている時間というのは少し似てどちらもこもっている感じがする。
書きながらなんかちょっと、変なリズムがお腹の方でする、これは腎臓が悪いというのは塩分などを控えないといけないことに対して大きなポップコーンの塩味&キャラメル+コーラを2日続けて摂取したことが引き起こしているのか、帰ったらどうしよう、ランニングでもして少し紛らそうかな。
今日はフォードvsフェラーリを観た。
観る前、これはよくある対立構造と切磋琢磨、友情あたりを扱う作品かな、なんて思っていたんだけど予想よりも入り組んでいるし、もういくつかの側面が足されて描かれている。この映画を通していくつか頭に浮かんだことばがあり、
つまり映画とは万華鏡のようで手に取ることが出来てそれを覗けば光が差し込み色がよりいくつもに分かれて回して楽しくなるように、大きな画面と、照明や太陽などの光が差し込み人の動きが立体で動きそこに音楽があてられ観ているこちらの身体もまるで動き出すことを誘われるように映画館の中で時間を過ごす。
また車の速さを思った。
スピードに対し、感動するということがあるのではないだろうか。その速さの果ての、映画のセリフの中でもあるようなことをそう言えば踊っている中で発したことがあった、つまり身体だけになる、みたいな。
果てしなく速くて、ただそこに自己の肉体だけがマシーンの中にあった際にその景色をどう思うか、感動はあるのだろうか。
速すぎたり、遠すぎたり、離れすぎたりするということは強い孤独を生む、その孤独は旅の孤独とは違うのか。
1人で映画を観始めたのは18,9年も前になる。映画を1人で見始めた時に自身の人生が始まる、とも少し言えるのかもしれない。
18,9年くらいはまだ映画を見て人生が照らされるように感動している。
この先のことはわからないって思いは強まるが、しっかり"その映画"を観たように自分の仕事や世界にまなざしを向け取り組む事をやらなきゃいけない。
また少しでも、すばらしいwonderfulな映画がきっとどこかで生まれるように、準備をしなければいけない。
そんな風に描けるようにすべてをなるべく注ぐように取り組んでいくべきだ、
2020年1月20日月曜日
燃費
今日は誕生日だ。
32になる。
誕生日のこの日良かったことといえば呪いのように先月から続いていた風邪(それだけではない)が劇的に良くなったと思えるくらい回復。多分あと数日で治る、そう思うと明日からの平日に耳鼻科へ行こうと思っていたプランはなくなる、と同時に健康での2日の予定を新たに立てる気まんまんなのだけどそれは見切り発車で、皮膚科に久しぶりに寄るべきではないのか、あの数値を確かめに行くべきでなかったのか。絵を描く時間をとるか病院に行く時間をとるか、だろうか。
いや、そこは病院へ行こうよ。
飴屋さんの本をもらったので、それを読み始める。もらわなかったら読まなかっただろうな。飴屋さんはいつも気になる、誰しも気になる人ではあると思う。だけど独特な距離感で知っていて、そうこの距離感なんだと思う。いやそういうことすら書くべきじゃなく、ただ頭に浮かんだりする、そういうことが大事なんじゃないだろうか。
今日どうしても絵を描くこととダンスの練習会に参加することはしたかったから、その2つは達成。
夜は練習を早めに切り上げて映画館でイーストウッド。
イーストウッドは毎回、社会派映画をとる。
ということは毎年、その主題を取材し制作に取り掛かっているんじゃないだろうか。随分おじいさんなのに多くのことを知り、人に伝えるように作る、という作業をしてることになる、と前にこの作品の予告編を観た時に思ったのだった。そしてまたこの想いがやってきた。
ニュースやらで想像されればそれでちゃんと頭に入ってくることだってできるのにやはり映画を見ることで想像の手助けをしてもらっているみたいだ。
なんというか燃費が悪い。
相変わらず燃費の悪い男がまた一つ歳を重ねた。
2020年1月11日土曜日
pink and blue
今はtychoのjapanってのを聴いている。ちょくちょくそういう風に曲のタイトルに土地の名前がつくということがある。適当もあるだろうし、実際に行って思い入れがあるというのもあるだろう。
昨晩アップリンクにマリッジストーリーを観に行った、普通なら大きな映画館でやるだろう、だってアダムドライバーにスカーレットヨハンソンなんだから。なんてことを狭い席に座って思った。だけどこの手作り映画館はやはりどこかかわいくて家のようだ、小さい室内で少し席の離れたところでする物音や話し声がこの空間のことを少し愛おしくもさせるのは映画の序盤、入りかけの観客だから許されるかなぁ。
この映画が終わりとても1人であることを感じたのか。
RENTを今は観たいんだ、ということを思い出していた。
なぜ10年前あんな気持ちを持ったのか、ここには誰にもわかってもらえない、場所がない思っていた。
今、そんな気分。
ここで今まで作ってきた答えだって、今ここにいるから生まれてきた。返答集だ。
他に話せたかもしれないことが、言葉が、動きが、行動が、生まれないとしたら作れなかったとしたら泣いてしまいそう。
この10年でどこかに投げた言葉はすぐに壁があって、戻ってくる、何を言っても社会的なものになってしまう。
何百年も前、海の向こうに国があったかどうかもわからない時代が懐かしい。
身の周りを考えた社会的な制作に取り組まず、遠い宇宙のことを考えるんだ。
昨晩アップリンクにマリッジストーリーを観に行った、普通なら大きな映画館でやるだろう、だってアダムドライバーにスカーレットヨハンソンなんだから。なんてことを狭い席に座って思った。だけどこの手作り映画館はやはりどこかかわいくて家のようだ、小さい室内で少し席の離れたところでする物音や話し声がこの空間のことを少し愛おしくもさせるのは映画の序盤、入りかけの観客だから許されるかなぁ。
この映画が終わりとても1人であることを感じたのか。
RENTを今は観たいんだ、ということを思い出していた。
なぜ10年前あんな気持ちを持ったのか、ここには誰にもわかってもらえない、場所がない思っていた。
今、そんな気分。
ここで今まで作ってきた答えだって、今ここにいるから生まれてきた。返答集だ。
他に話せたかもしれないことが、言葉が、動きが、行動が、生まれないとしたら作れなかったとしたら泣いてしまいそう。
この10年でどこかに投げた言葉はすぐに壁があって、戻ってくる、何を言っても社会的なものになってしまう。
何百年も前、海の向こうに国があったかどうかもわからない時代が懐かしい。
身の周りを考えた社会的な制作に取り組まず、遠い宇宙のことを考えるんだ。
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