2020年12月28日月曜日

NIGHTLESS

 最近、寒いからなのか、タイミングを逃すと一気に夜眠れなくなるな。 電車の中で本を読んでいるとあんなにすぐ眠くなるのに肝心な時に眠れない。考えてみればこのブログのほとんどはずっと眠れなくなったタイミングで書かれることがほとんどなんじゃないだろうか。 SNSをスクロールして川のようにずっと上流に昇っていくかあるいは下流に下っていくかのようにして眺める時間が多すぎる。むしろ本物の川をぼんやり眺める時間にとって代えればいいのに。 "代えれば"はか"変えれば"かどうか使い方によく迷う。間違えたまま使っているのかも。

年末だけどやっぱし今年を振り返る人が少ない、区切りをつけれない、というのもあるだろうし区切りをつけれない人たちのことをそれぞれが気にしてるからなんじゃないかな?とか考えてみたり。

誰か達が強く勝手だった、からコロナが広まったというわけではなくて。それぞれの持ち場でそれぞれでそれなりに周りが変わってく中でパフォーマンスは仕切ったとも言えるんじゃないだろうか、こればかりは小さな反省を見つけて言いつけるなんてことが難しいように思える。 いやもっと、状況が厳しい人の態度は違うかもしれないな。

今年は表の世界があると仮定したら表の世界で相手を確認し、クリアな視界で生き切るような活動が難しかったかもしれない。みんな、半目状態で見回しながら手探りだった。その中でどれくらい知らないに出会えただろう。 もっと知らないに出会いたいという欲求が高まって来ている。これは欲望だ、欲しがっていると思ったら、ミスチルの新しい曲でも欲望に関してがサビに来ている。 新しい、知らない、と出会うときの通りいっぺんじゃない言葉を用意する必要やこれまでのことが通用しないということにもっと出会わなきゃいけない気がする。退屈な気がする。 欲望の存在を確認することも結構大事かもしれない。誰も自分ではないのだ。一方で誰もが自分であるんだけど。大丈夫でしょう、自分に言い聞かせるように。

そう結局、最後そこに結びを付けたのはホームアローン2をクリスマスに久しぶりに観た。もしかしたら友人などもいなくなってもホームアローン2の映画を再生することで引き止められることがあるんじゃないか、取り戻せることがあるんじゃないか、ボールを返してくれる壁になってくれることがあるんじゃないか、そう考えてみることが出来るように思ったんだ。物というのは人と違ってパフォーマンスの可変が毎機会ごとにあるわけじゃない、そう考えるとやっぱ人だけじゃダメで、何か物がある必要、作られる必要がきっとあるはずだ。僕がその人の相手をしてやれなくなっても、作った物ならその人の時間を有意義にしてくれる可能性があるかもしれない。 だから最悪、人に見捨てられても物を作ることが引き止めるかもしれない。などを考える。 むしろそれくらいで考えて物を作るべきかもしんない。

2020年12月24日木曜日

きらめいてひらめいて

 思った以上に現実をなんとかする、ってことだとこないだ気付いたはずだった。実は最高に持っていけるはずの手前、なんだか自信をなくしてしまったり自信の使い方を間違えてしまったり中途半端にしてしまったり、その姿勢の先をピシッとすることが出来れば、そのことでやっと来るべき音を待つことが出来るということを。

書けば忘れないかな。 違くて、だんだん思い出せなくなっていくのかな。 あまりにも新しいことにいつも人は出会ってしまうから。思い出すよりやるの方が手前にいつもどうしても来てしまうから。 あんなにわかった気になっていたのに。 


2020年12月21日月曜日

夜と朝

 最近は眠れないことも多い気がする。

最近はamazonプライムのドラマusをずっと観ている。家族に関するドラマなんだけど、片方ではこう見えていたことがもう片方では違う経験として経験されていることなどが描かれる。そうかもしれないな。うちの家族も。やっとそういうことを少し想像できるかもしれない。 またドラマはほとんど見ていなかったから2時間の映画で描くことの出来ないことをなしうるし、提示出来るものなのかなって少し思った。

先日、少し自信を取り戻せるかもという思いがやってくる久々の感じがあった。というか自信というのは中途半端に持つのでなく、元気を待って持つと輝くのかもしれない、そういうことを思わしてくれるものだった。

2020年11月29日日曜日

still

 今日は横浜のワークショップの帰りに町田で久しぶりに練習して帰ることにした。するとおまめがいたので2人で練習。最近、bboyとまた練習するようになったとは言えあんまり話したりもしないでただ練習だけして帰ることも多いのであんまり話してなかったけど2人だったしちょっと話した。いくつかのことが進んでるみたいで、良い感じそうで良かった。知り合って彼でさえ10年くらい経つんじゃないかな。

そういえば昔も練習場所で誰かと2人になったりすると濃い話をしたりしていたことを思い出した。ミッキーさんとかとよくそういう時間を過ごしたなぁ。自分もミッキーさんもたくさん練習しまくってる時期だったのか(基本ミッキーさんはいつも練習していたけど。)、なんか覚えている。すごく懐かしいなと思ってしまう。そうしたらそうだやっぱり今も、振り返ってそう思えるような時間が過ごされてもいいし、あるいはもっと違う時間でもいいし、もう少しその思い出を眺めるでもいいし。


僕はもう来月33歳になるのか。

これまでの15年よりこれからの15年のが早いと感じるのかな。


まだ話したことない人と話そう。やりとりをしたことがない人とやりとりを交わそう。出会っている人たちと何かしよう。いつでも全てから逃げてもok。


2020年11月5日木曜日

アフタービール

 ストリートビールの帰りはいい感じにビールが浸透した体で電車に揺られて帰る。電車のスピードと聴く音楽がこう立体的に立体駐車場!じゃなくとまらないで蠢いたまま進む。夜の光を照らさなくてもいい。もう十分に胸はいっぱいだ、このからだはいっぱいだ、いっぱいだった。 こんな風にさっきのこと、今のことも過去に出来ちゃう文章の自由を!いま、ぼくは、行使している。

今聞こえてる音楽はcrash into meだ、me、ジュースが体に浸透するみたいに。オレンジジュース!

帰りの電車はみんなくたびれてしまって疲れてしまってまるでふとんのように戦闘をやめたみたいにして踊らない状態。これからよるははじまるってのに。 誰も楽しい世界を知らない、今、超、世界が輝いているのに、映画は眩いのに、いいの?よし。へい。ごう。うん。ぱん。しん。てん。

よしよしよし。

何もなくても今はこのまま何か大きいものを持ち上げれそうな気分がやってくる。


2020年10月11日日曜日

チョキ

 明日早いのに寝れない。

インスタを始めた当初はいよいよこれを始めるんだ、何を投稿しようかとワクワクしていた。新しい出会いがあるかも。刺激によって新鮮な感じを受けたりそんなことを思ってたのに、今は何か反応をビクビク気にしてしまって投稿しているなんてクソみたいだと思って気付き始めてる。

みんな勝手だなぁって思うことがあった。普段はそんなこと思う方じゃないがやはり自身が専門にしていることにはうるさい。文脈を踏まえてほしいと思ってしまう。馬鹿すぎると思ってしまう。専門性に関しては。なんのために自分がどういうことをしているのかを無視しているんだなぁ、と思えてきてしまう。

もっと全然嫌われても良いのかもしんない、という言葉が頭をよぎった。人生は大事なんだから。

クサヴィエドランの映画を見ると発見を持って帰る。どういうことだろう?映画の中で様々な形での愛のやりとりが描かれ、抽象度を高め、音楽とともにハイなところへ持ち上げられる時に、共感しそして憧れをいつも抱く、このような恋愛の天才とでも言うような瞬間を誰かと過ごすことについて、その才能のようなものがあるとすれば、何を手放したっていいみたいな。そういうのを観た後、雨が降ってても傘をさす気にはなれなくて雨を浴びながら歩いて帰るみたいな。そういう映画を用意してくるやつなんだ。彼は。そしてもうひと段階、自分ももっとピュアな自分と向き合った作品こそ作るべきなんじゃないかって気持ちになる。

展覧会の写真を見て、もちろん絵画好きなはずだけど最近一瞬頭をよぎるのは、本当にそのやり方しかないのだろうか、ということだ。絵を描くしかないのだろうか、なぜこれほど人がいるのにみんなやり方が似た方向になってしまうのか。生きている場所からのインプットとアウトプットの関係について検証しないのだろうか。圧倒的に破壊が足りない気がする。クリエーションしかしてないみたいな、ノーデストロイみたいな?

日記の中にいくつもの状態が入り込んでしまった。

東京の現状ではどうしてもリアリスティックな表現を僕は選んでしまいがちだ。この状況に抗わないと意味がない、みたいな。一方で本当は自分にこもって良いなと思うような幼児的というか、対象にのめり込んだ表現は後回しになってしまう。

悩んでも構わないけど、そんなことよりも人生ということだ。とチョキが出されていた。全部が僕より早い。w

2020年10月3日土曜日

アルマゲドン的な月を見上げれる場所

 昨晩、クタクタになってそこで寺尾紗穂さんの曲を聴いて何年か前のソケリッサと寺尾紗穂さんのライブでそこにいた誰もが子供みたいにオイオイ泣いていたあの時間を思い出したら泣けて来てしまった。そこからいくつか胸がいっぱいになってしまい泣いてしまった何か達を思い出していった。 何か誰かと一緒になって熱くなってお互いにいるんだ、ってことがわかる瞬間だとかがここだけじゃなく色んなところに普通に起きている安心がやっぱり作れないかって思った。みんなどことなく気を使っていて、みんなが頑張っているような状況だから何か伝えるのは傍に置いてってなってるんじゃないかって思えてきて。

それもあって今夜はストリートを行った。遅刻して15分くらいいつもより遅く始まったんだけど1人で到着するとなんか嬉しくて、通りゆく渋谷の人たちと接点が持てそうなことにすごくワクワクしていた。この感覚はいつもあるわけじゃない。人同士であることを喜ぶみたいな感じがあった。すぐに西山さんがやってきて、段々とダンスが始まっていったんだけど。

ストリートビールで猫道さんが歌ってくれた時に、これだ、人の歌よ、人に向けて、体の間に存在する事を少しづつ取り戻しておくれ、と思った。 


最後、アルマゲドンの曲を流すと背景の満月と雲隠れに気付いてみんなで興奮してしまったんだけど、この構図を作ったのもやっぱりこの集まりでこの体の流しで見れたことだからすごく最高だったなぁ。

先日、少し竹内さんのことを書いたけど、本当のことはどうもわかんないですよ。一瞬なのかもしんない、もうダメって思うのは。海外に行くことも難しくて少しづつ日本で出来ることは増えても、差し出された限界の中で生きることと今やってるやり方の間で突破口やそれでokを出せるとこがないなんてことは、全然あって。むずいですよね、変なことを結局みんなで作り出している最中ってこと?なのかもしんないし、そうじゃないかもしんないし。でもなんか訪れてくる瞬間がある人はあるから、、

ちょっとずつ歌い出したいな

2020年10月1日木曜日

タクシーの詩は良かった

 今夜は疲れている。東京に帰ってきてからまた1日の中で頭痛やちょっとの体勢のズレで疲れてしまったり、目の奥や頭が痛く集中出来なくなるやつ、錯覚で呼吸も不安になるやつ、がやってくる。こんながいつも続くなら結構東京にいるのダメかもしんないな。じゃあどこかに行くのはどうなの?どうなんだろう。そもそもモチベーションがないかもしんない。

時間的には今日は結構いいやりくりが出来た日だったと思う。うん。展示も見に行ったり、スタジオでも練習出来たし、絵も少しとりかかれたし、オンラインの方も少しだけやりとりをした。

すれ違いざまの友達にまるでエスカレーターみたいに通過していくね、遠くから言われた。その通りだった、あの次の電車に乗ることこそが優先事項で目指された先になっていた。久しぶりの再会だったのに。

原宿のスタジオからの帰り道、人気のない原宿から渋谷にかけては4、5月を思い出す。あの時はたくさん空間と時間があって、誰かに会いたくてよくあの曲を聴きながら歩いていた。昼なのに夜にふさわしいキラキラした曲を聴くのだった、戻ってきてほしい時間のことだった。

夜はAmazonプライムのドラマを観た。インド系の彼はスラムドックミリオネアに出ていた。恋人との出会いの一連の流れが素晴らしく興奮したのだけど、これは映画あるあるの恋が生まれるところっていうのはやっぱり一番なんていうか興奮して瑞々しくフレッシュな輝きを観客に与えるのは当たり前か、だって複雑になってギスギスを瑞々しく表現し観客に興奮し初恋のような気持ちを与えるなんてそれは無理な話だから。当たり前なのかもしんないけど、相変わらずやはりその一連の流れにすごく引き込まれているのだった。

誰の目も気にせずに新しいことに日々飛び込めたらどんなに素晴らしいだろう。

そういう気持ちがあるからなのか、いつも誰かと一緒にいるというのは出来ないのか、かと言って飛び込む勇気もないのか宙ぶらりんなのかもしんない。ともかく言葉を出してみる。

もっと仕事を自由に出来るはずなのに出来ない日本の社会はクソだと思った。仕事の手先こそがそれぞれの未来を作っていく芸術そのものなのに目的は別のことにとってかわられている。怖がりな社会がそうしている。

そのことを考えていると急に竹内さんのことも考えちゃった。いま会いにゆきますは、高校の時に何度か観にいった。女の子とも観に行った、その子のことを好きになろうとは結局しなかった。音楽が好きで何回か行った、不器用な主人公に自分を重ねようと観に行っていたのかもしれない。

その頃はよく竹内さんを見かけたけど、いい女優さんだなんて思ったことは一回もなかった。どこか不自然で、なぜ?って思っていた、なぜこの人に女優をやってもらおうとしているのかわからなかった。

仕事の話と繋げて考えるならば、仕事ということの面白さをあまりにも軽く見ている人たちで作り上げた社会みたいになっていると思う。綺麗だから女優さんにしちゃおう、とかやめた方がいい。様々なことは動詞的に選ばれるべきかもしれない、そしてその動詞にもう少し委ねよう、いいか?みんなで作っている最中なんだ、これは。全員で手を動かしているんだ、ということを確認したい。そこにこそ楽しさがあるじゃないか、楽しさを脇に置いておくなんて馬鹿げている。



2020年9月13日日曜日

映画を撮りたくなる気持ち

 先日、町田で練習した後に半年ぶりくらいに3000回以上歩いた道を歩いて帰ることをした。それはそれでなんかとても大事な時間だった。ここ数ヶ月、結構忙しくてしかもこれまでとは違う忙しさで、それはオンラインだったりパソコンでの事務作業が増えたことや管理し進める作業が増えたことによったり、または少しそれ以外の生活の仕方や社会の変化ももちろん影響しているだろうし、今年は体が変化して来ているのも強く感じている。そんな中で少し疲れてはいるなぁと感じることは多く、少しその半年以上ぶりに歩いた時間が少し自分への癒しにもなった気がする。

ささいな回復が突如起こるというか。

今日も疲れているなぁと思ったけど、オンラインでの橋本くんとのラフなイベントは何か懐かしい感じもしたし、その後でランニングしていると久しぶりにこれも半年ぶりくらいにあの猫に出会って戯れ遊ぶことが出来てこれも癒しだった。

あんまり目を合わせてくれない猫だけどとても人なつこいのでちょっと前に歩みを進めて屈んで猫を待つようにみていると向こうからゆっくりと歩いてくる景色が覚えていたくて、しっかり顔を覗き込んで。


そんな時間の前に今度はなんとなく歌を歌って人に歌っていることを伝えていこうと前から思ってたことも久々にやってみた。すぐに即興的に。

もしかしたらこれからは固定的な曲の時代でもないのかなぁなんて最近はどこか思ってるとこある。もっと使っていこうってこと?なのか。絵を描くように歌を歌ったりその場に対応するみたいな。

変な写真や動画の順番を貼り付けていく作業も楽しくて、根拠もない作られ方だけど、出来たものを楽しがるようなマインドがあって。こんなことしてたらアーティストや作る人は脅かされると思って怖がるんじゃないかな?なんてことをランニングの最中に密かに思う瞬間もあって。

フランシスハってあんないい映画だっけ?って久々に見て思った。パリに行ってもほとんども何もない映画なんてあっただろうか?どこか自分のさえない海外旅行の日を思い出していた。ブックスマート見てから、友達を使った映画を撮りたくてしょうがない気分。

ブルックリンの人たちって、私たちは最高でクソな世界の中の都市とまぁ言われてるらしいとこに住んでいるって態度が眩しいよね。親への信頼があるみたいな、パフォーマンスが。

映画ならどんなことを投げかけれるだろうね。

豊岡から帰ってきたらデートがしたいと思った。

2020年8月28日金曜日

出来る時

 どう見たって渋谷や表参道を歩いてる人の数は減っている。これまでの通行人の数からあてにしていた商売をやっている人はやはり厳しくなってきているのだろうか。

明日の蓮沼フィルに向けて今日もリハーサル。稽古前に近くのスタバにいくと赤い服を着た人が視界に入ってすぐにマヒさんというのがわかる。面識はないけど、よく夏はGEZANを聴いていたので、なんだなんだか今日の調子は悪かったのだけどこの時間から良くなっていくような気がした。
今日のリハーサルには柴田さんやXiangryuさんも参加。
柴田さんとか会うの久しぶりだしまさか一緒にやれるとは嬉しい。
撮影にはジーマも入っているので懐かしい。10年越しな感じ。

蓮沼フィルはライブ10回以上見ているんじゃないかな?随分ファンだったわけだけど、こういった形で参加出来るとは思いもよらなかったのでたぶん幸運だろう。
見せ方を作るのは難しいけど、音楽を大幅に頼りにダンスを続けている人にとってバンドに混ざって行われるライブというのはかなり恵まれた状況だと思う。
僕はこれまでに東京塩麹とも貴重な機会を何回も重ねたし、どいつたるねんにも参加したり、松崎ナオさんには振付したり、よださんとは一緒にクリエーションまでしているのだから本当に栄養過多と言われてもしょうがないかもしれない。が、まだまだ出来ることはたくさんある。額田くんにももっと相談しよう、などと思うのだった。

スパイラルも初めて展示に参加した場所でもあるので何かいいチャンスだ。

最近、実は仕事は忙しくてバタバタ毎日していて追いつけてもいない。
しかし、そのどれもが違う仕事で自分の仕事としてやってほしいという依頼であるというのもこれは恵まれた仕事の行われ方だと思う。
一方でカフェのバイトも出来れば入って、その行き来でバランスをとりたさもどこかある。
色んな場所でそれぞれだからこそ出来る仕事ということで世界が作られていく割合が増えるといいなと思う。そのためにはなるべく他の人がやっている仕事を知っていくという必要がある。様々なやり方や事象を面白いと思える感性を育てていく。新鮮に受け取れる感受性をどのように保つか、

今、2Fの窓越しから横断歩道が見えるのだけど向こうから歩いてくる人をちらっと見たら目が合ってドキッとした。身の危険?これって緊急事態宣言下ではなかったやつだ。
みんながそれらの目線を時に気にしストレスに感じたり、それを利用し自身を磨いたり、お互いに関係しないことがないというのがデフォルトだ。
始まっていないということがないことをもっと積極的に受け入れ、勇気を持って影響し会おうか。出来る時。

2020年8月4日火曜日

新しい

ふぅー、コロナ前より忙しくなってしまって作る仕事がいくつか同時並行で進んでいる。
今体調を壊してしまうとやばいので気をつけないと。
絶妙なバランスで、というかうまくやれては全くいなくて誰かに頼りながらという感じになってしまっているのだけど。
難しい。
その日のその時間いける気がしても、何時間後、どっと疲れて休まなきゃとなったり。
ふひふぇ。
やれるときにブーストする感じで、無理はしないこと。
あの人やその人は元気にしているだろうか。
新しくなるならいっそ何事も新しくやれないかな。

2020年7月29日水曜日

今夜は眠れない

今夜は眠れない。
今夜が次の日を跨ぐと今夜はコインみたいに布団みたいに裏返るのか。な。
ここ最近あっという間に忙しくなって全然公園にも行けてない。
4月、5月の生活は遠い過去のようだ。とすると2ヶ月走り抜けたのか。
6.7月を思い出すのはむしろ少し時間がかかるくらいかも。
たぶんマネージメントが1人で出来ていないと思う。
コロナで色々組み変わってしまったのはどこだろう?
自分?周り?システム?
わからないから、得体が知れないとしか形容出来ない。
何が変わったかもわからないのに感覚は以前と違うとするなら、変わったとか変わらないとか自体を言いにくい。
その話がしたいのは山々だけど。

もうすぐ夏だけど昨年の6月の楽しかったことを思い出している。
時は戻らない窓の向こうの景色か。

2020年7月22日水曜日

水面の下

あっという間にいっぱいいっぱいになってしまった。
今まで通りとはいかないのに、今まで通りのように通さなきゃクリア出来ないようなそんな感じが迫ってきちゃった。
できっこないとどこかで思っていて、でもこれをちゃんとやるってことやらなきゃ、ある意味で批判しているものとまるで同じで何も言えないんじゃない?という感じもしてきちゃう。
簡単にいっぱいいっぱいになってしまう。
難しいね。
難しい。
一瞬にして生きることは難しいじゃんって思っちゃうじゃん。
一瞬にして楽勝にもなるんだけど。
そう考えるとほんとにあれもそれもわかんないよ。
そうなっちゃうことがあるんだからさ、と。
少し悲しくなる。
逆から見たら笑えてくる。

ともかくいっぱいいっぱいの時というのはまるで海面に顔を出さずに長めにブレストを入れて泳いでる時のような感じで息がつまりそうになる。

2020年7月10日金曜日

眠れる獅子

とにかくずっと踊ってばかりの国の曲ばかり聴いているここ何日かだ。無駄にSNSを指でスライドして過ごす時間が増えている。内容としては5月くらいの方がもう少し方向性があったのだけど、今はみんなバラバラなことが出始めている。
今日もストリートでやっていた。
SNSでストリートライブのことを検索してもほとんど出てこない。それが全てではないので気にしなくていいのだけど、一つ見つけた中で昨年のたぶん人が増えた際に通った人でストリートダンスをしている人からの意見が書いてあった。そしてそこには安田ビルのことを知らないのだろうか、というのも添付されていた。
なるほどそこが引き合いに出されるとは思わなかった。

でも考えてみれば、ダンスを人に影響を物理的に変えてしまうための手段として用いるみたいなことは普通にダンサーになる中で考えたりもしないことだろう。

今日も電車で現地に向かうまでの間、何を自分は信用しようとしているんだよ、と思っていた。
まるで魔法を信じてるみたいな形にさえ見えてしまうんじゃないだろうか。
あまりにも世間と逆を行っているのか。
しかし、通った道の上ではこう考えていくのが段階としてむしろ出てくるものなので。

明日も聴いちゃいそうだ。
そして上手くスケジュールを組み立てられなくても、どこかロックな気持ちが起こってる部分は伸ばしてあげよう、眠れるドラゴンを撫でるみたいに。

2020年7月9日木曜日

ふぅと風を吹かせて

夜はグレイ
ぼんやりした頭で書き出してみる
やがてすぐに今までのような忙しさがやってきて隠れられなくなっていって、近くのモールの植物たちの名前を覚えようとしていたことも引っ込んでしまった。

周りの慌てている人たちも、それはそれで別の人にお叱りを受けている。
いやいや、日常生活を丁寧に歩き通すことの困難さ、がある。

伝わるように書くのをたまに放棄してしまう。
自分なりの道を立てたいと思ってるのかもしれない。
それだって届く範囲は限られてくるというのに。
それは結局のところ、自分にかかってくるね。

いくつかの自主イベントを再開した。
それはなるべく自分のために行われるべきだ。
自分の制作として、自分を確保してみる、やりたいことを許してみる。
他の人がそこに参加するかどうかは置いておく。みんなそれぞれに見たいものがあるんだから。それが素晴らしいことじゃないかと思う。
でも少しこっそりここで集まれそうな人とひそひそと集まるのもいい。
闇の方から引っ張られ連れ去られてしまうまでは、この声で話そう。少し適当に。

ふぅそしてまた起きると明日が始まる。

2020年6月24日水曜日

砂丘

一昨日かな?3331でやっていた90年代のアーティストによるゲリラ活動をまとめた展覧会。そこには会田誠さんや小沢剛さん、宇治野さんに、曽根裕さん、そして村上隆もいた。それらはどちらかというとおまけ的に紹介されることのが多いのだけど、当時の資料を見る事が出来る貴重な機会。
自分らの現在の活動と比べるとどうだろう?比べられるかな?
この日は久しぶりに友達の展示を見に行こうという目的を持っての久々の外出だった。
途中、村上隆のラジオがあるというのでなんてタイミングだ、なんて思いながら聴いてみる。
懐かしい、学生の頃はよく村上さんの声を今より聴くことが多かった。
安直な夢もあった。安直だなんて、当時の自分に向けて言うなんて。
なんか色々思い出されるな。

今日はヒアリングというか、今後のプロジェクトの打ち合わせがzoomであった。
その際に周りの舞台の人たちの状態を聞かれて、僕が答えたのはみんなが各々に少し変わった事だと伝えていた。
自分でも話しながらそれを確かめていくんだけど、この遠隔での連絡しかとれない間にそれぞれが自分の身の回りや自分と向き合ったのか、別々のベクトルで変わったような印象を受ける事が多いと思った。
だから向こうが聞きたかったのはそれぞれの経済的だったり、気持ちの部分だったかもしんないけど別のことを結果的に話してしまった。
でも悪くないと思うし、その描写はむしろ新しい感じもした。まだ読んだりしてないかも。

あの自粛期間が少しづつ渦中にいなくなると同時に去っていく感じがある。
そう言ったからと言っていわゆるコロナ状況下にいることを忘れてる、と指差される感じは違くて。
というか忘れるということはなくて、変わってないことは一つもないかもしれない。
そんな中でいくつか人と会って話したり、それは意外な場所からの連絡だったりそういうのがいくつかあった。
こないだも10年ぶりくらいに旅先であった年上の音楽家の方からの連絡、出会ったことはうる覚え的に覚えてるけど顔が思い出せない。
だけどその連絡とともに出会った時の海の波の音が寄せてくる感じがある。

アントニオーニの砂丘をたまたま見ていて砂丘で出会ったばかりの少しづつお互いを話す時間は、旅先の感じに似ている。結構、真っ白で自分たちしかいない、みたいな。
少し自粛期間中は砂丘のようだったかもしれない。

またコロナ前までは見た映画を書き留めていたのに自粛期間に入ってから書き留めるのをやめていて、でも今思ってることはその時間の中で見た映画のことを忘れたくない気持ちだった。

明日こそは映画館に行けるかな。

2020年6月5日金曜日

うたと踊りのこの手を伸ばして

‪メロディーに言葉をつける。‬
‪すると時間が生まれる。‬
‪時間があるとそこに踊りをつけれる。‬
‪するとどうなるだろう?‬
‪見方につけれる?‬
‪手を振るとその時間が自分になる。‬
‪自分のパワーになる、そんな感じがした。‬

落ちるより早く、君が見つめるが早い

もしかしたらさっきあの時もう少しいい踊りが出来たなら世界を変えれたのかもし!れないのに。
そんなことを思ってしまった。
話していた目線の先を覗いて。
勝手なことを。
思ってしまった。
あの曲を選ぶべきだった。
でも一瞬じゃわからなかった。
若い人の速さで。
それをまだ愛していてもいいと思うんだけど。
世界は反対するかもしれない。

今日のお昼に思ったサイダーのシュワシュワと初恋の気分とクラブに到着してメインホールで自分の曲が鳴っている時の気持ち。
それらはそれぞれで違うのに、少しだけ重ねて見るとなんか似てる、みたいな。

外に出るというのはそういう瞬間に出くわすとこと。
出くわすと書くと出会すと出てくるんだね、知らなかったよ。

と綴るこの言葉たちは読まないマンガの主人公たち。

必死にあがる。熱おさえて話す、フォーエバー。
そうか、こうして都市を生きていたことを思い出す。
水が流れていたんだね!と。

長いと速さ失う?

涙が落ちるより早く踊ってみて!


2020年5月21日木曜日

2016

携帯を買い換えるとクラウドの中で更新されず溜まりっぱなしになっていたカメラロールが覗けてそのストックは2016年分のもの。
そのカメラロールを指でスクロールして思い出と対峙していく。
様々な写真が出てくる。どうぶつえんを始めた年だった。
その時に好きだった女の子と映ってる写真。代々木公園で幻の練習となった日の写真。吉祥寺でみんなを連れ出してパフォーマンスした日の写真。みんなで海に行った時の写真。
裸でライブする村上さんの写真。個展の時の写真。新聞家のドラマシリーズ。やっぱりまた公園に集まった時の写真。
すべてが愛おしくて切ない。
こんな気持ち久しぶりだ。
というかそんな振り返り方は最近していなかったのではないか。
ランダムに並んだカメラロールはただスナップを重ねた乱雑なその年の写真をページをめくるようにして時間を追いかけていけるから、それだからか。
思わず2016年なんて写真集を作りたくなっちゃうくらい。
愛おしい世界だ。
走り抜けてよかった。
しかしソロじゃない。その都度、一緒に走るランナーたちが写ってる。なんて輝いていることだろう。
4年が経つと、でも、その時にあったものがもうなくなっていたりそういうこともある。
そういう年齢なのか。とも思う。
でも一方で10年以上前とも変わらないところもある。
一体なんなのだろう。
このカメラロールを下がっていくと4月に渋谷のTSUTAYA前で都心における現代の最高の絵をパフォーマンスで描こうとした日の写真や映像がいくつかある。
村上さんがフィッシュマンズの似つかない完全にオリジナルに聞こえるようなカバーをしていて僕の描いた絵が雨に濡れている。
この日は雨の中、踊りあった。
誰の青春だよ、これ。って紛れもない自分たちの青春のためだった。
海でも上野くんが歌っていた。
吉祥寺では村上くんの裸の写真で。いつもお前、裸じゃんとカメラロールを見ながら思う。お客さんだって少ないのに。
でもそういう友達と過ごした時間は決して大勢の前で行われた勝利なんかではないけど、近くで過ごした僕たちにとっては非常にかけがえのない時間だったように思えてくる、このロールを見ていると。
手放しちゃいけないよ、と思った。
お前らが楽しめ、と。
もちろん他の人を巻き込むこともいつも最高に大事だけど。
僕らが楽しまなくちゃだ。
この人生や時間を少しでもなんとか出来そうな予感があるなら、それは離しちゃいけない。
実際それをやってる時、クソみたいとか思うかな?でもほら、振り返ると最高じゃないか。
目の前に人がいるということ。
もう何万回も生きる。
生きることに余裕こくなよ!

2020年5月19日火曜日

歌えない

最近の夜はやくたたず。
外に行ければこのパフォーマンスも変わってくるだろうよ、なんて思って他人任せ。
そこまで思ってるわけじゃないけど、あれ、こんな夜ダメだったっけ?っていう感じ。
1週間前にアキレス腱が片方痛くなりここ1週間はずっと続けていた公園練もランニングも中止。やれやれ、年齢をいよいよ感じるかも。ケアと歩まねば。
TSUTAYAに行けないのでNetflixでも入ろかと思っていたがそういえばカードの請求書にいつからかamazonから毎月500円ずつ引かれていて、もしかしてamazonprimeなら見れるかと思ったら案の定見れた。なんやねん
昨年、話題だった日本映画を今夜途中まで見る。
もやもやする。
ok、この客層からは漏れたんだ、今回は。監督色んなものとってるものね、と自分を納得させる。
最近、ステイホーム期間中に思いがけず試しているのは買い換えた画質の良いiPhoneのカメラを使った動きの撮影で、片方の手にカメラを持ったり、自分なりの物理とイリュージョンを行き来するような制作?を試しているっぽい。
この延長で映画を撮ることが出来たらそれなりの説得力を持ち得そう。
みんなが面白いと言うかはわからない。

映画の役者さんを見ながら、映画の中で求められる演技の観念性について。
その撮影現場でのライブ性、物理的なパフォーマンスというよりあくまで画面に残すんだ、とほとんどの仕事がまるで働いているかのような、ことなのか。

2020年4月28日火曜日

時空

うみへむかう。4月、早朝に家を出るともう海に着く頃には明るくなっていた。
久しぶりに、わたしは、引き出しからの仕業を取り出して本日それを行った。

帰り道、藤沢で急行に乗り換える。たぶん新宿に向かう中で車内は混み合うだろう。

先日、YouTubeで観た"夕方4時〜"の弾き語りが素晴らしく、学生の時その曲をよく聴いていた。深夜から早朝にかけてTSUTAYAで働いて家に帰り朝眠りに着き、昼に大学に起きて通うのをつい寝坊して起きると4時頃になって、あたりはすでに暗くなってから向かった日々の事、どこか罪悪感や諦めに対抗するような、ぎしぎしした想いがその時あったような、そんなことを思い出す。

砂浜で走ってみると案外楽しく、顔も段々気持ちが入って周りが気にならなくなってくると楽しい。
きらめきの中。

私がさけんだ

声は向こう側へおそらく届かないことが叫んでる途中でわかる。
何もない空間が目の前に広がっているのにそこに僕の声は乗らない、なんでも待ってくれた空や海なのだけど、それを助けて遠くへ運んだりはしない。ただもしかしたら、この声がもう少し物質ならボトルを海が運ぶように、風が花粉を運ぶように、長い時間をかけて気楽に待っていると向こう側へ辿り着いてくれるのかな、

ここまで文章を書いて、多少でもいい文章をここに作り上げるなら後ろに書いたことを振り返っては書いて整えればいいのだけど、それよりも僕は今、散歩の中にいるように少しづつ思いついたことを散らしこぼしていく、たまに良いじゃんってことを思ったりするのも登場するけど、これは散歩、完璧な散歩がほぼないように。
散歩の途中、ちょっと雲いいなとか、少し迫り出した家の植物とか、昨日思い出したことだとか、それらに出会っていく。みんなも出会っているように。

レスターをもう4回も聴いてる。

僕はほんとうはもう少しいい歌を書きたい。
誰もがポケットにしまって持ち歩けるような。
それがあれば時を越えて通信出来るような。
いつも時空を越えたい。
それは僕がたくさんの時空を越えた通信を受信して来たから思うこと。
今度は送信したいんだよな。
人生をかけて送信にかけたい。
時空を越えたことが人生をかけてしたいこと。

海に行くのは時空を越えているから。
その先やこれまでが含まれた詩だから、か?

もう5回目

2020年4月16日木曜日

CHAYAさん、

エイリー舞踊団で47年間務めたCHAYAさんのドキュメンタリーを少し追う形で見た。
こないだのクリスタルパイトでも思ったけど、そう"ダンサー"が指すダンサーの枠は広く、何かだけを特化してダンサーと呼ぶべきなのか、考えてしまうけど。
僕は追いかけようとあまりしてこなかったかもしれない1つのダンスの形であり、もっともクラシカルで世界的に親しまれているかもしれないその形を持って取り組むダンサーたちの姿、その中でも彼らはNYでそれまで活躍の場のなかった黒人ダンサーたちが踊る場所を自身たちで開拓していったカンパニー。
振付を教えているシーンではその魂の引き継ぎみたいなことがされていて、そう言えば、そうだ、ダンスにはとことんそういう面もある、そういうことをあてがうことが出来たんだった、とか思いながら見ていた。とうとう僕はまだこのダンスの引き継ぎというのから、遠くにずっといる気がする。
自分の話はさておき、それでも熱心に踊るダンサーが映されていく。
CHAYAさんは随分仕事の出来る人で、本当にこのカンパニーをしっかりマネージメントしていく。
話によるとそれはダンサーとして黄色人種でありながら受け入れてくれたこのカンパニーやNYという場所が自身を歓迎してくれたことに感謝していると言っていて、ついに多大な愛を注いだそのカンパニーに向けた半年前の引退発表をカンパニーメンバーに打ち明ける際には見ていて泣けてしまった。
この涙は懐かしくもあって、そういえば10年も前、よくNYに憧れRENTだとか様々な映画やドラマ、本などを見ていた。その時に受けたNYという場所の愛、みたいなことが蘇るようだった。
これはTwitterで友人がリツイートしていて見た発言だけど、人間には大きいことは出来ないが小さなことは大きい愛を持って取り組むことが出来る、とマザーテレサが言っていたこととその両方のことをCHAYAさんを通して思った。

誰かを人種や境界を越えて受け入れることや、その歓迎への返答だとか、より大きな愛を作るために必要な営みなんだと思った。
もし僕や僕らがより大きな愛に出会うならばそれらは乗り越えるべきで、もし今その愛を感じることが出来ていなかったとしたらそれはやっぱりあまりにももったいないのかもしれない。そんなことを思った。

すごいね、

2020年4月12日日曜日

12日間目

自粛生活が始まって2週間くらいになるかな。3月の最後にストリートビールした時にコガさんが少し顔出しますと来てくれた時に、次いつになるかちょっとわからないなと思って顔出しに来たんです、と言っていてそれが現実になったなぁと改めて思うくらいに過去の出来事になったかも。
かも、とかつけちゃうのは自分の今の言葉であるはずなのにそこにも断言しにくい、感情の決定しづらさは文章だとあるなぁ。つまり実際に話してる時だったら、手とか身振りがそのへんの言葉尻を少し曖昧に調整してくれさえしてくれているのかもしんない、あるいは話者の身振りというより話しているお互いの関係が感情の決定を留保しつつコミュニケーションするのを良しに出来るとすれば、パフォーマンスってかライブってかすごいねぇ。

ランニングが続いてて結構、脚パンパン。あと公園の柔らかいほうのアスファルトで練習してるんだけど結構体に来る、体がかたくなっていく。室内で練習してる時はそうじゃなかったのにコンクリート対応ボディなのか。
疲れがたまっていく。しかし12日間連続でランニングは続いてるので、なるべくやめない。

今日はzoomで15人くらいでダンス関連の会を行った。
中々ライブでだって集まるの難しかった人たちがこうも集まれるとは、そんなことを思ったりした。

2020年4月8日水曜日

映画の話とか

さっきまで見ていた映画はアメリカ映画で恋愛コメディもの。
ハリウッドがなんだかんだ好きなのはチャーミングなカップルを描きがちで、思わずなんどもそんなもの見せられたらうっとりしたり、自分だって、という気が起こるからそういう風に引っ張ってくれるのって中々良いっちゃいいなと思うんだ。
シネコンなどの映画館に行くとクソみたいな商業日本映画の予告編が流れて、でもその中にもやっぱり見ればチャーミングな2人が描かれているのだろうか、、と一瞬よぎったけど脚本のセンスとかは重要かもしれないからそれはなさそうだと、偏見のまま終わる。wいずれにせよ、クソみたいな日本映画達は今の政治や企業との癒着くらいこれから変わんないとずっとダサいままな人生送ってしまうぞ、って感じだけど。

って今日はファッキンワード連発だけど、別に怒ってるわけじゃない。
確かに映画館で予告編が流れるたびに絶望して国に失望しているわけだけど。
さっきまで良い映画を見ていたわけだから。
とか言いつつ、楽しかった時間も思い出されて感情が様々な味のいくつも重なったハンバーガーみたくなる。
そうだ、この恋愛映画を見て生まれるこの感情に名前をつけるなら"感情のハンバーガー現象"だ。

最近は日課で走っててなるべく毎日走ることが出来たら少しでも風邪ひかないことに近付けるかもというかもという信仰でもって8日間くらい続いてる。
イチローが毎日、練習などをしてもケガなど少ないとしたらケガが起きないような練習であり、パフォーマンスもあげるような練習がゆるく、時に集中してがっと詰めて行なわれ続けている故なんじゃないかと走り出した夜のランニング序盤に思ったところだ。

思い出ぽろぽろはいい映画だった。
昔の日本映画も最近観てて、大林監督のとか、相米さんとか見ていてやっぱり相米さんの映画がすごいのは人間や映ってる景色や時代や街を美しいと思える時間が多い。映り込んでしまったものの美しさ。大林監督のは時代を跨いで活動しているからソフトごとの比較は楽しいけど、演出が過剰なのか美しいか、と聞かれると残念ながらほとんどそう思えない。

2020年4月7日火曜日

最近、ぽろぽろ

書こう、書こう思ってついぞ書かずやっと書く。書く、って書くのは好きだ。以外に誰か届ける人がわかってる時とかは書いてみる、とか書こうとか、そういう言葉が選ばれる状況が多い気がする。 書く、は自分で完結するから潔い。自分のために踊るみたいで、自分のための積み木とか工作みたいな時間になる、、、なるは言い過ぎだけど。そんな役割さえ書くに含まれそう。

思い出ぽろぽろを観た。こないだストリートビールでみりちゃんにおすすめされたのだった。映画はおすすめしたり、おすすめされたりして簡単に見返せることが好き。すぐにその人観た人と同じく新しくなって話せるから。
こないだ各地の空港にピアノを置いてるテレビ番組の中で確かオーストラリアのどこかの空港のピアノでこの思い出ぽろぽろのエンディングを弾いてる人がいて、その人はピアノの調律師だったかな?美しい曲です。
サビのような曲。たくさんそんな瞬間に立ち会いたいね、抱きしめるような時を。

思い出ぽろぽろは、小さい頃にあったちょっとした機微を捉えている。一般的な家庭が描かれているかもしんないが、その中でもある子供として傷付くことや家族のこと、友達とのことなんか。思い出したなぁ。

それらのこともそっか映画になるよな。それらのことは、ふと年齢を重ねると確かに訪れてそこから今の自分の事を見ていくような感じがする。自分の中でのそんな行き来が起きてくるし、一方で他の子供なんかと接したりして、子供と大人だけじゃなく、子供の時の自分もそこにいたりしながら、いれることだってあるかもしんない。
そうするとすごい、一回しか生きてないってわけじゃなくなりそう。多重的に生きてるみたいな。
小さい頃、広尾に住んでいて、大学を卒業したくらいから散歩したりよく歩くことが増えて、そこを歩いてところなどからまた思い出すんだよね。
絵描いててもそうだけど。
踊ってて思い出すのは思春期以降で、絵描いてて思い出すのはそれより前の頃のことなのかな。

やっぱりまだ寝る時間がこれくらいになっちゃうのそろそろ変えないとな。

2020年3月22日日曜日

今日vs明日

走っている最中に
高校生の時のようにあとこの3年しかとにかく時間がない。この限られた時間や学校のメンバーとどのようにして青春を過ごし切れるか、という葛藤に追われなるべく全力で取り組もうとしていたことを思い出す。
大学生くらいからは逆に終わりの見えない中でずっと取り組んでいる感じで。もしかしたら3年じゃないけど、ある人にとっては結婚とか、そういうことを設定することで切実さを引き寄せようとしてやるやり方もあるのかもしれないなど考える。
のんびり戦っているような感じは拭えなくて、一方で泥沼のゲリラ戦を必死に戦ってるような気分の両方がある。
でも、今や明日しかないって思うことならもしかしたらまだ出来るかもしれないって少なくとも走って斜め上を住宅街の開けた通りを走っているときに思えたんだ今夜。
今夜。今の夜と書いてこんや、か。
素敵なナイトだね。
いまのよる、か。
だって、今や明日をなんとかする、なんてパフォーマンスをしてる人としては得意中の得意分野ではないか。
なんて気の利いたジョーダンを自分に向ける。
いや、ジョーダンなんてもんじゃない、明日の自分が言う。
そういう今日の私vs明日の私
だね!

2020年2月21日金曜日

エクソフォニー

そう、もう年齢も30を越えているのでそれなりに疲れる。
20代のようにはいかない、というのはよく聞いた言葉だったがいざ最近の疲れというのは経験されるとそれのことか、とわかる。
たとえば夜中1時くらいを越えてくるとふらふらしてくる少しの作業が覚束なくなってだるくなってくる。パフォーマンスができない状態になってくる。
ちょっと以前ならこれは特殊な事例として深く考えずにもいたが、さすがに結構な確率であるのでこれはむしろ"例によって"だ。
これとよし付き合っていくということですね。
ここ最近の目標はもう少し連続してなるべく走る生活をしていく。
もう少し風邪をひき難くなっていくのが目標。

そう最近、多和田葉子さんのエクソフォニーという本を読んだ。
こないだの展示は小林エリカさんも一緒だったので、何か文章づいてる。(雑〜!)
その本はドイツ語で小説などを書き、また日本語でも文章を書き、その両方にどっちつかずにならない注意を払いながら活動していることで得ていく技術や知識、起きてくることについて描かれている。
これは自身の現在の話にもまったく言えることで、たとえばダンスと絵やアートについて、とダンスと音楽について、だったりにも言えるし、そう比べられるものがいくつかあってそれを一緒に探求していくことで生まれる面白い要素たちの具体的な事象の紹介だ。
このバランスはともすればすべてが誰も説得出来ないようなパフォーマンスに陥ってしまう可能性もはらむが、引き続きの緊張感を持って挑めばそれなりに成果をあげれそうな予感がある。というかむしろいくつもの専門性を持ちうるがもっと広まったりしていくと面白いと思う。許容が増えて色んなことを面白がったり、わかることのできる事象や相手やコミュニケーションが増えそう。

まだ語学に関しては全然だけど、勉強したさはうずうずある。
言葉を一つもらうとそれだけでたくさん想像が広がるのを知ってる体も今はもう持ってるから。どんどん楽しくなるといいね。

2020年1月21日火曜日

car speed and human body

今日も映画を観た。
先日、病院の検査でクレアチニンの数値が高いと指摘された。調べると腎臓が悪いということだった。明日、病院に行くのでもう一回聞いてみようと思う。
そう年末から体調崩してからほとんど家の近くの映画館によく行っている。考えてみれば劇場やライブハウス、展示などに行くのはやはりもう少しコミュニティ、社会に出て行く感じがある。映画館なら誰にも会わない、もう少し自分の中での時間軸を大事にしているという感じがする。そのことと体調を崩してペインティングばかり描いている時間というのは少し似てどちらもこもっている感じがする。
書きながらなんかちょっと、変なリズムがお腹の方でする、これは腎臓が悪いというのは塩分などを控えないといけないことに対して大きなポップコーンの塩味&キャラメル+コーラを2日続けて摂取したことが引き起こしているのか、帰ったらどうしよう、ランニングでもして少し紛らそうかな。

今日はフォードvsフェラーリを観た。
観る前、これはよくある対立構造と切磋琢磨、友情あたりを扱う作品かな、なんて思っていたんだけど予想よりも入り組んでいるし、もういくつかの側面が足されて描かれている。この映画を通していくつか頭に浮かんだことばがあり、
つまり映画とは万華鏡のようで手に取ることが出来てそれを覗けば光が差し込み色がよりいくつもに分かれて回して楽しくなるように、大きな画面と、照明や太陽などの光が差し込み人の動きが立体で動きそこに音楽があてられ観ているこちらの身体もまるで動き出すことを誘われるように映画館の中で時間を過ごす。

また車の速さを思った。
スピードに対し、感動するということがあるのではないだろうか。その速さの果ての、映画のセリフの中でもあるようなことをそう言えば踊っている中で発したことがあった、つまり身体だけになる、みたいな。
果てしなく速くて、ただそこに自己の肉体だけがマシーンの中にあった際にその景色をどう思うか、感動はあるのだろうか。
速すぎたり、遠すぎたり、離れすぎたりするということは強い孤独を生む、その孤独は旅の孤独とは違うのか。

1人で映画を観始めたのは18,9年も前になる。映画を1人で見始めた時に自身の人生が始まる、とも少し言えるのかもしれない。
18,9年くらいはまだ映画を見て人生が照らされるように感動している。
この先のことはわからないって思いは強まるが、しっかり"その映画"を観たように自分の仕事や世界にまなざしを向け取り組む事をやらなきゃいけない。
また少しでも、すばらしいwonderfulな映画がきっとどこかで生まれるように、準備をしなければいけない。
そんな風に描けるようにすべてをなるべく注ぐように取り組んでいくべきだ、

2020年1月20日月曜日

燃費

今日は誕生日だ。
32になる。
誕生日のこの日良かったことといえば呪いのように先月から続いていた風邪(それだけではない)が劇的に良くなったと思えるくらい回復。多分あと数日で治る、そう思うと明日からの平日に耳鼻科へ行こうと思っていたプランはなくなる、と同時に健康での2日の予定を新たに立てる気まんまんなのだけどそれは見切り発車で、皮膚科に久しぶりに寄るべきではないのか、あの数値を確かめに行くべきでなかったのか。絵を描く時間をとるか病院に行く時間をとるか、だろうか。
いや、そこは病院へ行こうよ。

飴屋さんの本をもらったので、それを読み始める。もらわなかったら読まなかっただろうな。飴屋さんはいつも気になる、誰しも気になる人ではあると思う。だけど独特な距離感で知っていて、そうこの距離感なんだと思う。いやそういうことすら書くべきじゃなく、ただ頭に浮かんだりする、そういうことが大事なんじゃないだろうか。

今日どうしても絵を描くこととダンスの練習会に参加することはしたかったから、その2つは達成。
夜は練習を早めに切り上げて映画館でイーストウッド。
イーストウッドは毎回、社会派映画をとる。
ということは毎年、その主題を取材し制作に取り掛かっているんじゃないだろうか。随分おじいさんなのに多くのことを知り、人に伝えるように作る、という作業をしてることになる、と前にこの作品の予告編を観た時に思ったのだった。そしてまたこの想いがやってきた。
ニュースやらで想像されればそれでちゃんと頭に入ってくることだってできるのにやはり映画を見ることで想像の手助けをしてもらっているみたいだ。
なんというか燃費が悪い。

相変わらず燃費の悪い男がまた一つ歳を重ねた。

2020年1月11日土曜日

pink and blue

今はtychoのjapanってのを聴いている。ちょくちょくそういう風に曲のタイトルに土地の名前がつくということがある。適当もあるだろうし、実際に行って思い入れがあるというのもあるだろう。

昨晩アップリンクにマリッジストーリーを観に行った、普通なら大きな映画館でやるだろう、だってアダムドライバーにスカーレットヨハンソンなんだから。なんてことを狭い席に座って思った。だけどこの手作り映画館はやはりどこかかわいくて家のようだ、小さい室内で少し席の離れたところでする物音や話し声がこの空間のことを少し愛おしくもさせるのは映画の序盤、入りかけの観客だから許されるかなぁ。

この映画が終わりとても1人であることを感じたのか。
RENTを今は観たいんだ、ということを思い出していた。
なぜ10年前あんな気持ちを持ったのか、ここには誰にもわかってもらえない、場所がない思っていた。
今、そんな気分。

ここで今まで作ってきた答えだって、今ここにいるから生まれてきた。返答集だ。
他に話せたかもしれないことが、言葉が、動きが、行動が、生まれないとしたら作れなかったとしたら泣いてしまいそう。

この10年でどこかに投げた言葉はすぐに壁があって、戻ってくる、何を言っても社会的なものになってしまう。
何百年も前、海の向こうに国があったかどうかもわからない時代が懐かしい。

身の周りを考えた社会的な制作に取り組まず、遠い宇宙のことを考えるんだ。