2023年5月28日日曜日

夕方4時

 夕方4時で始まる森山直太朗の歌を公園で歌っているとこないだ挨拶を交わした太鼓叩きの人が一曲聞かせてと言って少しだけ屁理屈みたいなこと先に言った後、重い腰をあげてその曲を改めて歌い直した。人がそこにいると歌声を出すにも詰まるような物理的な感触が生まれてそれを越えながら声を届けることを難しいと感じながらもなんとか少しずつ立て直したり伸びやかにしたり風を通すんだ、って気持ちが沸き起こったり、まさにライブの手つきで一生懸命に、というかやっぱりそこで風が起きるようなことを待つことと起こすことの両方の意識で演奏を終えると少しだけ感動したように見えるその人が久しぶりにちょっと来ちゃいました、と感想をくれた。嬉しかった。そしてもう少しやっぱり歌を歌おうとか思うんだ、そして僕のこの歌を歌おうとか思うんだとか言ってることは今はこの言葉をあててるけどそれだけじゃない色んな予感も含んだ言葉としては置いてることに本人だけは自覚があることは大事だと思う。

またこの曲を人に向けて歌うときに改めて歌詞の後半部分が強く読まれるという体験が自身の側には起きていて、あなたは誰?鏡の中呼びかけてみても返事はもう返ってはこない、という風に曲が終わる。ということは殺してしまったということかもしれない。4時なのかな?学生の頃に4時くらいに起きて途方に暮れる、特に冬の4時はすでに暗い。あの時にあの頃に過ごした学生の時の場所や時間とその置いてけぼりにされる部屋の身体との関係が写真のように焼きつきながらも動きを伴って今でも現れる部分的に。

昨日はたまたま見つけたsean lewのダンスを見て泣いてしまった。最高にダンサーだけども、ダンスだけで武装しているようにも見えない珍しいストリートダンサーだと思った。だから彼が代表するのはクールなストリートダンスだけじゃなく、色んな環境とか自然とかそれを私たち人はどのようにキャラクタライズしてでも仲良くなる瞬間が作れているか、そういうことも代表している踊りというか人に見えた。カッコつける必要なんてないんだよ、と。

洗濯は朝にせよ夜にせよ、干す時は外だから室内と相対的に風が感じられる行為だ。

2023年5月27日土曜日

じゃあ

 寝たくもないし、明日にもなりたくなく、眺めたくもないものが消えないである。今はどこにいるかわからないけど、全然ダメじゃなく、動くことがあるからなおさら。人と比べて落ち込みながら人と比べることでどうにかいれる、ということ?なんていうことだろう、じゃあそういうこと。

2023年5月11日木曜日

のっぽ

 のっぽさんがお亡くなりになられたそう。なぜか僕は覚えていて年代を見ていると90年にわくわくさんが始まってるから、かなり小さい時の2歳くらいの少しテレビの映像の記憶として、インタラクティブなやりとりをする前の感じで覚えているのかな。

最後お別れの回でのっぽさんとワクワクさんが話しているところは本当に今見ると茶番みたいなやりとりなんだけど、とても優しく感じられる。今見るととても安心する。 多くの人はどっちかというと思春期以降の民放などのテレビ番組のやりとりが何かしらのベースになっていくかもしれないけど、自分にとっては小学校に入る前のまだ数字などで切り分けられ過ぎていない時の、だだっ広い時間の記憶が残っている。その中の一つとしてあの教育番組のあの感じを覚えている。

2023年5月8日月曜日

ただ寝るが遠い

 今日はずっと雨降っていたなぁ。朝起きた時にも降っていてバイト先でも降っていてずっと雨が染み込んだ靴下と靴で1日過ごしてこれから寝るのにまだ雨で。ずっと雨で、どこかと繋がってそうで繋がってない世界にいるみたい。隣の人もまだいない。入居とかするのだろうか。

とても疲れていて、スマホで何度もスクロールして最も少ないカロリーで、何かをとりあえずめくろうとしてしまっている。

2023年4月22日土曜日

引越し

新しい家に移り住んできて、少しずつすでに好きになりつつある。家に住むのは、なんというか人との関係に似ているのかもしれない。動き方も、遊び方も微妙に変わるから。前の家が近いというのも何か感じるものがある、置いてきた過去みたいなのの匂いが近くに自転車で通ると感じられるみたいに。
今の家は目の前に小学校があるから、あの元気でなんというか様々な距離感を縦横無尽に時にジャンプを伴うようにして交わされる声や行動の音が聞こえてきて懐かしい。 大人になって失われつつある、でもパフォーマンスをやるものとしては取り戻したい部分を喚起されるヒントがこれによって日常的に出てくるかもしれない。

前の家ではゴミを捨てる時間こそが最も1日のうちの素晴らしい時間だった。今は3Fなので降りるのが時間がかかって少し準備もする必要があり、また変わったものになっている。駅からは15分とかかかる。
駅からそれだけかかるとより周辺というのを意識するし、街に生きてる感じがもう少しするかも。 こないだまでは駅から2分で外に出ることはそのまま駅に直結しているようなイメージさえあった。歩く時間が確保されるような感じ。この歩く時間に住んでる人たちは色んな身振りを起こすんだというのを通勤する際に感じられた。

最近は坂口恭平の動画ばかり見ている。
元気が出る。

2023年4月3日月曜日

龍と龍

 坂本龍一が死んでしまった。 少し悲しい。

坂本龍一はなんだかずっと生きているものかとどこか思ってたんだろうか、月並みだけど。

多くの人はymoの細野さんを思い浮かべると思う。でも僕はなぜか村上龍のことを考えている。坂本龍一への導入はなぜか、音楽以上に村上龍の書き残した文章で知ることが多かったように思う。そして2人は別にプライベートで仲が良いとかではないのだけど。

生きることに野性的までに書き抜けてきた村上龍はどんなだろう?彼のことが気になる。 

2023年2月28日火曜日

チャンスいつも、

そして寝れない日がやってきた。 2日にいっぺんは言い過ぎだとしても。一昨日が本番で昨日はたっぷり寝ることにしたからそのツケもあるかも。 最近は朝起きると不安だ。自分の年齢とこの先のことを考えてしまい、先行きが見えなくなる。
数日前にYouTubeで香港で良くしてくれた友達が今はジャーナリストになってウクライナにずっとついている。そのことを考えればここで生きるなんて容易いじゃないかって、香港で自由に生きるよりもまだ動ける国じゃないかって。近い人や社会と比べるから考えてしまうことと遠い何かと比べるから考えてしまうことがあって。もう少しいずれにせよ、そのYouTubeをチェックした方が良いかもしれない。
千葉雅也さんがTwitterが何かで生きてたところでって思う気持ちがわからなくもない、みたいなのが流れてきた。そのこと自体がわからなくもない、って思ってしまって、ほんとになんてこった、やれやれ、だ。神妙な言葉さえ使いたくなくて辛うじて軽妙な言葉で事態ごとごまかそうとする。
みんな真面目にやりやがって、ふざけろ、もっと、と。
こないだ踊りの帰り際に我らがめいちゃんに、コメディアンでポエムなんですよ、と言われたのが嬉しかった。見られていると思った。逆にそれでコメディであること。そして詩であること。が改めて大事な要素かもしれないと思った。

渚のシンドバッドという映画を観た。浜崎あゆみがよかった。主役の子も。恋人たちという同じ監督の映画を数年前に見た時は全然良くなかった。というか、なんだろう、時代が経つに連れて映画も濡れっぽくなっていくんだけど90年代にはどこかカラッと渇いた感じが武映画にも共通してある気がする。なんにもないんだ、っていう。
神妙になるほど良くないと思う。

昨日で仕事がひと段落したので景気付けに映画を観に行く。アントマン。選んで失敗したと思って見ていた。アベンジャーズなのにいつのまにかスターウォーズみたいだし、なにこのアメリカの茶番って毎回思いながら数年経ってしまった。でも最後の方は今度の展覧会のプランを想像しながら観ていた。
実は今年は展示系の誘いが少なからずあって、しかも自由度も高い。頑張りどころだ。

一方で劇場はどうかというと、全くわからなくなってきてしまっている。早いところいいものでも見て刷新しないと居場所がなくなってしまう気がする。
観劇していてもずっと外のことを考えてしまうのだ。今なぜこれを観るために人が集められているのか、別のやり方がなかったか、舞台に立ってる人の頑張りはどこへ向かうのか、それよりもまだ話されてない組み合わせの話があるのでは、とかそういうことを考えてしまう。
逆に言えばその設計を組み込めば出来る面白いことがあるということだと思うんだけど、、そしたらそれはもうやることがあるということなんだけど。

書く前よりは元気になっている、
スマホを通さずとも目の前の人にコメディや、詩を、チャンスはいつも、