2023年8月22日火曜日

乗ってる

 夜行バスになろうと思って夜行バスに久しぶりに乗っているけどあたりはカーテンで仕切られ前方も閉ざされていてビールは飲めなくなってまったく今がどこの夜なのかわからない。

眠れそうな波を今じゃないと乗り越えて、もうその波はどこかへ行ってしまった。これは北斎の描いた波じゃない。別の波。映画かアニメーションが近いと思う。それか挿絵かもしれない。

学生の頃はナイトクルージングを聞いて羅列し過ぎていく窓の外の光がそれそのものがメロディのように感じられるその夜を思い出す。そういうロマンチックそのものが、それ自体になる、みたいなところもあるんじゃないか?近年流行のドゥールズに触れる小説の記憶からそう思う。

さっき書こうとしたことはなんだっけ?

車が前方に行くこととこの耳で聴いてる音楽が進むことが重なっていくと人生そのものが前に進んでいるような気がしてこないか?アニメとかにかかる音楽みたいに。ライブ会場のように二本足で待って聴いている時は前方に進んだりしないけど、前方に進むように聴いた経験をそこでも思い起こそうと想像力の努力に取り組むこともある。

さっき書こうとしたことはなんだっけ?

そうだ、確か、車の免許があれば、夜の高速道路を手に入れることが出来る。そういうことを

2023年7月25日火曜日

こんちきしょう、

 いつもみたく音楽を帰り道に高ぶって聴いて歩いていると、このポップスを聴いた際に私がここにいることがくっきりと浮かび上がってくるように感じられて、それでじゃあもっと遠慮がちにじゃなく踊ろうと思って帰りながら踊って、立ち止まっては踊ったりした。

99.9%の人生を歌いたい時に歌っていなくて踊りたい時に踊っていないと感じた。踊りは業界のためにはないし、僕が踊ろうと思ったきっかけの多くの人の踊りを目にすることはほとんどなくなった。中途半端で、想いだけはある、いんちきな自分だけがなぜかまだ踊っていることが不思議に思えたけど、彼らにまた会いたいとか、その気持ちに会いたいと思うには踊らないといけない夜になった。踊りながら歩いて家の裏手の公園で踊った。汗なんて構わない、なんでそんなこと気にして生きているんだと思った。どこかに向けて準備して、なんて遅い。僕がストリートでやるのは全てなんかじゃない。一部のお裾分けだ。踊っていることが先にあれ!と思った。生きていることが悔しく思えた。35歳だけど、この気持ちは懐かしいけど、そこを全くクリア出来ていないで今に来ているこの生をどう考えるべきか、そういうことが一瞬にしてよぎった。

アデリン達とさよならをし、霊園を歩いて過ごし、ビールを飲んで、午前中は親のお墓を見に行って、その日の最後にそういう時間がやってきた。自分の気持ちをもう一回生きたいと思い悔しいと思って踊った。こんちきしょうだ。僕はどうしたいんだ!

2023年7月23日日曜日

集中と頑張り方と騒音

 最近、ここ数年だと思うけど、以前の頑張り方では難しい、集中出来ない状況になってきていると感じる。そのことにずっと困っていて、どうしよう。

そのことに自覚的になってきているとは思う、前はあんまり自覚が薄かったので問題が顕在化してきたとも言える。10年くらい前、1度スランプと呼んでいた時期があった。他の人に言わせたらスランプでもなんでもないのかもだけど、時に自分でそのように名付け解決したり対象化し取り組むこともやり方としてありな時もある。

この引っ越して来た場所は以前よりは騒音に悩まされていなかったけど今日は騒音が上から聞こえる。さっき覗きにいったらチルしていた。注意しようと思ったけど我慢して明日から楽器を解禁しようと思う。深夜にやるよりは全然いいだろう。


2023年7月15日土曜日

真夜中のカジキマグロ

 今夜眠るにあたって電気を消して真っ暗になって寝ることを想像する。

今夜見る夢では水族館のカジキになってる眠れないかな。今夜寝ていることが水族館の魚として経験されて、この布団の上で起きれないかな。

2023年6月11日日曜日

夜の坂を

 眠らないと夜がだらしなく広がる。

疲れたのにふとんを前にして真夜中にいて眠ることを率先し選ばない。先延ばしする。

明日はお通夜。想像もしなかった時間が目の前に横たわっている。 

今夜は小さなスペースでお酒を飲んで踊っていたり話をしていたりしていた。いちいちそういうことに意味とかを考えたり、それの着地点を探そうとしたりして全くもう。

ずっとこの夜が続くのは嫌だなぁ。時間が経てばだな。

2023年6月1日木曜日

色んな

帰る頃にはくたくたで少し休んでからご飯を作ったりしているけども、ぼんやり意味のないスマホなんかを眺めてしまって時間がもったいなく過ぎていく。ぼんやり意味のない、なんて言葉を当てても本当に意味のないかはわからないのだけど、そう呼びたい、そういう価値付けをしたいからそういうことを選び言うのだろう。
とにかく疲れ切っていて、なんとかご飯食べて寝るのに至ろうと思うのだけど夜になると無駄な言葉が溢れて、行き場のない言葉が頭に溢れて眠れない。くたくたなのに眠れない。なんてこった、だ。ずっとそのことばかり書いてる気がする。
こないだは眠れなくて村上春樹の小説を読んだ。しかし眠りを待つために本当は本なんて読みたくないのだ、だから眠れないと思ってもすぐ本をとったりが出来ない。 前ならば眠れなくてもポジティブにアイディアにいきつけばo.kだったけど、あまりにその回数が減っている。考え事もそういうことに向かってじゃなく手応えのないぼんやりしたことばかりが浮かんでいる気がする。
難しい。 

2023年5月28日日曜日

夕方4時

 夕方4時で始まる森山直太朗の歌を公園で歌っているとこないだ挨拶を交わした太鼓叩きの人が一曲聞かせてと言って少しだけ屁理屈みたいなこと先に言った後、重い腰をあげてその曲を改めて歌い直した。人がそこにいると歌声を出すにも詰まるような物理的な感触が生まれてそれを越えながら声を届けることを難しいと感じながらもなんとか少しずつ立て直したり伸びやかにしたり風を通すんだ、って気持ちが沸き起こったり、まさにライブの手つきで一生懸命に、というかやっぱりそこで風が起きるようなことを待つことと起こすことの両方の意識で演奏を終えると少しだけ感動したように見えるその人が久しぶりにちょっと来ちゃいました、と感想をくれた。嬉しかった。そしてもう少しやっぱり歌を歌おうとか思うんだ、そして僕のこの歌を歌おうとか思うんだとか言ってることは今はこの言葉をあててるけどそれだけじゃない色んな予感も含んだ言葉としては置いてることに本人だけは自覚があることは大事だと思う。

またこの曲を人に向けて歌うときに改めて歌詞の後半部分が強く読まれるという体験が自身の側には起きていて、あなたは誰?鏡の中呼びかけてみても返事はもう返ってはこない、という風に曲が終わる。ということは殺してしまったということかもしれない。4時なのかな?学生の頃に4時くらいに起きて途方に暮れる、特に冬の4時はすでに暗い。あの時にあの頃に過ごした学生の時の場所や時間とその置いてけぼりにされる部屋の身体との関係が写真のように焼きつきながらも動きを伴って今でも現れる部分的に。

昨日はたまたま見つけたsean lewのダンスを見て泣いてしまった。最高にダンサーだけども、ダンスだけで武装しているようにも見えない珍しいストリートダンサーだと思った。だから彼が代表するのはクールなストリートダンスだけじゃなく、色んな環境とか自然とかそれを私たち人はどのようにキャラクタライズしてでも仲良くなる瞬間が作れているか、そういうことも代表している踊りというか人に見えた。カッコつける必要なんてないんだよ、と。

洗濯は朝にせよ夜にせよ、干す時は外だから室内と相対的に風が感じられる行為だ。