2022年11月30日水曜日

幸福の不眠

 久しぶりに"幸福の不眠"と呼んでいいのかもしれない。眠れないけどいいアイディアが浮かんだので、幸福と呼べるんじゃないかと思って。

膝肩立つ身、ってジョークが浮かんだ。

ゴダールのことを考えた。彼は人をいたずらにさせる、人は多くの映画を観てそしたらすごい映画を撮ろうとか思うだろう、しかしゴダールを観たらどうだろう?どこからでも始められると思うんじゃないだろうか。そういう人が映画の中にはいれたということがまま笑っちゃうくらい楽しい。

外はさっきまで雨が降っていてパリも雨だったかもしれない。

本当は最近はおかしなことが少なくなってしまったと感じていた。弱々しい線がひかれたりしなくて、みんなふざけ方を忘れてしまったみたいにしていて。それでも雨は降り、遠くのパリのことを近く感じることが出来る。映画を観たことがあるから、それでまた思い出せる。実際に今行ったら違う場所になってしまっているだろうか?辛い現実が目に入るだろうか?でもどこまでも頭の中の記憶は楽しいところや受け入れてくれるような想像を持つこと、期待を持つこと、それだけで少し天気が、雨でも構わないけど、良いと思えることが素晴らしい。体の循環でそれをしているとも言えるんだから。 さて、幸福な不眠といったところでそろそろ寝よう、寝てください体と思うんだった。

2022年11月26日土曜日

こないだ

 ライブを都会の真ん中で聴いた。友達が作ったピザ屋の駐輪場に自転車を止めれた。都会というのにラッキー。ライブが終わって外に出ても9時過ぎでたくさんの人が表参道の金曜の夜をキラキラと楽しんでいる様子。本当ならなんか一杯やったら楽しいコースだろうな、なんて思いつつ1人で出て来たし帰って昨日のご飯の残りもあるから自転車に跨って来た道を帰る。少しだけ都心を潜り抜ける夜を感じれて楽しい。自分よりも大きなものが動いているということも1つ安心感というかあって。そういえばコロナ真っ只中では自分より大きいものというのを見つけることが困難で、圧倒的に大きいけど姿が見えないものが状況を覆っていた感じかな?

急な坂に向けて日記を書いていくと、色んなことが紐付けされていく。そうか、自分は休まないタイプで全部が繋がってやっと何かになる、とか楽しくなるタイプをずっと続けて来た気がする。オンとオフがあるわけではなく。人との距離感もある一定のというのがあって、それは悪いことかなぁなんて思ったりもしたけど、たぶんそれも人それぞれなのではないか、と思い直したりもしている。

紐付けの話だけど、今日は帰ってからランニングしようかなと思ったけどしなかった。帰る途中に寄ったスタバでは近所の友人にまた出会した。こういうタイミングである。 そういえば昨日行った展覧会で英語を話す機会があって、英語を話す自分が嫌いじゃないと思った。というか英語を話すことで回復される側面があった。言葉を話すとか綴るとかも身体を動かすと同じようにまず書いたり言うことで付いてくる自分というのがあって、最近はそれの偏りがある気がしていて回復したいと思っているんだよな、少しずつだ。

昨日、また新しい人たちとクリエーションを開始した。そこでも人の話を聞いていくというのはやっぱり自然にそうなるわけじゃなくて、色んな形を試しながら変えていったら想像することで追いつけるところがあって、みんながそれぞれに凸凹していることが面白かった。山登りみたいな面白さ。

山といえばこないだ。

2022年11月19日土曜日

都市の空気

夜帰ってご飯を食べてると急にアイスが食べたくなって買いに行った。ちょうどえんまいちゃんと金川さんがスペースで話しているのを聞いていて、そのiPhoneを持って買い物に。スカートを履くという話、なんかいいなと思ってた。似合ってるというか、2人の話も良かった。途中まで聞いた。 今日はイレギュラーな仕事が入りドタバタしていて気が気でなかったけど、ストリートでもしないと落ち着かないと思ってやった。きっとストリートを始めてなかったらもっと堅実なアイディアや稽古や制作の時間にあてていたかもしれない、流れるように過ぎていくようにほんとに人の行き来と交流があるだけだ。でもやってなかったからといってちゃんと有意義な時間を作れていたかはあやしいよ。 でもなんか都市の中にいて空気を吸って少し怪訝な顔をされながらも踊り交わしたり、車やビルや夜空に目を向けるのは気持ちがいいんだ。

ドタバタかと思った1日だったけど吸いたい空気が吸えたりしたと思うし、自分のペースで街や景色に触っている感じもあった。ただ、ちょっと自分のダメな面を感じるところもあって、起きて、自分の限界とハリボテが見えた。難しい、子供と同じだ、子供にあんなに注意したのに、

2022年11月15日火曜日

人と

 三日間くらい寝付きが悪くて心底、身体や精神が変わりつつあるんだなぁということを思いながら朝を迎えていた。 今日は搬入があって浅草の方まで、実家で作品をまず取りに行ってから電車で向かった。そこからはバスも徒歩もそんなに変わらなかったので徒歩を選んだ。道のりがまっすぐだったので雨が降っていても頑張って直線を通し切るような形だった。 文学界を2ヶ月連続で買ってそこに載ってる小説を読む。するとこんなにも当たり前ながら文体が似ていたり、そこでの文体がどのように景色を扱っていくのかをある種の傾向のように感じとってしまった。けど一体どうだろう?もう少し読んで確認した方が良いかもしれない。

搬入の帰り道に思い出深い浅草の公園で少し身体を動かしてから渋谷に向かうことにした。色んな人が行き交っていて自分は誰でもない感じがした。ひとりでいることが長いと自分は誰でもないと感じられる時間が多かった気がする。人と一緒にいるとその人との信頼関係がずっとあってささやかな事でさえその関係に影響を及ぼしてしまったりとか、及ぼしてしまうんじゃないかということを慣れないとすごく感じ続ける。だからと言って自分を続けるためにしないわけにはいかなかったり。一方で一緒にいるという関係は単位そのものを変えてしまうことだってあるのかもしれない。

電車の中で外国風の女性がベビーカーと赤ちゃんを胸のリュックに抱えて乗り込んできてここを代ろうかと尋ねると大丈夫です、と遠慮された。結局彼女たちは次の駅くらいで降りたのだけど、なんか関係は断られたからと言ってすぐに閉じるわけではなく電車を降りて見えなくなるか、時間が経つか過ぎるかまではそこに生じ続ける気がした。ということはつまり声をかけるとかそういうのは関係を作るとか、その後の時間にも響いてくる、ということがもしかして言えるんじゃないかという兆しを感じた。 そのことと人と誰かと長くいるということとかもきっと関係がしてきそうだと思いつつある。 

2022年11月8日火曜日

イメージ

 こないだは本番が2日連続で違うのであって最初の日それなりに疲れたので寝れるかと思ったら中々寝付けず次の日は眠いところから出発ということがあった。以前ならそんなことはなかったのに。やっぱり眠れない日が来るというのはなんとなく最近のデフォルトになりつつある。ベットの問題もあるかもしれないが、違うとこで寝ても寝れないこともあるので。

明日は久しぶりに海に向かおうと思う。足を使って、足で行くぞということとイメージを持って出発する。このことは数年前から続いている行事だ。僕にはそういう風にした尺度がいくつかあってこの事と創作することは重要な関係を持っていると思う。この線の引き方が僕の絵の重要な線になっていると思う。

そうだ。自分の文学をやること。自分の身体や持っている機材、テクノロジーと付き合って文学を続け描き出すこと。これがあってやっと人と話せるんだ。

こっから僕は話したい。人それぞればらばらだ。

ということでどうか身体よ、寝てくれ!