2016年10月29日土曜日

小説を読む

本屋さんで本を見て選ぶのはやっぱ好きだな。こないだ新しく2冊の小説を買った。その1つがポールオースターの新しいやつ。このアメリカの小説家はNYのゲストハウスの名前を彼の作品から付けたということでオーナーに勧められてから読んでいる。海外の作家でほぼ唯一たくさん今のところ読んでいる作家だ。
この小説家の話は大体が旅の話みたいに映る。
新しいのを読み始めているけど、久しぶりにこの感じがたまらない。寒い時期になぜかしっくりくるのだ。だが、自分にだって美しいいい旅のような小説が、話が、物語が書けたら救われるのなぁとか思ったりする。

2016年10月27日木曜日

天体観測

ふと天体観測と調べバンプオブチキンのそれのストロークを掻き鳴らしてみる。懐かしく蘇るのは中学生の頃、確かラジオでこの曲が流れてそれをカセットに録音して聞いていたのだった。確かに寒い時期でブレザーにマフラーをして、また新しく出会う冬の寒さだったと思う。小学生ではもうないぞ、と。カップルとかが手を繋ぐようなこととかをもうやっぱり想像するような、そんな冬を感じる頃になっていたんだった。
とかそういう懐かしさを思い出した。
今じゃまるでクーラーのように十分にサービスの行き届いた音楽スタジオから聞こえてくるバンプって感じだけど、あの曲であのラジオから新しい風がやってくるような切実さ内包していたんだよな、そして僕自身もあの若き日に内包していた切実さと冬の寒さがマッチしていんだよな、って考えると生きることが愛おしいと思うかもしんない。
誰もその瞬間を見つめることは出来ないかもしんないんだけど。見ることは出来ないのかもしんないのだけど、そんな時間を生きていたかもしんない、またはそれらいくつかの要素が交わる、交わった瞬間に記憶を飛ばし再生する、とさぁ。やってくる。
とかさっき考えちゃったんだ。
だから空気を切るって素晴らしい。
いつも世界より早くいけよって。

最近は思いの外、はじめてやるようなことが実は積み重なっているのかもしんない、でも突拍子もなくというより、できるでしょ?っていうレベルでの。それが中々今、クリア出来ないでいるのだけど、がんばりどころなのでしょうそういうのに関する。これとかが年末くらいまで続きそうかもしんない、パリの斜塔みたいな姿勢での。


もう一回、天体観測に戻って、やっぱこう何かをしょって駆け付ける少年性好きだな。
何かを持ち寄って壮大な何かへの準備を始める道具を持って駆け付けること。今でも駆け付けたいと思ってる、だから荷物重くなっちゃうのかな。

2016年10月25日火曜日

アメリカのドラマちょっと前の

色々と手に持ち過ぎているのかもしんない。右手のアイスクリーム、買い物袋も肘らへんにぶらさがっていて、左手には読み途中の本、背中にはリュックサック、あと大きなコートも着ている。アメリカのNYの輝かしい時代のドラマみたいに忙しく。
そんなに華やかでも希望に溢れてるやつじゃない。彼らだって、でも別に希望に溢れてなんかいなくてむしろストレスフルだったかもしれない。人の幸福は計り知れない。
し、最近じゃ幸福である必要さえ疑っちゃうような考えも少しづつ出て来てると思う。

何かを欲しがってしまうと、どうしても難しくなることはある。
欲しがってしまった分。もし欲しがり続けるならそこから解放されることはその戦いをやめる時まではやってこないのかもしんない。
でも、ずっとこのままじゃきついからたまには他の視点も欲しい。他の視点がすぱって入って来たら、少し癒されたりうまい姿勢の取り方を手に入れれるかもしんない。

帰ってからDVDを見た。どうしてか80.90.年代のアメリカのNYのラブストーリーが好きだ。キラキラしていて、音楽も艶っぽくて、高い建物と忙しそうな人々やタクシー、大きめのコートを着たりしてて、ドアをくぐったりする。街すべての景色がピダゴラスイッチみたいな装置みたいで、何かたくさんのスイッチが関係しあってるみたいで。それを1つの作品にたとえたなら、ホームアローン2ということになるのかもしんないって今、考えたけど今日見たのはミシェルファイファーとジョージクルーニーのやつ。
自分の人生のどこかではこのキラキラを再現するようなことはしたい、というのが目標の1つです。

あとグレートギャツビーを今年読むのが目標で、それは達成された。でも案の定、映画のエンディングに流れていたthe xx.の曲が本を読んでる最中ずっと流れていて、内容と相まって沈んでいくようだった。美しく暗い。暗いのを、救いのないのを美しいと思ってしまう。なんてこった。やれやれ、だ。
だから世の中は多くのうまくいかないに溢れてしまうのかもしんない、そこに美しさを抱いてしまって、ぐるぐるしちゃう。

こないだ六本木を歩いてると前から胸の大きな、まるで豊胸手術をしたかのような胸を協調した人とすれ違って、場所も場所だったから、考えてしまった。
なぜそんなにまでする必要があったのか、そうまでして生きるのか、人生の難しさみたいなことを。でもそれは失礼なことで、自然な胸かもしれないし、色んなそれ以外の可能性も本人の気持ちもあるかもしれない。だから言ってみれば僕は勝手に考えたいストーリーを捏造して、勝手に憂いていたんだ。
でもそれが人生の難しさだったとして、それは言い換えるなら人生をもう少しなんとかするための工夫だったのかもしれない。
工夫というとマイナスをプラスにするような意味が含まれている響きだ。

だからそんなようにして、いつもそれはマイナスに見えたりプラスに見えたりして存在していくんだろうね。

あれ、またうまくまとまらなかった、、、はぁ、


2016年10月22日土曜日

出口がない

出口はないのにまたiPhoneの画面をスクロールしてりしてしまう。そして時間を費やしてしまう。やってしまいがちだ。それでちょっとうんざりして疲れる。
どこかへ行きたいけど行けなかったり、返答がほしいものからは返答がなかったりして。それだけが欲しいのにそれはなかったり。
確かに方法は新しく与えられてるのに、同じ檻の中にいて遊び道具が増えたり、階段の段が細かく新たに刻まれたみたいで、どんどん逃げられなくなっていく。
それは自分で選んでもいるのだけど、時々疲れてしまう。
それで歩いてると、なんだかネジやボルトが緩んだりとれたりして、いくような感じする。でもインタビューではちゃんと熱いこと言えて戦えるとは思う。
だけど、一方じゃこれというのは何かが狂ってるのか、それとも良いとこもあればれダメなとこもあるということか。
大きなため息を声に出してしてみたら、高校生のカップルに見られてしまったけど、でも2人は2人の世界に夢中だったから良かった夜。
ベッドに身体を沈めるとやっと、出口に近付いた気がする。
うまくいかないことへなのか知らないけど、いきなり泣きたくなったりもしてしまう。
でも出口に出たら出たで、何か戦いとかが終わってしまいそうでそこには何か欲しいものがあるのだろうか、、って考えてしまう。


関係ないけど、すごいロマンチックなものがないとダメだと思う。
もしこの先戦うなら、戦士には愛が必要だと思った。コミュニティでのやりとりとかじゃなくて。すごく限定的だけどピンポイントに向かって想像力を総動員させるような。

2016年10月20日木曜日

表層や

普段過ごしてるとあまりにも世の中が表層的にはうまくいってるような感じで、科学的な目標をたてたり時間を過ごしたりしている。けど、それは表層的に見えるだけであって実際はわからない中で、自分が現実的にやりとりをしているだけなのかもしんない。
とは事あるごとに気付かされる。 嫌なくらいにそういうことにただ囲まれて逃げることの難しい状況の人もいるかもしれないが。
最近、作品を見たりする中で重なるようにしてそういうものに出会ってしまって。
作品以外でもたとえばSNSでの友人の投稿などを通して。
あんまり極端に落ちてしまうことなんてないのだけど、今年一度ドーンって落ちることがあった際には、逆によく世の中がぎりぎり回っていられるものなんだって思ってしまった。絶対何かどうしてもうまくないことがあったくせに、素知らぬ顔をして生きてる人たちに思えて、なんて生きるのは大変なんだって、思いもよらないことを自分の中で思い考えてしまっていた。

映画、怒りを見てきた。
とても悲しいシーンがあって、自分はまさにそこで何もすることが出来ないというのを徹底して表現して見せたシーンがあった。その時に思った。いつもいつももし強くならないといけないとすれば、その瞬間がもしかしたらやってくくるのかもしれないからだって。
「お前!」って言われてるみたいで。しかもそれ今日始まったことじゃないだろ、ってメッセージに溢れた映画だって途中まで感じていた。だけど映画は多様な顔を持ちそれだけじゃない形で終わっていく、と僕は思った。




2016年10月15日土曜日

アゲインダゲイン

自分の立ち会いたい風景にいれてないなって思った。
久しぶりにこないだどこかで聴いたクラムボンの音が良くて、iTunesで探して見つけて手にして耳に入って高まった。気持ち思い返された。
大学四年になってヌードデッサンのモデルのバイト引き受けて最後のムービング、何を思ったかクラムボンの長い曲かけて裸でヌードで踊ったな。はは。いい思い出。やってよかった。
そう。そう。思い出すことが出来て、まだ自分が若いのかとか勘違いなのか知らないけど、まだ十分にという感じしてさ。
目覚めるじゃん、覚醒するじゃん、何回もその自分に出会いながらそれを現実も立ち上げれないかと奮闘をしていく作業。中々難しさはある。
プレイリストみたいにアゲインダゲインする強さも持ち得たい。
何回も目覚めてそこに鮮やかに立つんだ。
自分と世界。

2016年10月13日木曜日

100%

100%生きれているだろうか? って言うとそうじやないよな、って瞬間が積み重なっていく。何か年を重ねて、月日が経つのが早くなってきているような感じがする。以前だって焦ってやってきてはいたけどさ。 思ったよりも子供っぽい28歳でもうすぐ30歳を迎える。久しぶりにDVDで見るジムキャリー面白いのだけど以前のギャグの方がキレキレでだってもう50歳を過ぎているわけだ。最高の人と全盛期のジムキャリーを見ることが出来たら文字通り最高だろうな。
SNSのおかげで周りの足場を確認しながら進むことが可能になったように思う。でも難易度は変わってないけど、その分、集中力や労力は消費している。
いつも見える足場との格闘にもなるのだけど、宇宙のことは忘れずにいたい。
宇宙人と交信するために始めたこと。宇宙とは言わなくとも遠くの誰かともしかしたらやりとりするために行うことをやめずにいたい。
自分が誰かは知んないけど、未知と遭遇した時にバーンって光が溢れ飛び散っていくことは信用していたい。し、身体は覚えている。
時間が否応なく自分をぶっころしにかかろうとも、知らない、もっと知らんぷりしなきゃ、100%生きれてないことはいつも悲しい、けど真面目だけど笑っていかなきゃ。全部、笑えるようにしていかなきゃ。
自分は誰でもないかもしんないんだから、あるアイディアに向かっていけばいいかも、
いずれにせよ、瞬間っ

2016年10月11日火曜日

ヴェネツィアから借りてきた絵たちとか

わぁもうこんな時間。最近は、ニキビが増えてるのでそれを撃退したい。というか人にニキビ増えたね、と指摘されてでもそんなにいつも気にしなかったのだけど今回は何か気にしていて、治さなきゃって思っている。健康的な生活。しかしまたこんな時間に。やってしまった。年を重ねれば自然治癒力も衰えそうだし、それを見ていくことにもなるよな、取り組もうとしてみたらさ。

今日はダリ展にふといこうと思った。そんなにダリ好きじゃないけどモダンなものに触れねばと思って。というのも今、絵を描く仕事を抱えているので何かヒントをよりすぐ摂取したいと考えたから。しかし休日ということもあり20分待ちということで、ヴェネツィア絵画の巨匠たちという他の階でやってる展示を観に行った。そしたら案の定、借りてきた美術館の美術品の2軍なのか、3軍なのかっていうレベルの絵画作品が並ぶ展覧会だった。日本で観れる借りて来ての展示なんてそうなってしまうのは目に見えているが、それでもたまには向こうの絵画を見る事が必要でついつい行ってしまう。
だけど少し良いのもあるし、さすがに考えるとこもある。
昔の人々と絵画の関係は、今はもう築くことは出来ない。状況は違うから。
そして、ふと絵画の前で、努力の少なさが久しぶりに襲ってきた。ストレート過ぎる表現だけど、、なんか村上隆のこととかが頭にやってきて。焦った。

焦って、寝る。

2016年10月6日木曜日

パークライフ

町田に降り立つと吹く風が台風を予感させるほどで、あ、台風に触られているな、って思った。
ことごとく今夜は外れては外れた。すぐに新宿で用事を済ませたら練習をすべくそこへ向かうべきだったが、ふと文章を書こうとスタバに立ち寄り雨が降ってきた。仕方なく電車に乗り町田で練習して帰る頃にはしっかりと台風に雨という天候で中々に濡れた。

最近、前澤さんの写真展を見によった高円寺のお店で吉田修一のパークライフを買った。少し読んでこの本が与えるであろう効用を知り買った。
吉田さんは、映画化されたということでしか知らなく気になっていたけど、むしろこういったものを初期に書いていたのかという感じの作品でした。映画怒りも見るかも。李監督ただし。

こんなことを書くつもりじゃなかったのに、ベットに倒れた体を疲れと睡眠が襲って戦うことを目をあけて見る夢を覆ってしまう。

あ、そうそう、そのパークライフを手にとった理由はささやかな出会いを描いていたからで、何かそのことに自分自身励ましてもらおうと思ったのだ。
いつも自分は偶然なんかそんなに起きはしないことへの期待を持ってその空白や空気をそれでも大事に大切にいるのかもしれない。だから少し知ってる世界に対して冷たい。起きもしてないことをいつも待っている余白。ずっと空いたままのベンチの横にいるみたいに。だからそういう風景さえ、いつも、あるいは結構、身近に感じちゃう傾向にあるんじゃない?
公園のベンチのように。