2016年12月31日土曜日

2016.12/30

2016.12/30だ。今年最後の稽古がありました。昨日はTESの忘年会イベントあった。すごく迷ったけど言って色々話せてよかった。中々うまくいかないこともあって、しょんぼりした気持ちがあったけど今話しておいた方が大きいかもと思い行ってよかった。
そう今年は中々インディペンデントなことをやれて、最後に来年また舞台に出るその稽古で終わっていくのいいな。 来年もインディペンデントといわゆる一般的に共有されてるベースのあるところの往復を出来ればしたい、、って僕1人でというわけでなく色んな人の協力をいつも受けている。
そう最近はオードリーの若林の本を読んでいる。だいすけさんがオススメしていた。これが結構、面白い。そして、ホントは僕も漫才みたいなことやりたいんだよね、大学のサークルの発表ではよく司会をやってはふざけていた。あの調子でいけたらどうなんのかなぁとか。
にしても29にいよいよなるか。あぁなんか焦っちゃうね、もっとやれなかったかなぁとか思うよね、そういうのに悩まされるのも多いに結構、だけどもっともっと広げて宇宙を生きようとしてみよう、その方がやばいぜ。
31日はもう少しリフレッシュしていきたい、

2016年12月26日月曜日

tree

昨日、パーティーが終わった。始まる前はクリスマスをつけるの避けてたけど、いつのまにかクリスマスパーティーにはまっていた。まぁそれもそれでいっかな、でも最初にあったツリーのままである状態もどこか覚えていてくれるような内容で感じられたらよかったかな。
パーティーは公演とか展示とか以上に反省があるものとなりました。というのもパーティーという性質上、人をもてなしたりしつつ、しかもこれはパーティーという名を借りつつなポストパーティーでもあるかもしんないからしょうがないのだけど。
帰ってしまう人がいたり、段取りがうまくいかない部分、楽しめなかったそうなお客さんのアンケートも手にとり、考えたい部分がある。
一方で、すごく楽しんでくれた人がいたみたいで、その様子を見てこっちが嬉しくなってしまった。はぁよかった、やってよかった。
またやりたいな、あの人とやりたいとかそういうのもあるしね。こっそり。
オープンマイクもよかった。改めて今年、親交を深めた何人かの面白くて、勝手なことしてる人たちに会えたの大きいな。 オープンマイクしなかったけど、あきさんとか村社くんとか、作品とかをこえてハッとしたりすることを話せる人とかいて、自分を省みたりする。
上野くんと今回も1つ曲を作って、treeって曲。
僕はツリー、色んな用途があるけど、いつも上に飾ると完成する星がない。みたいな散文を書いて、そこから上野くんが改めてかみくだいて、詩にして曲をつけて歌にしてくれた。always something is lacking in my lifeっていう。まるで今年の自分を現してるじゃないかつって曲が出来た。
今年、一番の映画はsing streetだった。2回目観に行ったsing streetはそれはそれはこんな映画体験今までないってくらい打ちのめされのだけど。
なんかそういうのが、実は詰め込まれてしまったパーティーでした。

ホームアローン2の言葉もちゃっかりフューチャーさせちゃったりして。
随分その言葉に励まされたのだ。まだ効用は続いてる、ハートがあるから使ったほうがいいってやつ。
僕はバカなんじゃないかって思ってしまうよ、でも、しょうがないよ。
もうそれは始まってしまったんだから。

2016年12月15日木曜日

トリビュート

なんだかんだでこの時間になってしまう。大きい依頼された絵の仕事を納品して、来週から始まる展示に出品する絵を完成させ、搬入行ったら次はまた別の絵を納品する必要があり、今度はまた来年の演劇作品に向けての絵を描いてと怒涛のラッシュを12月にかけてやってくるとは思いもよらなさすぎた。今だけかもしんないね、来年はわからないから。でもそれぞれのグラデーションを見ていってる、これは経験になっていくとも思うのでなるべく自分がどんな風に取り組むのかも見つめていきたい。

銀杏boyzのトリビュートアルバムが知らないうちに発売されていた。思ったより周りで噂されたりしてなかったから。買って聴いているんだけど、見事に蘇るね。
高校生のあの時のこと、あの時に思い浮かべていたこととか。漂流教室という歌が好きで、「今まで出会ったすべての人々にもう一度会えたらどんなに素敵なことだろう。」って告別式(あの日の空のことは忘れていないなぁ)のことまで出てくる歌の中で言っていて、確かにこれはきれいごとで、たぶん高校生の自分だったら言えてたセリフだと思う。それくらいのレベルで生きれていた気もする、随分今の自分は多くのことに対しての妥協も持ってると思うから。
銀杏boyzを聴きながら、その時に会った誰かたち、友達や他の人の事を想像しもう一回頭の中で遊んだり話してるのを浮かべている。それでなんか懐かしいなぁとか思ったりしてる。
だけど現実に僕らが会う際はもう違う誰かで出会い直す、そしてあの時のように会えることはもうないんだろうなとも思う。
銀杏boyzの曲を聴いたりして、なんかあぁ、ってなって罪悪感みたいなの思ったりもしながらそれを美化したりもしながら、ただ進んでいる。

僕らは若くて美しかった。
ダメだ、全然そのことをめちゃくちゃに信じている。
だから若い人にはむちゃくちゃにほとばしってほしい。大丈夫、美しいから。
世界は君たちを追いかけるって言いたい。

2016年12月8日木曜日

リハとか、

今日は代々木公園でちひろちゃんと時里くんと少し振付練習して、りょうちゃんと合流しご飯食べつつMTGを行った。12/24のパーティー、ぜひ遊びに来てね。
そうそう、パーティーを今回やる、今年は2回の個展の両方ともでオープニングパーティーをさせてもらった。僕が実際、展示をする理由の1つとしてオープニングパーティーへの憧れがあると思う。映画か何かで見たNYでのアーティストの個展のオープニングに派手やかな人々が集まる。そこでもし踊ってそれが素晴らしければスターになれると思ったからだ。もし僕が踊れるアーティストになれればある意味で村上隆を超えれるって思ったのだった。かわいい発想かもしんない、でもそういうのもほら悪くないよね、とはいくらか歩みを進めていくうちに確信が増していく。
そうそんなところから、パーティーを求める気持ちの一部分は形成されたりもしてるし、社会に接続するためにという形でもあるんだ。
しかし、SNSとかでもアクションを行うものの、コミュニケーションの難しさは全然ある。し、SNSなどで上手くやってるのを見てもそのうまさがクールだと思うやり方を見つけたことはこれまた中々ないのだから、答えらしき答えはずいぶん見つかっていない。

にしても、今こそもっと勝手に基準を勉強し圧倒的に振り切れることはめちゃくちゃ大事だと思う。なぜかどんどん似たようなものになっているからだ、僕が活動するダンスシーンしかりアートシーン然りだ。たくさんやる人は増えているのかもしれないけど、総合的になっていこうと考える人は少ないみたいに思える。総合的にあろうとすればするほど各部分への気にする項目は増え、見えない仕事量は増す分、想像力も増える。
今まで僕のことを精神的にノックアウトして来たのは大体そういう人間的に圧倒的な人々だった。だからそれに関しては大体いつもあぁ勝てん、、と思ったりする。

なんでこんなこと書いたりしたんだろう、なんかちょっと心配になったんだと思う。
あと村上隆のFBでの投稿を見て若い時のとんがり具合に、興奮したんだ。
もっと圧倒的なものを見つめなきゃいけない、チェゲバラのポスターだって貼るのいいかもしんない。だって世界の未来は僕らが一部担っているし、子供たちは僕らの背中を見るし、長老たちは下手すれば老害を招くかもしれないけどそれすらも本当はうまく導くようなコントロールさえ僕らが行うようなことが出来てないといよいよ世の中は回らなくなる、という強迫観念を妄想しでっちあげて狂った東京で生きてる。

2016年12月6日火曜日

時を越えて

こないだすごく驚くことがあった。アキさんの開くシンポジウムで、早稲田大学に行きそのシンポジウムで初めて会った人と見たビデオについて話す機会があって、その時に同じ組みになった人に挨拶をすると、僕のことを知っていると言う。
以前、ブリュッセルに行かれたことはありますか?と。行ったけどほんの数日だったから人違いじゃないかと思って話を聞くとまさにそれは僕だった。
今から7年くらい前、大学三年の春休みに当時の相棒と一ヶ月かけてヨーロッパを回っていた。その時のチームワークはズタボロで、アムステルダムからブリュッセルに向かう途中にはぐれてしまった。それでブリュッセルでそれぞれ別行動をしていて何とかまた合流した、もののそんなにブリュッセルは今まで回った場所に比べて刺激は見つけられなかった。しかし、その離れて着いたその日にその相棒が入ったカフェが素敵でそこにいる子も素敵だったと教えてくれた、でもその子は店のおばさんといちゃついていたから残念ながらレズであろう、ことも含めて。それで次の日、僕も一緒にそのカフェに行った。カフェの雰囲気も良く、その子は今日もいた。確かに彼女は素敵で、こんなどっかのアジアの若いやつら2人にも愛想よく、なんか肘なんかついたりした仕草が確か素敵だった気がする、、そしてその時に確かに僕は彼女に、自分はアーティストなんだぜ、と何か紙を渡した。そうやって旅の最中は自分をプレゼンしていた。

それでそのシンポジウムで会った彼がブリュッセルでその女の子の部屋をたまたまb and bで借りたらしく、その際に日本人のアーティストを知っていると渡されたのが僕が描いたものだったのだ、確か名前も表記していた。
それでその彼は僕の最近の活躍も知っていて、それで繋がったんだ。
僕は本当にびっくりした。 そんなものどこかにやってしまう可能性だってあるのに。
時を越えて繋がった感じがした。その時の自分だって、未来のことは知らなかったわけだから、その無謀な自分に時をえて人を介して出会ったような感じがした。もしかしたらそのようにして、素敵な人の中継を挟み、過去と繋がるということがあるかもしれない。
それはささやかなことかもしれないけど、でもなんかポールオースターの小説みたいで
ぐらついてしまう。
まだ若かった頃に飛び出した外国で、助けてくれた色んな人たち、に今感謝したい気持ちだ。そんな弱そうな人に、へい、元気出せよ、とビールをくれたりしてくれて。
覚えていてくれて。
まだがんばれるぞ。

2016年12月1日木曜日

again and again

うわ、外すごい雨降ってる。6月みたい。
壁とかに跳ね返ったりする音が響いたのがつたわるのがいいのかな。
雨が降ることが物理的な音や感触を与えるから、少しいつもより把握出来る分、なんかはっきりと生命を感じれるのか、わかんないけど。

河村隆一の曲を聞いてしまいまくった1日。って二曲だけたけど。
笑えちゃう、爽やかさというかなんだろうこの突き抜けてる感じ、相手にされない感じ。
普通の景色を見させないな。

イタリア映画借りて見た。最近のやつで、ポップなやつ。奮闘する女性建築家設定のドラマ。会社で起こす小さな改革の話。
確かにすごい設定とか強引とか思っちゃうけど、やっぱしフィクションでも革命や改革を描かれると泣いちゃうよ。
音楽の再生ボタンが好きで、何度でも再生すると曲が始まって、その度にもう一回立ち上がれるなら、もうちょっとうまくやって何回も立ち上がって戦っていけるかもって、そういうことで再生ボタン好きなんだ。無限に押してるのかもしんないけど、次こそはって思って再生をしたら変わるかもしんない次の瞬間との無数の出会い。
何回も再生押して戦っていたつもりだったけど、まだそんな映画にしくしく泣かされる自分もいて、悔しくて、もっとやれるかもって。
だから何回でもその瞬間を抱きしめるしかない。
もっとやれる、ってもっとやれよって、

2016年11月28日月曜日

最近のライブのことや、

もう今年を振り返っている。それで来年はどうしてやろう、と意気込んでいる。この作業に入る際にやっとその年への踏ん切りが出来、今年もう終わりかよ、みたいな気持ちが切り替わるのかもしれないってふと思った。だってつい最近まで、もう10月かよってツッコミがまず来てたけど今は今年の振り返りをし来年の用意やフライングを企もうとしているリアリティ。
12/24にパーティーを作ろうと動いていて、あと一月切った、これを走り切ったらほぼちゃんと最後の100m走れて良いんじゃないかと思うのでがんばる。

awesomecity clubのライブに行った。
すごく良かった、音楽もちゃんとノれるものを提供していて、そういうのしかもう今は信用しない、ぞ。いわゆるジャンルとしてでなく、ダンスミュージックとして提供されないものは信じれない、演奏家自身のためにあるようなものは。
ただ彼らはMCにおいてあまりにも真面目でプロデューサーっぽさがありすぎて、なんて不器用なんだと思った。生粋のプロデューサーのように、ちゃんとし過ぎていた。
誠実過ぎるのだけど、それはちょっと残酷にも見えた。
そう言えばプロジェクトとか意外で気になる人とかとのお茶とか最近、本当に出来ていないことに気付いた。もっと学生の頃は、軽やかだったかも、、重さは逆に大事だけど、と、ふと思った。来年は日差しが差し込んで少し軽やかになれれば、みたいな青写真を描く

2016年11月24日木曜日

80.

確かにいくらか昨年に比べたらやれてるとこもあるのだろうけど、ある部分ではやれていない、それでちょっとふぅって安心した。と思ったらその時だけで、時が過ぎるのが早すぎて何も通ることが出来てこなかった自分に焦ってしまう。
いつかの分を取り戻そうと詰め込もうとするけど、それでも随分取りこぼしがあって、切ない。
てっぺんに星さえあれば完成するクリスマスツリー、だけど、そこに星がなく周りの装飾ばかり頑張ってしまうようなツリー。
大丈夫かな、人生、わからないな、今はやれることがあるけど。
でも、いいんだ、わからなくて。誰もわからんよ。
ある面では自分は、まるで病気じみてるかもしんないと思うけど、それは自分だけじゃないだろう、じゃあ誰が正常なんだろう?ってたぶんそんなのないんだよ。
生きるしかない、

友達が言葉を書くことはドローイングと同じだからやらずにはいられないんだと言っていた。
また同じようなドローイングを書いている。書き捨てるようにして。
灰色のような、忘れられそうなものでかまわない。

今の目標は80歳まで爆裂して、変わってくファックな時代とやりとりしながらも爆裂して生きていくことだ。
昨日、スピーチを人前でする際にたくさんのお年寄り、先輩のデザイナーたちかな?いたんだ。それを見て少し不安になった、なぜならジョークを用意していたからウケるかどうか不安になった、話題は共有されないかも、と。でも宮崎駿が老人であったことを思い出した、彼にだったら通用するだろう、つまりアクティブに歳をとることに油断していない人であればアンテナをはってるだろうから、コミュニーケーションは良くも悪くも成立するだろうと。それで自信が取り戻せて、自分のやり方を通せた。
そう、僕も歳を取ってもコミュニケーションが出来るようにアンテナをはれる身体を強さをサバイブし、手に入れたいんだ。



2016年11月22日火曜日

11\22

自分でさえ泣きたくなってしまうのだから、相当数の人が泣きたくなってしまうんだろうなって思います。
今はSNSでさえ、割と言いたいことを言いながらもそれもOKとしつつも、公共性が強くなり、きっとそこで制限を設けているわけだから、そこにおさまらない気持ちたちは今はどのようにしてさまよっているんだろう、たぶんそのさまよってるやつらが、その泣きたくなる気持ちの正体の一部であるかもしんない。
ここではあんまうまいこと言おうとは思わない、幻滅されてかまわない。
わかる、のコミュニケーションの外かもしれない。

冬がやってくる。
学生の頃、冬が近付くといつも、海外に行きたくなった。学校にもどこにも自分の居場所がないように感じた。居場所というか、誰にもわかられたくない気持ちと誰かにわかられたい気持ちの葛藤が寒い季節で強くなった(変な動物)。

生きることはますますわからなくなっていきます、
2つの自分がいるみたいに、
でもこれだって書いていてどこか相対化された対象なのだ。

2016年11月18日金曜日

海と太陽と砂浜の曲

夢で逢えたらって曲があって、銀杏boyzの極で、とても美しい曲なんだけど。
曲が始まってbaby.baby.baby.ベイベー!って言って砂浜と太陽と海がキラキラと輝く、水着とかでのあの人を浮かべて、砂漠を越えた先にオアシスをバックに輝いてるあの人がいるみたいな、そんな風景が広がる絵みたいな曲で。
なんか映画のオープニングみたいなんだ、一気に広がって素敵な夢だけで構成されるキラキラした世界みたいな。

さっきYouTubeで2016年のライブの銀杏boyzによる夢で逢えたらはショックだった、かつてのメンバーはいなくてサポートメンバーが演奏をしている。
これはでも演奏を誰かにしてもらうような曲じゃなくて、、ってそんなコメントこそ悲しいんだけど。
銀杏boyzの4人の駆動によって立ち上がるアーキテクト、生きるアーキテクトとかそんな言葉さえ追いつかないくらい早かったんだよね。
青春の50m走みたいな。
校庭でのそれは出来事だったのかもしれない。
そこで走られた50mのラインは引かれたけども風化して消えかかってるその光景を思い出す的な。
あぁ、夢で逢えたらいいな、って。なんて素敵な、響きだろう。
涙で目の中に海が溜まるくらいだ。

グミチョコレートパインを映画化するなら絶対これが主題歌だっただろうな。
(すでにあるけどあれのことはないことと思っているw)

明日はにがウーロンのコントだ。笑いたい。




2016年11月3日木曜日

ラブソングとか

バイト中に有線で洋楽がかかるのだけど、突如エアロスミスのangelという曲がかかって、改めて雷に撃たれるような衝撃を受けた。嵐のような強い雨の中、歌う彼が立っていて、ライトの光を雨が乱反射し輝かせるようなシーン。ユーマイエンジェル、と歌っていて、君はつまり天使だ、って言ってるありきたり中のありきたりのラブソング。
これほどまでこってりのラブソングに、バイト中に羽交い締めにされるように説き伏せられてしまったんだった。
なんていう。
ラブソングという人類のポップな発明。
更新され続ける、または何度も繰り返し再生してしまうラブソング。
昨日、アンコールという映画を見ていてもおばあちゃんがtrue colorsを歌っておじいさんに、聴かせるシーンで思わず泣いてしまった。まぁそれは話もすばらしかったのだけど。
最近は改めてラブソングにやられている。
今日はギターの練習をしながら、クイーンのtoo much love kill youを聴いて、これもまたすごい普遍的にすばらしくて、それを発明した時ってどんな気分なんだろう。それはまた恋の達成とは別のところにあるものなのかもしれないけど、ラブソングは恋そのものではなく何の代わりとしてあるんだろう。イコールではないと思うのだけど、
ラブソングがそれにとって代わる際にいつも胸打たれてしまうのは何にどうして打ちひしがれてしまっているんだろう、それぞれ。そんなことをぼんやりとだけ残して、ラブソングにいつか辿り着きたいという素敵な夢を抱けそう。

2016年11月1日火曜日

お腹痛い

風邪をひいてしまった。お腹が痛い。何かいるんじゃないか。バイトを休ませてもらって病院へ行き最後処方箋をもらう際に話を聞きながら、気持ち悪くなって失礼ながらトイレに駆け込んでしまった、待ってる時間に結構きつくなってしまったのかもしれない。
ほとんどをベッドの上で過ごす。3時とかに起きて少しお腹に何かを通そうとした、少し新聞をパラパラしながら。風邪をひいてそんなイレギュラーな時間の使い方をする時、外側にいるような気がする。レースの外側にいるような。
今読んでいる小説が何か、めくるたびに自分の境遇を重ねて見てしまうような展開があってドライブがかって前のめりに少しなってしまう。物語を読むのは自分がひとりになっていくのがいい、なるべく最小単位で楽しめるような。自分の部屋を確保するような。秘密基地にいるような。

こないだバイト先で占いを出来る子と話していたら、最近見た何人かの人たちの悪い状況を見てしまった話から、自殺の話が出て来た。そこで彼女は、自殺はしちゃダメなんですよということを言っていて、しかもその主語が彼女というよりもその占いというか大きな見地から発されたような感じで妙に納得があった。自分を主語に置いて、どうにかクリアしたい問題として考えていたところだったので驚いた。
してしまうと色んなその周りを囲むルールとか宇宙が失われてしまう、また生まれ変わりとかに時間がかかってしまう、みたいなことを確か言っていて、それも抽象的だったけどなんかわかるような気がした。

しかし、それにも関わらず、そういった選択肢が出ざるをえないのが現実なのかもしんない。僕らの時代は随分その倫理観に無頓着になっている、政府含め。もし宗教がこれから日本でも強くなるならもしかしたらその部分は改善されるのかもしんない、改めて諭されるような形で。
どうしようもない部分とかを見せ合ってでもするなりして、寛容になっていかないとクリア出来ないのかもしんない、現在は。
また、なにかいつでも人生を身体みたいにほぐしたりの工夫をすることで変えていけれるならすばらしいのかもしんないよなぁ、絶望とかしないでさ、いや絶望も1つの極端として受け入れて、一方の希望という極端も受け入れて、またもっとディテールのある繊細なレベルも地味に受け入れて。


2016年10月29日土曜日

小説を読む

本屋さんで本を見て選ぶのはやっぱ好きだな。こないだ新しく2冊の小説を買った。その1つがポールオースターの新しいやつ。このアメリカの小説家はNYのゲストハウスの名前を彼の作品から付けたということでオーナーに勧められてから読んでいる。海外の作家でほぼ唯一たくさん今のところ読んでいる作家だ。
この小説家の話は大体が旅の話みたいに映る。
新しいのを読み始めているけど、久しぶりにこの感じがたまらない。寒い時期になぜかしっくりくるのだ。だが、自分にだって美しいいい旅のような小説が、話が、物語が書けたら救われるのなぁとか思ったりする。

2016年10月27日木曜日

天体観測

ふと天体観測と調べバンプオブチキンのそれのストロークを掻き鳴らしてみる。懐かしく蘇るのは中学生の頃、確かラジオでこの曲が流れてそれをカセットに録音して聞いていたのだった。確かに寒い時期でブレザーにマフラーをして、また新しく出会う冬の寒さだったと思う。小学生ではもうないぞ、と。カップルとかが手を繋ぐようなこととかをもうやっぱり想像するような、そんな冬を感じる頃になっていたんだった。
とかそういう懐かしさを思い出した。
今じゃまるでクーラーのように十分にサービスの行き届いた音楽スタジオから聞こえてくるバンプって感じだけど、あの曲であのラジオから新しい風がやってくるような切実さ内包していたんだよな、そして僕自身もあの若き日に内包していた切実さと冬の寒さがマッチしていんだよな、って考えると生きることが愛おしいと思うかもしんない。
誰もその瞬間を見つめることは出来ないかもしんないんだけど。見ることは出来ないのかもしんないのだけど、そんな時間を生きていたかもしんない、またはそれらいくつかの要素が交わる、交わった瞬間に記憶を飛ばし再生する、とさぁ。やってくる。
とかさっき考えちゃったんだ。
だから空気を切るって素晴らしい。
いつも世界より早くいけよって。

最近は思いの外、はじめてやるようなことが実は積み重なっているのかもしんない、でも突拍子もなくというより、できるでしょ?っていうレベルでの。それが中々今、クリア出来ないでいるのだけど、がんばりどころなのでしょうそういうのに関する。これとかが年末くらいまで続きそうかもしんない、パリの斜塔みたいな姿勢での。


もう一回、天体観測に戻って、やっぱこう何かをしょって駆け付ける少年性好きだな。
何かを持ち寄って壮大な何かへの準備を始める道具を持って駆け付けること。今でも駆け付けたいと思ってる、だから荷物重くなっちゃうのかな。

2016年10月25日火曜日

アメリカのドラマちょっと前の

色々と手に持ち過ぎているのかもしんない。右手のアイスクリーム、買い物袋も肘らへんにぶらさがっていて、左手には読み途中の本、背中にはリュックサック、あと大きなコートも着ている。アメリカのNYの輝かしい時代のドラマみたいに忙しく。
そんなに華やかでも希望に溢れてるやつじゃない。彼らだって、でも別に希望に溢れてなんかいなくてむしろストレスフルだったかもしれない。人の幸福は計り知れない。
し、最近じゃ幸福である必要さえ疑っちゃうような考えも少しづつ出て来てると思う。

何かを欲しがってしまうと、どうしても難しくなることはある。
欲しがってしまった分。もし欲しがり続けるならそこから解放されることはその戦いをやめる時まではやってこないのかもしんない。
でも、ずっとこのままじゃきついからたまには他の視点も欲しい。他の視点がすぱって入って来たら、少し癒されたりうまい姿勢の取り方を手に入れれるかもしんない。

帰ってからDVDを見た。どうしてか80.90.年代のアメリカのNYのラブストーリーが好きだ。キラキラしていて、音楽も艶っぽくて、高い建物と忙しそうな人々やタクシー、大きめのコートを着たりしてて、ドアをくぐったりする。街すべての景色がピダゴラスイッチみたいな装置みたいで、何かたくさんのスイッチが関係しあってるみたいで。それを1つの作品にたとえたなら、ホームアローン2ということになるのかもしんないって今、考えたけど今日見たのはミシェルファイファーとジョージクルーニーのやつ。
自分の人生のどこかではこのキラキラを再現するようなことはしたい、というのが目標の1つです。

あとグレートギャツビーを今年読むのが目標で、それは達成された。でも案の定、映画のエンディングに流れていたthe xx.の曲が本を読んでる最中ずっと流れていて、内容と相まって沈んでいくようだった。美しく暗い。暗いのを、救いのないのを美しいと思ってしまう。なんてこった。やれやれ、だ。
だから世の中は多くのうまくいかないに溢れてしまうのかもしんない、そこに美しさを抱いてしまって、ぐるぐるしちゃう。

こないだ六本木を歩いてると前から胸の大きな、まるで豊胸手術をしたかのような胸を協調した人とすれ違って、場所も場所だったから、考えてしまった。
なぜそんなにまでする必要があったのか、そうまでして生きるのか、人生の難しさみたいなことを。でもそれは失礼なことで、自然な胸かもしれないし、色んなそれ以外の可能性も本人の気持ちもあるかもしれない。だから言ってみれば僕は勝手に考えたいストーリーを捏造して、勝手に憂いていたんだ。
でもそれが人生の難しさだったとして、それは言い換えるなら人生をもう少しなんとかするための工夫だったのかもしれない。
工夫というとマイナスをプラスにするような意味が含まれている響きだ。

だからそんなようにして、いつもそれはマイナスに見えたりプラスに見えたりして存在していくんだろうね。

あれ、またうまくまとまらなかった、、、はぁ、


2016年10月22日土曜日

出口がない

出口はないのにまたiPhoneの画面をスクロールしてりしてしまう。そして時間を費やしてしまう。やってしまいがちだ。それでちょっとうんざりして疲れる。
どこかへ行きたいけど行けなかったり、返答がほしいものからは返答がなかったりして。それだけが欲しいのにそれはなかったり。
確かに方法は新しく与えられてるのに、同じ檻の中にいて遊び道具が増えたり、階段の段が細かく新たに刻まれたみたいで、どんどん逃げられなくなっていく。
それは自分で選んでもいるのだけど、時々疲れてしまう。
それで歩いてると、なんだかネジやボルトが緩んだりとれたりして、いくような感じする。でもインタビューではちゃんと熱いこと言えて戦えるとは思う。
だけど、一方じゃこれというのは何かが狂ってるのか、それとも良いとこもあればれダメなとこもあるということか。
大きなため息を声に出してしてみたら、高校生のカップルに見られてしまったけど、でも2人は2人の世界に夢中だったから良かった夜。
ベッドに身体を沈めるとやっと、出口に近付いた気がする。
うまくいかないことへなのか知らないけど、いきなり泣きたくなったりもしてしまう。
でも出口に出たら出たで、何か戦いとかが終わってしまいそうでそこには何か欲しいものがあるのだろうか、、って考えてしまう。


関係ないけど、すごいロマンチックなものがないとダメだと思う。
もしこの先戦うなら、戦士には愛が必要だと思った。コミュニティでのやりとりとかじゃなくて。すごく限定的だけどピンポイントに向かって想像力を総動員させるような。

2016年10月20日木曜日

表層や

普段過ごしてるとあまりにも世の中が表層的にはうまくいってるような感じで、科学的な目標をたてたり時間を過ごしたりしている。けど、それは表層的に見えるだけであって実際はわからない中で、自分が現実的にやりとりをしているだけなのかもしんない。
とは事あるごとに気付かされる。 嫌なくらいにそういうことにただ囲まれて逃げることの難しい状況の人もいるかもしれないが。
最近、作品を見たりする中で重なるようにしてそういうものに出会ってしまって。
作品以外でもたとえばSNSでの友人の投稿などを通して。
あんまり極端に落ちてしまうことなんてないのだけど、今年一度ドーンって落ちることがあった際には、逆によく世の中がぎりぎり回っていられるものなんだって思ってしまった。絶対何かどうしてもうまくないことがあったくせに、素知らぬ顔をして生きてる人たちに思えて、なんて生きるのは大変なんだって、思いもよらないことを自分の中で思い考えてしまっていた。

映画、怒りを見てきた。
とても悲しいシーンがあって、自分はまさにそこで何もすることが出来ないというのを徹底して表現して見せたシーンがあった。その時に思った。いつもいつももし強くならないといけないとすれば、その瞬間がもしかしたらやってくくるのかもしれないからだって。
「お前!」って言われてるみたいで。しかもそれ今日始まったことじゃないだろ、ってメッセージに溢れた映画だって途中まで感じていた。だけど映画は多様な顔を持ちそれだけじゃない形で終わっていく、と僕は思った。




2016年10月15日土曜日

アゲインダゲイン

自分の立ち会いたい風景にいれてないなって思った。
久しぶりにこないだどこかで聴いたクラムボンの音が良くて、iTunesで探して見つけて手にして耳に入って高まった。気持ち思い返された。
大学四年になってヌードデッサンのモデルのバイト引き受けて最後のムービング、何を思ったかクラムボンの長い曲かけて裸でヌードで踊ったな。はは。いい思い出。やってよかった。
そう。そう。思い出すことが出来て、まだ自分が若いのかとか勘違いなのか知らないけど、まだ十分にという感じしてさ。
目覚めるじゃん、覚醒するじゃん、何回もその自分に出会いながらそれを現実も立ち上げれないかと奮闘をしていく作業。中々難しさはある。
プレイリストみたいにアゲインダゲインする強さも持ち得たい。
何回も目覚めてそこに鮮やかに立つんだ。
自分と世界。

2016年10月13日木曜日

100%

100%生きれているだろうか? って言うとそうじやないよな、って瞬間が積み重なっていく。何か年を重ねて、月日が経つのが早くなってきているような感じがする。以前だって焦ってやってきてはいたけどさ。 思ったよりも子供っぽい28歳でもうすぐ30歳を迎える。久しぶりにDVDで見るジムキャリー面白いのだけど以前のギャグの方がキレキレでだってもう50歳を過ぎているわけだ。最高の人と全盛期のジムキャリーを見ることが出来たら文字通り最高だろうな。
SNSのおかげで周りの足場を確認しながら進むことが可能になったように思う。でも難易度は変わってないけど、その分、集中力や労力は消費している。
いつも見える足場との格闘にもなるのだけど、宇宙のことは忘れずにいたい。
宇宙人と交信するために始めたこと。宇宙とは言わなくとも遠くの誰かともしかしたらやりとりするために行うことをやめずにいたい。
自分が誰かは知んないけど、未知と遭遇した時にバーンって光が溢れ飛び散っていくことは信用していたい。し、身体は覚えている。
時間が否応なく自分をぶっころしにかかろうとも、知らない、もっと知らんぷりしなきゃ、100%生きれてないことはいつも悲しい、けど真面目だけど笑っていかなきゃ。全部、笑えるようにしていかなきゃ。
自分は誰でもないかもしんないんだから、あるアイディアに向かっていけばいいかも、
いずれにせよ、瞬間っ

2016年10月11日火曜日

ヴェネツィアから借りてきた絵たちとか

わぁもうこんな時間。最近は、ニキビが増えてるのでそれを撃退したい。というか人にニキビ増えたね、と指摘されてでもそんなにいつも気にしなかったのだけど今回は何か気にしていて、治さなきゃって思っている。健康的な生活。しかしまたこんな時間に。やってしまった。年を重ねれば自然治癒力も衰えそうだし、それを見ていくことにもなるよな、取り組もうとしてみたらさ。

今日はダリ展にふといこうと思った。そんなにダリ好きじゃないけどモダンなものに触れねばと思って。というのも今、絵を描く仕事を抱えているので何かヒントをよりすぐ摂取したいと考えたから。しかし休日ということもあり20分待ちということで、ヴェネツィア絵画の巨匠たちという他の階でやってる展示を観に行った。そしたら案の定、借りてきた美術館の美術品の2軍なのか、3軍なのかっていうレベルの絵画作品が並ぶ展覧会だった。日本で観れる借りて来ての展示なんてそうなってしまうのは目に見えているが、それでもたまには向こうの絵画を見る事が必要でついつい行ってしまう。
だけど少し良いのもあるし、さすがに考えるとこもある。
昔の人々と絵画の関係は、今はもう築くことは出来ない。状況は違うから。
そして、ふと絵画の前で、努力の少なさが久しぶりに襲ってきた。ストレート過ぎる表現だけど、、なんか村上隆のこととかが頭にやってきて。焦った。

焦って、寝る。

2016年10月6日木曜日

パークライフ

町田に降り立つと吹く風が台風を予感させるほどで、あ、台風に触られているな、って思った。
ことごとく今夜は外れては外れた。すぐに新宿で用事を済ませたら練習をすべくそこへ向かうべきだったが、ふと文章を書こうとスタバに立ち寄り雨が降ってきた。仕方なく電車に乗り町田で練習して帰る頃にはしっかりと台風に雨という天候で中々に濡れた。

最近、前澤さんの写真展を見によった高円寺のお店で吉田修一のパークライフを買った。少し読んでこの本が与えるであろう効用を知り買った。
吉田さんは、映画化されたということでしか知らなく気になっていたけど、むしろこういったものを初期に書いていたのかという感じの作品でした。映画怒りも見るかも。李監督ただし。

こんなことを書くつもりじゃなかったのに、ベットに倒れた体を疲れと睡眠が襲って戦うことを目をあけて見る夢を覆ってしまう。

あ、そうそう、そのパークライフを手にとった理由はささやかな出会いを描いていたからで、何かそのことに自分自身励ましてもらおうと思ったのだ。
いつも自分は偶然なんかそんなに起きはしないことへの期待を持ってその空白や空気をそれでも大事に大切にいるのかもしれない。だから少し知ってる世界に対して冷たい。起きもしてないことをいつも待っている余白。ずっと空いたままのベンチの横にいるみたいに。だからそういう風景さえ、いつも、あるいは結構、身近に感じちゃう傾向にあるんじゃない?
公園のベンチのように。

2016年9月29日木曜日

宇多田ヒカルの新しいアルバムを買って聴いていたらスタバで泣いてしまった。ふいに襲われるようにして。と言ってもそんなしくしく音出してじゃないけど。泣いてしまう自分に対しても何かおそろしさももちろん感じた、宇多田ヒカル本人だってきっと自分のおそろさしさ、人のおそろしさにも気付いてしまっているんじゃないか。
そういえば大学1.2年とか3年くらいの時に、がんがんよし自分のやり方で生きていけるぞ、生きていこうって戦い始めた時に、たまに誰かと会ってお茶するっていう習慣も始めて、その時に話してる最中によく泣きそうになったのを思い出した。

実は依頼されての仕事は今年はほぼ結構全うして、これから作っていかないと、という最近の状態で、それで色んな余白がやっと生まれてさぁ改めて何をアクションしてこうってやりながら再考しています。
それと今、自分が大事にしようとしていること、とあって。
少しは、自分は宇宙の中にいる、って感じで、宇宙の可能性を使っちゃえばいいっていう感じです。
もっと、だよね。
そういうことと話したりしながら、います。
もっと宇宙にならなきゃね。

なんでこんな抽象的な話になっちゃうの?って未来がわからないから。
いや、未来をもっとわからなくしておきたいから。
僕はそれでも未来は素敵なものであってほしい。
たくましくなってさ、"いわゆる素敵"じゃなくたって、与えられた未来や世界に対して受け入れたり戦ったりそれでも素敵だって言える自分たちの状態や想像力の準備をしたい。
適当な悲観的なことを言う何も考えも思いもアクションもしない偉そうにするマザーファッカーなんか知らないよ、僕らが最強になればいい話みたいな。
なんでもいいから、そうやって宇宙的にある時はドラマチックに。またはロマンチックに。あるいは素朴に。
いいんだ、わからないままだって。それを前にしていつも踊り始めちゃうから。

2016年9月27日火曜日

ずーっとし、

こないだ南会津に行ってきた。楽しみだった星空は雨が降ってであえなかった。
その星さえ見れれば、その思い出を頼りにもうちょっと一年をすっきり過ごせるんじゃないかと思ったのだけど、見れなかったから少し薄くなってる昨年のイメージをまだ更新せずに頭の中で再生しよう。

昨日は映画館行った。
エルメスの。やっぱり入り口で飴玉もらって、最高だった。
飴玉で最高かよ、って思う?
最高な時はそれで最高なんだ。

でも、わかんないんだけど。

生きているから、ってそれを理由に少しよっかかろうとするのだけど、その根拠が弱いのか曖昧なのか、それとこれとは違うかもなのか、うまくよっかかれなくて。もやもや、過ごしてるのかもしんない。目標とは戦いながらも、そっちはうまくいかない。
まるで暗号のような、具体的なようで抽象的な文、書いちゃう。
今年の自分には今しか逢えないからね。今、逢ってこうと書くんだ。

なるべく今、気づいてるなら愛おしく生きたい、と夜のテンションに身を任せ書いておきたい。確かに、自分のこれって思うものを大事にしてしまえば、誰かや、いくらかの人やものさえ傷つけかねないのかもしんないっすが、それでも選んでしまいたい。
あれこれ。
生きることがわからないから、でもなんとかいつもずーっとしたかったから。




2016年9月21日水曜日

後悔、とかしたくない、

大体、深夜に公開日記なんかを書くと次の日に後悔したりする、公開なだけに。
じゃなくて。w
後悔かぁ。
後悔だらけですよね、いつも。こないだも駅の構内で小学生の頃の友人がたまたま同じ車両にいたのに目が合ったのにお互い気付いたのに、声はかけなかった。その後のただ疲れるだけの挨拶をしたくはなかったのかもしれない。FBでは友達なのに。より自分の目的ばかりをほぼ1日の中で生きてしまって、そのことにほとんどの集中や体力は持っていかれてしまって。
のくせして、絞り出した言葉をSNSに乗せたりして、行き違う気持ちとか、ある。
全部がうまーくは注がれなくて、悲しい。
でも描く。書く。
だからいつもうまくいかなくて、誰かを傷つけている。完璧にはいかない。
岡本太郎の言ってたことを普通に通過しているのかもしんない。
矛盾しながら激しくぶつかってる。
たまに心配になる、自分の顔が醜くなるんじゃないかと。
でも僕はその生き方を選んでしまった。この言い切りだって甘えみたいだ。
そこで後悔はしたくない、この大きい後悔はしたくない。
自分の選択を生きるんだ。
「知らねぇよ、そんなこと」って生きるんだ。
最後に死ぬ時に、今までの全部違ってたよ、ともし言われたらすごく泣くかもしれない。
そしたら悲しいけど、それも引き受ける。
だからどっちにしたって、だ。そのようにして、やっていきたいよな。

宇宙と宇宙をぶつけあっていきる。





2016年9月12日月曜日

ライト

あぁもっと世界と軽やかにやれたらいいのに、って寝るのを前にして身体が軽くなった際に1日を反省するように1年の歩みの重さを反省する時間がやってきた。時間ってより瞬間か。
365日って響きは口にすると結構、身軽でどこでも行けそうだし、どこまでも侵入できそうなのに、蓋を開けてみれば重く重く進んでいなかった、進めていなかったと1日の終わりに気付いて、明日はもうちょっとうまくやれるはずとか思っているんだ。
そしてトイレを後にする、水で流すみたいに。
もう少し明日からの365日は軽やかに生きれるだろうか、ってトライが始まるトライトライトライト!
トライがいつの間にかライト、軽くなっていく、

2016年9月8日木曜日

グレーな道路

こんばんわ、と夜の空間に向かって黄色い挨拶をする。
こんばんわ、の言葉の中に黄色い月が含まれている気がするを前提にした。
今年こそは華麗なるギャツビーの本を手に取りたい、映画があまりによかったから、なんだけど。いや、昨年に一冊読んだフィッツジェラルドが良くて、脳内ニューヨークもちょっとつながるところあるよな。
さてさて、次の展開どうしようかな、と考える。
人といても失礼なことにいつも自分の展開について考えてしまう。
だから中々人といるのも考えもので、どうしても失礼な瞬間を共有してしまうからなんだ。もっと僕がふわっと実はしていれば、さらっと交わしてさらっとその時は、っていう風にやれたらいいのに。
これは僕のせいっちゃ僕のせいだけど、時代のせいっちゃ時代のせいだ。。。訂正。
尊敬する人はこういうところを大体クリアしていておったまげる。そんな風に生きれてしまうのは、努力とかなんだ。世間で言うところの努力とは違うけど、間違いなくその戦い
みたいな。
そして世界はそんな風にしてたまにわからなくなる、多くの人が努力とはまだわかってないようなところで調整し、生き、天才をする人がいたりする。
たまに遭遇すると膝カックンされたような感じがする。

グレーの道路を走っていると、緑の木が見えた。


短編を今、挟んでみた。

何をいってるんだろう。
でもいくらか逃げたくて書く。
いつも誰からもわかられたくない気持ちも必要だ。(これこそ共感を呼んでしまうという皮肉)
なんてこった、そしたらそれ自体があの子みたいじゃないか。

歌の最後につけるbabyっていうのは、いつもすばらしい。


2016年9月6日火曜日

疲れや走り、個展のこと、ありがとう、など

あ、さっきよりはクタクタじゃないなぁ、とベットに倒れこみそう思う、この身体。
8月が終わって9月になった。個展が終わった。最初は大丈夫か不安だったし、初日始まった時でさえ不安だった。額装したりして公に売ったりするのは、何しろはじめてだったからわかってないところで何かが進むのがこわいしわからなかったのだ。
だけど、わからない中での喜びや反省があり、否応なくそれが新しい面に付き合わせた。
ので、これからの僕に期待したい。 し、そういう意味でこれからに出会うためになったのだ。周りの人のおかげです、ありがとうございました。そう、そう、みんなで世界を回していきましょう、、とか言いながらも誰かの政治性は勝ち、誰かの政治性は否応なく負けていくのかもしんないけど今までのように、、、だけどその拮抗やバランスなら変えたり調整していくことは可能かもしんない。

シンゴジラは見ないかもしんない。噂話でお腹いっぱいになってしまったし、僕を走らせるエンジンは他の映画に相変わらずあるかも。
シングストリートは好きな子が出来て、エンジンがかかって勇敢に創造していく青年を描く。でもその創造力が相手に届くどうかは、これは別の問題で。だって相手は相手の時間を人生を体験を生きているから。それは随分勝手なものだ、と気付かされる。
色んなことが遅かったのかもしれない。
そういう日記をよくそれこそ10年くらい前mixiとかで友達のとかで見た気がする。
しかし、自分には自分のスピードと想像力しかない。
そしてそれぞれのスピードを生きているのだから。やれることはそれでも走るくらいしかない。疲れるのか、走れるのかはまた自分の問題だ。

2016年9月2日金曜日

抽象的な段階

今週が終わるとちょっと切り抜けた感がある。あとちょいがんばりどころ。とこ言ってみたものの、なんというかそんな週間とか何ヶ月とかの単位でがんばるとかなんかスケール小さいよな、とも思うよな。だけど日本ではそんなタフじゃなさそうな感じを与えるニュアンスの中でも脱落していく人はあとをたたないわけだから、これはここ日本独自の単位であって、同じ言葉で翻訳したとしても海外でのそれとは違う意味を含んでいるだろう。
とかめんどくさいうまくいえがたいところから出発してしまった。

いずれにせよ、個展は今週いっぱいでおわり、3日のキラリふじみの発表会でパフォーマンスを作る作業もひと段落する、、うーん、いやぁ、するのか?すぐ始まるけど。
気持ち的に何日かは楽になる、かな。
お疲れ様でした、夏。ビーチサンダルもかき氷も海も忘れてしまった。
けど僕にはあの木場の公園をセミが散々になく景色が与えられたし、初夏に作った中々気に入った詩もある、夏は実はどこから齧ったってかじりようによっちゃあ美味しいのかもしんない。
何よりちょっと前進があったとすれば、僕が見たい光景というのが必ずしもみんなや誰かとの共有は出来ないかもしれないということと、それに対してそれはそれで受け止めることも大事だということを知ったことかな。これからそれを浸透させてくのかな、それで少しは成長するのかも、と。あ、違う違う、そんなこと前から知ってて、つまり学んだのは例えば何かを強く共有しなくとも、ということ。

今を大事に生きたいと思っている、この抽象的な段階を。
わからないなりに。

2016年8月27日土曜日

オープンパーティー

今日は個展のオープニング。みんな来てくれてありがとう。僕は胸いっぱいです。
最初三人くらいしかいなかった時間も今は愛おしいです。ただ遅れてギリギリに来た人たちにもうすこし充実した何かを提供したかったのだけど、、そこが不安です。
たくさん人が来るかと思って用意したお酒の5分の1くらいしか出すことなかったけど、買い出しは買い出しで楽しい。そういう風にもてなす楽しさある、わくわくの。結局でもお金たくさん持ってるわけじゃないから、あちゃーって気持ちも持ち合わせてる。
だけど、今日のあの時間、よださんのライブに僕前座したり、横山さん踊ったり、最後にやっさんが勇気持って飛び出したの最高だった。
ぎこちなくみんなでやりたいことを作っていくんだって思って。もっと何かしたい人いたらごめんね、及ばず。
でも見守ってくれてありがとう。
最高で最強でした。
オープニング企画してよかった、ギャラリーと一緒にそれが出来てよかった、サンキューアロットオブ!

2016年8月20日土曜日

子供の絵本

街が寝静まった頃に、書き始める話がある。ってなんだよ、って。
SNSの普及ですべてやってることが、種明かしも同時にされてるようで、いつも共有されてしまうようで、隠れる場所も減ってしまったのかなぁとか思う。
でも逃げたい。捕まりたくない。理解されたくない、って思うじゃん。
それは大事にしたい。いつも隠れてしまいたい。
誰にも捕まらずにひとりだけ抜けがけして知らない世界と話がしたい。
していたい。

僕は本に興味を持つのが遅くて高校三年生くらいだったと思う。し、スピードも早くない。だけどいいんだ、今持てて思いを馳せてるのも悪くない。
子供の頃に本を読み聞かせてもらったのを覚えている。その時にほんとうは自分は何を見ていたんだろ?話を聴けていたのかな?覚えてない。
だからか子供がどんな風にして話を聞くのか興味ある、



2016年8月14日日曜日

もう10年以上も前の夏の廊下とか、

なんとなく今夜、涼しい風が吹くので、少し秋の方によった夏を思い出しては、って感じで高校生の頃の事をまた思い出している。
Yシャツの下に風がよく通ったなぁ。一年生の頃にHYとかよく聴いていたなぁ、聴いては恋に夢焦がれる、みたいな、感じで。
でも一度しくじってからなんか心がついていかなくなってしまって、難しくなってしまった。あとなんかみんなと共有したくなかったのかもしんないな、ほら、高校とかってなんかみんなの目線によってできてるところあるから。うまくいかなくなった。
他の高校の子とも知り合ったりして、少したったあとにやっぱり良い子たちだったのになぜか心が追いつかなかった。一度、最後には心も追いついたのだけど。

そうそう、最近ギターのコードの練習とかでコード表を色々試してて、その中でもHYとか拾ってやってみると、歌詞が中々よかったりしてさ。
そして歳を一周くらいとったのだけど、一周してまたHYとかの曲にこうして再び出会った際にライブ感溢れて響いたりしてさ、この風とともに。Yシャツの下を通るような、その風。
なんか果てしなく切ない。そして年を重ねることは、こういうキリキリ感も味わえるということなんだ、とか思ったりしてさ。
あの時の高校1年、2年の夏は、アイスが溶けてしまった状態までいくくらいに、長くもあったなぁ。毎日踊って走り回ってばかりいたけど。
コンクリートの思い廊下に座って、自販機でドクターペッパー飲んだり、寒天こんにゃくみたいなの飲んだりしながら踊って、踊って、踊っていた。

夏はそういう気にもさせる。
https://youtu.be/uftMQB2eQlQ
これは高校二年生の時に作ったブレイクダンスのショーケース。
髪の長い女の子は、この段階ではまだ密かに心を寄せていた女の子。

2016年8月11日木曜日

最近〜、

とりあえず最近は個展に向けて絵を描いてます。グループ展の方はもう始まっていて設置も完了しました。違うアウトプットがそれぞれ出来ているとは思います。
1月の個展とはまた違う心持ちです。あの時は、ごく私的な感じも割とあったのですが、もう少し引いた目線で制作がされて、取り組まれている感じもします。
あとは、tera to teraやicc、キラリふじみ、と盛りだくさんで、全部夏かよって集中具合です。
最近、ラジオでのエピソード話して曲を流すやつが気になってます。
僕もあれやりたいな。似たようなことはやってるけど。
ピンポイントで伝書鳩のように届けたいですよね、そういうの憧れる。
この頃、1日の3分の1か4分の1は限りなく透明に近いことに関して考えているのかも。

2016年8月2日火曜日

c is a special

昨日の夜をこう評価したい。星10こと月8個分くらい、美しかった!
は言い過ぎだろうか、なんだよ、この基準。でも悪くないでしょう。

SPECIALだったなぁ。
相変わらずスペシャル、特別なんだ、そこだけ。

2016年7月28日木曜日

無敵

映画館に行った。
映画館はやってる映画の大きなポスターが張り出されてるといいね、その下で待ち合わせとか絵になるじゃん。シネマライズがなくなってしまったね。

sing street見た。
感動しちゃった。
映画見て感動しちゃったりして、そして、いつも毎回こんなんじゃダメだって言う気持ちが汗をかかせたり、過去を振り返ったりして、泣いてしまう。
10年以上前の夏休みに観た映画でも同じこと起こっていたんだよな、中学生のおれ。
とか、
映画について考えたなぁ。
光が画面からあふれてて、男の子と女の子が話してて、その中で映される涙とかそこに自分が投影する見たい風景や、想いが重なったりして、大事なことが見える気がして、これはとても個人的なものだけど。
ポップスとは5分間の魔法だったことや。
また戻って来てしまったって感じだよ。
いい年になるんだけど、関係ないかもしんない。
何も知らないよ。な。
その人が好きっていうだけで、どこまででも走ろうとする主人公の話かもしんないです。
走ってる時は無敵なの、知っている。

2016年7月22日金曜日

怪談

今日はうんざりさせられることや癒やされるようなこともあった。

夜に学校の怪談の1を観た。この夏はこのシリーズ見直そうって思って。
怖い話とか肝試しとか懐かしいな。
怖がったり、そこで勇気見せようとするチャンスだったりした、あれ。
学校の怪談1も、こんなに最後さみしく終わるなんて覚えてなかった。
初恋感すごい。
こういう夢、何年か前に見たのを覚えている。
なぁ。

夏にでも、みんなで肝試ししたり、集まって怖い話したり、楽しかったなぁ。
あの楽しさは、半分永遠かもしんない。未来になっても。

夏は奪えない。

2016年7月16日土曜日

マリオとルイージ

眠くてあんなにウトウトしながらやっていたのに、いざ寝るべきタイミングで一方何かすることがあるじゃないと抗おうとする自分がいる。まるで自分の中に、逆の方向を行こうとするマリオとルイージがいるみたいに。
提出するべきラフな企画書がいくつもたまってきた。
ダムかよって感じでせきとめちゃってるかも。

学校の怪談の映画、今年こそ久しぶりに見ようって気持ちある。
一方でこわいから、借りれなかった。あ、マリオとルイージ現象だ、、

2016年7月12日火曜日

クタクタ

クタクタです。どうも。
もうなんも、終わってないというか、嘘みたいになっちゃってる。
あぁもう、なんでだろう、、なんでたろう。
本当にiphone6Sとの相性も悪い。
機械とは体の延長でもあるのか、関係をうまく作れないとジリジリとストレスがたまるのかな。
もう体力や考えが、栄養もおいついていないかもしんない。それでうまくまわっていない。
あぁ、、
なんで太郎、っていう人いたりしてねw
クタクタさん、って人もいたりしてねw

疲れてるのはしょうがないでしょう。
ってか世の中が真面目すぎる、せいにしよう。
僕の方が真面目だよ!っていうウザさを挟みつつ、自分が疲れたら世界の基準が真面目過ぎることのせいにして、うまくやっていこう、

こんなこと書いてたらチェゲバラに怒られそう。

2016年6月25日土曜日

6/24 friday

久しぶりに終電を逃し近い駅から歩く。今夜は湿ってはいるけど風が涼しい。C。
ビタミンCも少し含まれてたらEのに、なんて。

この駅からだと森を通り大きな道路を通る。
車が横に大きく過ぎていく、先端にライトをつけてかわいい。

50分近く余裕を持って歩くのだってこの歳になれば、結婚し子供を持った友人から見たら中々の贅沢かもしれない。もっと歩きたい場所もあれば時間もあるし、やりたい事もやらなきゃいけない事もある。しかし時間は進んでいく。刻一刻と。なんか一方では刻むという文字にイメージに、傷をつけていく感じがある。拭えない。

前よりも、何か刻一刻と傷を負ってしまって取り返しのつかない1分1分を生きてる感じがじ、常にいつもさみしさがある。選ばなかっことに対して。

でも全ては相対性だと知ってる。
立つ位置や見る位置によって一瞬にして変わるものだ。
ただ今、自分の立ってる場所からはそう感じられるということだけで、一瞬にして残酷なるどに砂漠の真ん中に宇宙の真ん中に放り出される可能性があるという気分はいつもこのポケットに入っている。

グレイとか、茶色とか、緑とか、葉っぱのいろをした、新しい、さすがにそれはないでしょうというような、抹茶の味をした、おいしい、いとしい、その他もろもろの、かたちをした、かたちをもたない、あれこれへ、、手紙を書かない。待っていないでいい、そのままでいい、そういう、そういう、そういう、そう、言おう。


2016年6月18日土曜日

38956743

頭を一瞬ぶるっと振って、違う景色にすぐあえたらいのに。

2016年6月12日日曜日

陶器

NHKの12時少し前にやっていたドキュメンタリーの番組で、国宝を作ろうと取り組む陶器の職人のある男性についてやっていた。
途中、中々お金のために個展を開くことはしない夫のためにパートをして負担をになう奥さんが出てくる。
制作というかその仕事についての話は奥さんには一切しないらしく、それは、人にはそれぞれ器があり、そこに入るものの適切な大きさがあって、その夫の仕事の話でもしてしまえばその奥さんの器には入らないことを知っているからだ、と奥さんが話しながら、途中泣きそうになっていた。そういう話は、その夫の師匠であるその夫のお父さんとするべき話で。
夫婦であっても、それぞれの戦いのフィールドがあって、ちょっとその愛のあり方が胸を打つというか、痛く、でも美しいと思った。

2人だけど、独りずつで、一人ずつでの2人。

2016年6月10日金曜日

6/9

365日がはやすぎて。
ほんとに毎日くたくたになってしまう。けどそのスピードに負けてもいらんない。
したいことをし、そのスピードにちゃんと抗い勝ちを得たいし。

代々木公園の真ん中にすぽーんと抜けた広場があり、こないだ撮影でそこに夜訪れたのだけど、ほんとうに中々ロマンチックな空間で。前の日に観終わった映画のせいもあるだろうけど、ずっとそのことについて考えていた。

今をやりとりしてる人たちとしっかり今のやりとりをして現実を乗り越えてよりよくしていきたいし、一方で言葉のやりとりじゃないところでそういう景色の中にもまた身を置いていきてみたい。

2016年6月4日土曜日

2016 6/4

大学の後輩の結婚パーティーで踊ってきた。
水着で到着し、乱入していく感じで。原っぱから走っていく感じでやった。
いいパーティーで銀杏boyzかかってて、みんなと踊ったり、僕はちょっと結構踊っちゃった。新郎新婦などの巻き込みながら。新郎新婦が踊っちゃう感じが素敵だった。
踊れちゃう2人なら永遠かもしんないって思わせれられた、素敵だった。ダンスが喜んでいたかも。

銀杏boyz聴いたりして思い出して、引き戻される高校生くらい。
ね、みんな結婚したり、しなかったり、あるいはすることが出来なかったりしてさ。
当時はそんな未来に至ると思いもしなくて。
(これだって小さな世界の話かもしんないのだけど。)
まぁそうして時間の幅を感じてしまった。

自分には好きな人がいたけど、その人は結婚してしまうこと。を通して少し見渡せる景色のこと。
面白い具合に色々ドライブががっていて。
すばらしい。宇宙が。伸び縮みするんですね、各々のドラマで。
無視したり、無視されたり、当事者になってみたりする中で。
世界は伸縮していく。
I've gotta merried you.
素晴らしい。

愛が溢れるのにだって時間は必要で、それは相対性理論のもと伸び、縮みしてる。
we are infinite.
この言葉をある映画より抜粋して捧げたいと思う。

2016年6月1日水曜日

we are infinite

wall flower.アメリカの家庭の壁際には花瓶が置いてあり、全体がそこから見えることから、そのような人をwall flowerのようと形容するのかどうかはたしてわからないが、そのような意味で映画の主人公のことを形容していたと思う。
昔、二子玉川の野外上映に選ばれていた作品ということで友達に聞いていた作品でその後色んな劇場でやるようになり観に行った。

この映画では、エマワトソンが神がかっているのか全体的にぼんやりとしてただただ音楽を聴いているみたいな感じになる。入り込んでしまうと、覚めないでほしい夢の中にいるように、エマワトソンが自分にとっての、誰かにとっての憧れのその人で、夢なら覚めないでほしい、というように段々映画を見るうちになっていき、気付けばもう自分は生きてきた中の半分も変わらない自分の部分に気付いてしまったりするのだ。そして未だに手にすることが出来ないことにも改めて直面させられる。

自分にとっての映画とは何であるかがこの映画には含まれてる。
と見ながら確認した。
こんなセリフがある、「世界で最も愛する人たちとあの曲を聴いている」
そして、夜を走っていく車とトンネルの光。光の中を車が走り僕はそこに立って光を浴び、愛する人たちと、曲はかかっている。
そういう青春を確かに僕は愛していたなぁと思い出して、涙が出る。
もう一回走ることは可能なのか、
自分にとっての大事な問題を少し思い出した。
明日からは現実と戦うけど、夢を見る準備はいつもしておこう。

2016年5月30日月曜日

プレーンソング

最近は中々くたくたで、毎週のようにパフォーマンスを行ったり、他の企画を進め考えたり、または他の企画が入りその打ち合わせなどを行っている。
今日話した誰かにも言っていたのだけど、やっと今、企画を試せるような考えや人との関係や、誰かと関係が出来つつある状況になってきたので、いまこれはやった方がいい。本当はあらゆることがもっと早い段階で行われたら良かったのにそうもいかなかったんだ。


今、多摩川を電車の窓越しに見る。
横の川を縦の移動で大胆に切る感じ。
電灯が向こうにずっと続く光景を見て、それを河川敷で見なきゃ、そろそろと思っていた。

こないだ友達を誘って海に行った。
プレーンソングという本を読んだのだ。
この行為にも名前を付けていいだろうか、みんなで海に行ったことをプレーンソングと呼んだ。
過去形にしていく。
現在形に留めておく、で意味は変わっていきそうだ。

今日また良かったのは、それってロマンチックだってことだよね、とその友人と確認出来たことだ。当たり前だと思っていこう。

2016年5月21日土曜日

昨日の夢はすごくて結構疲れた。大きな距離を移動したのだけど、そのまま感じるように疲れるのだった。夢は見るものによって随分感じる大きさが重さが変わってくるなぁと考えてしまうのだった。
もうちょっと今夜は適当な夢を見て眠りにつきたいものだ。

2016年5月19日木曜日

jump

多くの人がスマホを持つようになり、その画面を今日もずっと見てるという光景は世界中にあり、その姿勢こそとても現代を映すかもしれない。
スマホを見てしまうことについてなされる見解の多くは的外れだという印象を受ける。
機械に飼い慣らされてはダメだと言うかもしれないが、そんなに能動的な人間は歴史を持っていないかもしれない。何かがそうさせる、踊らされることで歴史が紡がれて来た感じはあるだろう。
だから考えるなら、それはいったいどういうことなのか、ということだ。

とびっきりの人に出逢いたいなぁ。

2016年5月13日金曜日

闘い方とか、

WTF!もっとダイナミックな闘い方をしたいなぁ、、うーん。
ちみちみじゃダメなんだ。しかし嘘はダメだ、やれると思ってたやつが大して中身がないということはおおいにあってそのせいもあり全然地球が回ってないと感じる。
だからちゃんとモヤモヤした中でしっかりとエネルギーを蓄えるのは必要で、だからきっとこのストレスからも解放されないだろう。
にしても、もっと戦い方について考えねばダメだ、なー。

2016年5月11日水曜日

五月

19歳くらいの頃、大学の図書館で横尾忠則さんの本に出会って、やばい自伝書かなきゃと思ったの当時20歳までにと。原稿用紙に少し書いたけど、最初しか書けないままにしてしまった。
あの頃に色んな火がつきかけていたけど、火が消えたりもして、そんなにうまくいろんなことは行かなかった。
けど、じゃあ失敗は多くしてきたのかと言えば失敗といえる失敗の見た目のものはあんまひしてこなかったのかもしんない。
と考えると結構やばい、焦る。
失敗のサンプルを欲しくなったりしてる。

大学の図書館でたくさんのことに出会ったな。そんなに本に埋もれてってほどではないけど、だってそんなに本読むの早くないし。それでも色んなことのきっかけをそこで出会った本たちが与えてくれた。あんまり映画専攻では学べないことを本から、他の分野の人が授業で受けるようなことを羨ましいなぁとか思いながら僕はこっそり図書館で出会っていたのでした。

多くの先輩は丁寧に明かしたりはしないけど、学校生活もう一回出来るならもうちょっとどう改善しようかとかは頭をよぎるもんなんだ。

2016年5月8日日曜日

せいいっぱい

あーくそぉ、365日ってなんて短いんだろうと思って。
情報が増えたからなのか、その分やらなきゃって思うことも増えてしまったのか。
自分は確かに溢れる情報の中を生きてる、サボってる方面もいっぱいあるけど。
通過するものが多いと、その分のすれ違いや行き違いも多くて消耗もする。
捉えられなくて。
かなしい。

明日は、というか今日ですが三軒茶屋の32106ってbarで視野ってイベントです。
パフォーマンスをします、猫道さんと、福原冠さんと。
今日は代々木公園で打合せでした。大きい木と広がる夜空の中に、3人の青春が混ざり素晴らしかったです。
青春を持ってる僕らは素晴らしいし、ちゃんとどこかに行けてその環境がまたすばらしいと、照らされて素敵になる。誰もそんなことに評価をくれるわけでもないけど、自分たちでわかる素敵さ、とかすがすがしさとかは生きてて重要じゃん。こっそり。

手に入れたかったものは手に入れらなくて、適当に触ってしまって傷つけてしまうかもしれない、すれ違い。
それでも日々は過ぎていって否応なく、またその時間の暴力的なでも自然な経過に傷ついて大人になっていく人々。
とか言っちゃってるけど、全部笑いにも出来るだろう、きっと。
だから何したって大丈夫なんだ。
生きてしまったんだから。

2016年4月28日木曜日

こんな今夜

そんなつもりじゃないのにまたこんな時間に寝てしまっている。
ほんとに?そんなつもりじゃないだなんて、いくらか、いやいくらもそんなつもりでしょ?って感じもする。要するに2人の自分を演じてしまっている、、みたいだ。
こんなことを書いたりするのってなんだか、昔の携帯日記みたい魔法のあいらんどだっけ?そんなようなの。懐かしい。眠れない夜日記ガラケーをベッドの中で光らせて読んだり、あるいは書いてもいたような気がする。
懐かしいなー懐かしさには涙するな、今一度さぁ。
生きてて色んな可能性があって、今はメディアを持つことが誰でも出来るからそのぶんいつでも痛い感じになってしまえるし、痛い感じをこわがってもいれるよね。
痛いことはいつも痛いのに、消えていくのも早い。しかし痛さにはなれないから、ただいつもひやひやしているしかなくなってきたりしてさ。

さっき見た映画、駆け出しの作家が最近ヒット作を生み出した作家について記事を書こうと接近する話。
ジャーナリズムとは戦う人がいて初めてそれを報道しようと立ち上がれるものなのかもしれない。今もしジャーナリズムが弱いのならそれは戦ってる景色がなくなってしまっているからだろうか、いや、戦ってる人は常にいつも絶対にいるし、報道を必要とするものごともいつもある。ただ僕らだってもっと戦わねばと、そのことに思い巡らして思ったのである。
報道に値する戦いをしなければ。

全然違う場に着地してしまったこんな今夜。

2016年4月20日水曜日

ふふぅーひぃーふぅー。
夏前に海にいきたい。いこう。

2016年4月17日日曜日

一瞬

にして焦るのだ、やばい、あぁもう、時間が、とかおもって、鏡見てる時に、お風呂上がった時に縦に長いかがみに映る白い蛍光灯に照らされた濡れた髪に渇いた肌の自分の顔と体を見たときに。はっと、一瞬にしておそいかかってくる
そのときに、そのつぎのときに、そのまたつぎのときに、そのタイミングに少しズレやラグがあってもふさわしい自分を間に合わせれないか、やばい間に合わないかも、と焦って、ズレて生きてきてしまったのかもしんない、、

2016年4月14日木曜日

砂のよう、

今がどんどん砂のように掴んでは溢れ落ちてしまう。
何回つかんでもすべて溢れてしまう、それでも掴もうとしようと思う。

次回の展示が決まりそう。
今度は絵に重点が置かれそう。
しかし個展が終わってから今、自分が主に重点を置いてきたのは場所や時間を作っていくということで、今年は結構それをやっていきそうな感じもしていた。
どこかそれが実感として身体や思考の拡張感があって、割とすんなりと出来るようになったのが昨年からの準備と今年始まってからだ。
もちろんこれは周りの協力があって出来ることで、なんか今実感としてあるのは本当に自分の頭と身体しか使えないわけはなくて、なんかみんなでみんなの頭と身体を使っていくことがなんか出来そうだって可能性。
こういうのも一部の人しかわかっていただけないかもしれないのだけど、評価や経済を気にもしていられない。時間と空間があるならば使うべきだ。
出来る人がそれぞれの出来る部分から取り組んでいかないと、世界は待ってはくれないので取り返しのつかないことになっちゃうという持論。
ということでスペースへの展開を続けつつ、現実的にいよいよ、もっと絵とも向き合うという次の段階だ。
本当は今年一回くらいダンス公演、ダンス作品を作りたいモチベーションもある。
なんか面白いの作れると思うので、で、たぶん来年になると提案が変わるので、まだ未熟でありつつ面白いアイデアを入れたものをひよっこり出す機会も作りたいな。

2016年4月10日日曜日

華麗なる短歌

短歌の友人がかなり良くて、いくつかの短歌にノックアウト、翻弄され、俵万智のサラダ記念日をブックオフで購入。ブックオフの系列のお店で久しぶりに古着を買った。
どうして女の子はいい古着を買えちゃうんだろう、まるで晩ごはんのおかずを揃えるように軽やかに馴染んで古着を買われていく。
素朴な短歌に通じる世界観。
完全に何パーセントかその世界観に持って行かれたまま、ここ最近の自分の状態がある。一方で相変わらずいそがしく考えたり計画したいことにも注いでいつつ。

グレートギャツビーを久しぶりに見た。
まぶしい煌びやかな画面を、クリスタルだけで構成するかのような美しい画面を作り時間を作っていく、それがまるで映画のストーリーと重なるようで、すべてはその恋のために注ぐように。
しかし戻そうとして戻すことの出来なかったそれが、最後に遠くに離れていく光として投射され離れていく。深海に落とし永遠に拾われない指輪、物語、のようだとも思った。
そしてエンディングにthe xxが流れる。
この上なくセクシーな曲。深海にさみしく響くサウンドトラック。
だから、ただそれは美しい、美しさしか残らなかった。
何かのために積み上げたはずの美しさだったが、美しさは積み上げられたという事実が悲しい。

2016年4月4日月曜日

クラブが楽しかった話

あーやっぱりiPhoneはプラスにしておくべきだったのかも、というのはやはりボタンというかタッチパネルが小さく、打てないことによるロス。便利の中の不便ですね。

昨日は久しぶりにクラブに行ったんだけど、それがずいぶんずいぶん楽しかったわけ。色んなシチュエーションが重なったというのはある。メンツのおかげというか。
にしても楽しかった。自分の中でも結構、お酒飲んで普段なら吐いちゃうくらい飲んだけどむしろそれで頭がちょっとズレてる感じで一方で踊れてというのは状態が続いてあの状態が楽しいんだ、っていうとこの発見。えーこんなに楽しいってくらい楽しかった、、かも。もっと楽しいのかもしんないけど。びっくりしたぁ。
結構、僕らこんな風に過ごせんのかも、そしたら結構素敵じゃんとか思った。
働いてるとこ以外の面白いを作っていきたいのかもしんない、人と自分が過ごせる時間を自分が人と遊んだり過ごしながらその事を試そうとしてる段階かも。世の中でビジネスとしてやられてて面白いとか言ってるはったりも多くあると思うからそういうのを少しづつ減らしていきましょうよ、と。中には面白いのもあると思うけど。
今、そういうとこにも関心やリアリティが向かってしまっている。そこはどこなんだよ、って突っ込みがありつつ、でも、たぶん大丈夫だろう。

2016年3月31日木曜日

風景

http://youtu.be/GHDWUIeVR1g
これまたなんとも。
風景の消失。
失いたくなかったなぁ。
変な考えが頭をおそったり。
どうせキャラに回収されるのかよ、と。
怒って、じゃあ問いただしたところでもちろん意味がないからそういうことはしてこなかったから、ずいぶん無力だ。いずれにせよ無力でしょう。
どこかずらして生きてきたつけがまわってきたかのようなパンチ。
また眠る。

2016年3月29日火曜日

short song

最近、短歌の本をすすめられて読んでいる。
これまたすばらしいわけだ。なんていうか、その本は色んな短歌を編集し載せたものについて話していくので、まず色んな短歌があることに出会っていくんだけど、それらが単発的に載せられていて、前後はなくひょいと短歌がある分、そこだけ鮮やかになって想像するのは自分の出来るところから早速してしまうわけ。そのせいで、割と近しいことが想像されドキってしてしまうのだ。
瞬時に愛を歌ってたりすると、お話の中の話というよりもより身近な想像力が働いてしまう。
人ん家の食卓の灯りを覗いてるみたいになるんだ。
サザエさん家みたいな。
最近はめっぽうそういうのにことごとく弱い。


2016年3月24日木曜日

2016 3/23 片瀬江ノ島

始発で江ノ島に向かって、海で叫んだ。早朝。
http://youtu.be/-9lmlHmgCeQ

2016年3月19日土曜日

begin again

やれやれ、どこへ逃げればいいのかって思ってしまう。
たくさん世界広げていこうと思ってやってきたのだけど、その時に唖然とした。広げた世界から逃げれなくなっている。あるいは、こんなにも広げたはずの世界なのに、ほんとに見たかった一つのものは閉ざされてしまった。みたいな。
ただピュアぶってるだけなのかもしれない。
やり方がわからなくなってしまったよ、という状態の体になってポロポロと零れ落ちてくる。
自分がそういえば28歳になってることに気付く。
自分が言ってた世界がひどく狭いものだということに気付く。
はじめて映画を嫌いになった瞬間、そんなに都合よくカットするなよ、って思う自分がいた。
誰も全部がうまくいってるわけじゃないことにはじめて気付く。
その巨大過ぎる絶望に絶望する。
人の重みを想像すると身動きが出来なくなる世界が出現することを知る。

それでも再生しなければ。
エンジン燃やし新しく広い身体を持つことが関わる世界も変えていく。
ボクシングみたいだったなんて。

2016年3月17日木曜日

新しい顔!

この一週間は色々あった。いや、一つをのぞいてはいつものようにドタバタだったのかもしれないけど、その一つですべてがぐわっと動いたかのように思えたのかもしんない。

でも復活出来そう、失ったけども失っちゃいなくてそこにあるし、輝き方は違うかもしんないけど、おかげさまで大丈夫そう。ありがたい。最高。 若い時、自分はそれが出来なかったかもしれない。今さらだけど。

うん、本当に返してくれてありがたかったな。それがなかったらずっと中々抜けれなかったのかもしれないのだ。

いずれにせよ、ただ新しい世界に出会っていくしかないのだけど。

それしか自分を救うことは出来ない。

もっと行けよ、と。

2016年3月8日火曜日

あっというま

あっという間に3月だ。と、こんな風に今思ってる人は多いんじゃないだろうか、時が過ぎるのが早いという話題は花粉症の話題くらいみに色んな人と共有出来てる気がする。にしてもこれだけ早く感じるようになったのは、人が触れる情報量が圧倒的増えたからじゃないだろうか、そしてその浴びる情報をいつも処理しようとしてしまって仕切れなくてということでいつの間にか時間が経過していくんじゃないだろうか。逆に言えばfbタイムラインにざっと目を通しただけのつもりでも身体はある作業量分のエネルギーは消費しているとみる。よくぼくは絵はともかく目の中に入るという体験が大事なんじゃないか、って言っててそこで僕が信用してしまってることはまさに上に書いた能力のことではないか、と。
次回は経済について書きます、、え?!

2016年3月5日土曜日

3/5

明日はまたパフォーマンスの本番なのだけど、今日は身体の調子が悪く、明日の準備もままならず、なんか身体と頭が追いついていない感じがある。しかし、人前に出るということはわかっている。
3/20のイベントの方ももう告知とかしっかりやらないとな。

心臓

今日も桜木町までダンス観に。一月の後半から毎週のように横浜に通ってる。横浜にもっとギャラリーとか増えたらなぁ。の前にか、ファンを増やさなきゃね。
今日は川口ゆいさんの公演でした。ずっと追いかけてる大事な作家です、間違いなくこれはファンってやつかもしんない。あんまりずっとある程度の距離感でファンであるってことがないから、今日僕はゆいさんのファンだwって気付いたことはもしかしたら人とその軸について話すための用意になるかもしんないと思ったり。ゆいさんがダンコレで賞をとったのは10年前。僕がゆいさんの作品を見たのは2009年だ。10年後に自分が同じ賞をまさかもらうなんて。今日は森山開示さんも来ていた、どこかのブログで開示という名前は昔ゆいさんがつけたって見た気がする。コンテンポラリーダンスの一幕をチラ見するようなやり取り。 ゆいさんはいつも精力的に新しいことにチャレンジしている、中々日本では同じような活動をしてる人をみかけないからフレッシュです。あぁ開示さんのダンスも学生の頃見に行ったなぁ。そんなばりばり踊れる人たちを見ておきながら、お世話になってるkentaro!!さんしかり、なぜ自分はこんなことになってるんだろう。
きっと今年のダンコレで困惑した人は多いだろうと思う。今まで認めてきたダンスとは違うって人も。じゃあ僕はほんとうにばかだったのか。いや、そんなことはないだろう、ちゃんと自分で選んでやってきてはいる、もちろん矛盾も抱えながら。だからわかってもらうのには時間がかかるかもしれない。ってことも思ってる。

2016年3月3日木曜日

human

街を歩くことが自分を彫刻していく、誰の評価を視線気にするかで自分は彫刻されていく。
街を歩けばストレスもあれば、その場所での空気に身を置き少しは把握することがある。そういうようにしてそこで得た実感とまではいかない淡い部分とかも大事だったり、大事にしないのもありだけど、今の僕が何かアウトプットする上では重要なソースだ。

誰かの評価を気にした上での自分が形成されていく、より洗練され人やものを設定した人はそうなっていく。
たまに会う人にこの人はとんでもないところに設定置いたなぁ思う人に出会うこともあれば、そこに設定したらもう隠居しかないじゃないかそういうとこまでいくと逆に僕にはどうでもいいことになってしまうよ、ってこともある。

ほんとうに時代は川のように流れてく、しかも早い。それに日本の土地も加わってずっと流れてる上に足を置いてる気がしないかい?
いっそこの水と戯れるようにしつつ、いろんなことを見計らってそれでも危険な人間でいたい。


2016年2月24日水曜日

立つこと

なぜ、演劇じゃなくてダンスかって、そもそもこの言い出し自体がなんだか日本の状況っぽくてやれやれかもしれませんが、、、ダンスなのはそこに人が現れる、っていうシンプルにおかしいことだから。おい、お前はいったいなんなんだよ?ってそこに立って問われるわけだ。普通はそこには立たない、立つ必要もない、しかし立つことを決定的に僕は選んだ。それで世界が変わる可能性を知った、それに賭けた。僕はそのことをダンスだと思ったけど、なんでじゃあそこに立つんだよって思ってしまったりもした。する。まぁしょうがない、戦いでもあるから。話がよくすり替わっていくことに気付く。

君がそこに立てば世界を変えれるかもしれないのに、見当違いのことをやり出すのを見るのは悲しい。そんな個人的な慰めを持ち込むなよ、って。世界と向き合わなければならない。

2016年2月22日月曜日

席にすわって、

今日は赤煉瓦倉庫にダンスを見に行った。たまたま隣がじろさんでどうやら小さい子を抱っこしてて、隣にはショートカットのきれいな女性と思ったら育世さんだった。小さい子めっちゃかわいかったなぁ。向こうは覚えてるかわからないけどこのふた方には、僕が八年前に初めてダンス作品?を発表した際に、帰り道になんかこう頷いただけだったのかわからないけど、このままいけよ、みたいなことを言われた気がしてそれがほんとに嬉しかったの覚えている。だってその時は今よりも多くのことに対してもっとわかっていなかったし。そんなことを思い出した。勝手に感慨深かった。日本には芸術を測るための素晴らしい定規というのは存在しないかもしんないけど、こういった誰かいいなぁって思える人の言葉とか気持ちが支えてくれるバランスっていうのがしっかり存在してる、そこで実感をえることが出来る。

2016年2月20日土曜日

ふぅー

ふぅーってため息を言葉に出してみると、リズムとか音程が現れるのに気付く。最近、もう花粉が飛んでて鼻はむずむずするね。そしてすこしさみしい。

そんなことを書いてしまうなんて10年前はただテンションが上がるような燃料を含んだことばかりだったのに、そんな曖昧なものさえ扱うようになった大人。大人とは思わないけど年を少しは重ねたのか、それとも、だ。

誰かを強く欲するということを重ねて来た人はその分のさみしさも味わってきたのかもしれない。誰かを強く欲しなければ、失くすものもない。ただ、失くすものがなかったなぁと気付いた時に、襲われる感じもあったりして、なぜちゃんと失うべきものを失ってこなかったのか、と。


2016年2月19日金曜日

お年頃

全然ダンスコレクション終わったのにその事について書いてない。タイミングが合わないのだ。最近、昨年出した村上隆のニューヨークのアートシーンの本を読んでる。ニューヨークが全てではないけど、内容がここまで進んでるのか、と興奮する気持ち。そして向こうの人は、色んな仕事をやりながらまさにアートをしている。僕もそういうことがしたいんだけど。ずっと。そういえば。海外の人が来たときに日本でおもしろいものを紹介したり、海外に行って面白いものを紹介するようなことがしたい。カルチャーショックが行き交うような。今年はやってみたかった遊び方に手をつけて始め出したいな。まだまだだから色んなことに時間はかかるよ。もう少し目の前のものを愛でる余裕がほしい年頃なのか、な。難しそうだけど。

2016年2月16日火曜日

傑作

今日はSTスポットで手塚夏子さんの作品を観た。間違いなく劇場で観れるあたたかな傑作に出会った感じがした。照明の光や木の板やペンや描けるスクリーンに彼女自身。音楽のチョイスに。あとは体や頭や言葉や再生される音声、そして宇宙。すばらしかった。 観てる途中にこれは傑作を観てるという感じがあった。ソロダンスで時に出逢う。 しかし、なんと一方で信じられない自分に出会ってしまった。見ていても自分の活動や未来について周りの環境のことも含めてもちろん考えていて、傑作を観てもやっぱり救われない自分と今後が待っていることがわかってきつかった。今年は泣くことが多くなりそうだってどこかのタイミングで思ったのだった。この今の自分のレベルじゃ器が小さ過ぎてこぼれるどころじゃすまないかもしんないって思った。

2016年2月2日火曜日

あとちょいで終わっちゃう

いよいよ展示も終わっちゃう。展示ではあるけど、いろんな意味合いがやはり自分の制作の中で出てきてそれこそ映画じゃないけど、なんとかつぎはぎして自分の人生は映画なんだと苦闘していた頃を思い出させるような、もう一回沈みそうだった船を持ち上げるようなことをしてたみたいに。
この展示期間中に今年の予定さえ決めてしまうはずだったのに結構いっぱいいっぱいで間に合わないかもしんない。ダンスコレクションもあるし。相変わらず窮屈で油断すると泣きそうだ。まぁいいんだ、わざとそうなる可能性だって知って上でやったんじゃないか。
とかとか。

2016年1月28日木曜日

あまりにも毎日が早すぎる。なぜって気持ちが変わり続けてるからで、これをすべき時に必要な気持ちはもう他に行ってて、という風にタイミングが合ってやっと発動しその連続であるのだけど、思うようには進んでいかなくて。そしてたくさんものを開発した分、人の仕事は増えていく。iPhoneを持ったことで人の仕事はやっぱり増えてる、いわゆる仕事ではなくても人と人の関係の中で消化すべきコミュニケーションの量とかが。

個展が始まりもう中間地点で。考えと身体が追いつかなかったり、個展に向けて走った後で出てくるのは小さな火のかすみたいだったり。

新聞の中で、昭和は輝いていた、みたいなフレーズのテレビ番組の一覧にのってて、ずいぶんさっきそれに対して怒りが込みあげて来た。僕は最も新しい未来の希望を見ようと出掛けることにします。

2016年1月17日日曜日

映画の話

インサイドルーウィンデイビスという映画をご飯食べながらmacで観てた。コーエン兄弟の作品だ。売れないミュージシャンを描いた作品、で、作品中主人公はついに売れない、という絶望的なクライマックス。喰らう。きつい。

しかしロードムービーは、好きだ。ただ旅の途中を描くこと、そこには風景しかない、風景の中にいる自分しかない。退屈っちゃ退屈だ。しかし人生に他に何があるだろうか?何かありそうでつかんできたものたちは結局は何もなかったじゃないか、そうして風景しかないことに気付く。ただ何回も疑って、仕掛けて壊して何もなくてを繰り返す、それしかでも出来ないじゃないかと。

    映画は基本的に1人で観るものだけど、"特別な誰かと観たかったなぁこの映画"リストは果たせずに溜まっていくものだね。つまり後悔というか。達成できなかった夢。

2016年1月16日土曜日

ETERNAL NINJA

子供の頃の自分の話を聞くと驚くことがある。まるでへぇーそんな奴がいたんだ!っていう反応をするくらい。今の自分とかするような、いやでも全然違うような、そんなもんだからなんだか自分が2人いた(いる)みたいで、そいつに会いたくなる。しかし過去の自分に会えるわけはない。過去の自分に出会ってしまう映画ってあるよね、そんな夢を叶えてしまったやつか。 映画にしちゃう気持ちもうなずけるよ。もう会えないってのは、too muchなストレスってよりも、悲しいとか喪失感だよなぁ。

マイファッキンNINJA!ってくらいに左足の親指が痛い。ばい菌が入ったのかな?バイキンマンのおかげでずいぶん日本人はばい菌って言葉にちょっと可愛さも混じって覚えてるに違いないよ、無意識下でさ。
なぜFBは、文学感を詰め込める絶好の機会なのに、かっこよさはファッショナブルさは後回しでちゃんと皆プレゼンしたがるんだろう。いや、なぜ、なんて言うのは意地悪な言い方で、解決策を全然含んでない、と自己批判。

あと2日で搬入だ。
昨日の夜、改めてエターナルサンシャインが本当にワンダフルな映画だったのかどうか確認するためにDVDを借りて来た。ミシェルゴンドリーはやはり変わった映画監督のタイプだと思うし、皆が彼の作品を大好きなのも、ほんとにラッキーなことかもしれないと思う。ささやかなプレゼントのようにこっそりと素敵なことなのかもしんない。気付かれないうちに、置かれるプレゼントのように。


2016年1月8日金曜日

再びイエスマン

イエスマンはやっぱりいいバランスのポップな映画だなぁ。こう深入りするようなものじゃない、誰かと映画館行って美味しいコーラを飲むように、だけどその飲み方をちょっとおもろしおかしくやって飲んでなおさらいい時間、みたいな感じのやつです。ジムキャリーみたいにこうして大事な時にいつもファニーであれたらいいのになぁ、でも彼だってそれは編集された映画の中ばっかりかもしれない。でも元気もらうよー。

展示が近付いてて思い浮かべちゃうのは、昔から今にかけても一つ夢があって、NYのギャラリーでたとえば展示のオープニングパーティーですごいダンスをばんっ!て決めて、その会場をわーって盛り上げて驚かしちゃうこと。きっとこれは村上隆だって達成してないと思うんだ。w 夢として悪くないと思うんだよなぁー、

2016年1月5日火曜日

2016

2016年、年が明けましたね。
僕は年越し第二希望である、いやどこか第一希望であった、、それは必要から。の年越しランニングをしました。
家から江ノ島までのおよそ25kmを走るというもの。
今までに年越しでは3回くらい挑戦していて、一昨年は12km地点くらいでリタイアに終わっていましたが、今年はなんとかクリアしたくて、、でも正直歩いちゃったりもして3時間かかりました。
でもここまで走ってくるとイメージのその先にいきます。普段5kmくらいのランニングはするのですがそれは割とイメージの範囲内ですぐ終わります。身体の中の空気の入れ替えみたいな。しかし25kmだと結構それは劇的なものになってきます、きついから顔つきも変わってくるし。もし僕が活動に全然目がでなくてかろうじて就職した先でアイディアも枯渇したなら、これくらいの距離をよく走るような習慣をもって生きるのも希望かもしれないと思いました。結構きついですけど、アイディアとしてはシンプルで、でも発見や確認が多くあって。
しかしよく信号は赤でつかまりました。7.5割くらいかな、、、今年の運勢悪いかもしんないとか思いました。昨年はよすぎたかもしれない。これはもう完全な僕にとっての主観でしかないのだけど。

個展に向かって制作したり、沈黙したり、考えたりしてます。
展示はうまくいくかわからない。
この宇宙なんとかしたいな。シュタイナー。