2016年9月29日木曜日

宇多田ヒカルの新しいアルバムを買って聴いていたらスタバで泣いてしまった。ふいに襲われるようにして。と言ってもそんなしくしく音出してじゃないけど。泣いてしまう自分に対しても何かおそろしさももちろん感じた、宇多田ヒカル本人だってきっと自分のおそろさしさ、人のおそろしさにも気付いてしまっているんじゃないか。
そういえば大学1.2年とか3年くらいの時に、がんがんよし自分のやり方で生きていけるぞ、生きていこうって戦い始めた時に、たまに誰かと会ってお茶するっていう習慣も始めて、その時に話してる最中によく泣きそうになったのを思い出した。

実は依頼されての仕事は今年はほぼ結構全うして、これから作っていかないと、という最近の状態で、それで色んな余白がやっと生まれてさぁ改めて何をアクションしてこうってやりながら再考しています。
それと今、自分が大事にしようとしていること、とあって。
少しは、自分は宇宙の中にいる、って感じで、宇宙の可能性を使っちゃえばいいっていう感じです。
もっと、だよね。
そういうことと話したりしながら、います。
もっと宇宙にならなきゃね。

なんでこんな抽象的な話になっちゃうの?って未来がわからないから。
いや、未来をもっとわからなくしておきたいから。
僕はそれでも未来は素敵なものであってほしい。
たくましくなってさ、"いわゆる素敵"じゃなくたって、与えられた未来や世界に対して受け入れたり戦ったりそれでも素敵だって言える自分たちの状態や想像力の準備をしたい。
適当な悲観的なことを言う何も考えも思いもアクションもしない偉そうにするマザーファッカーなんか知らないよ、僕らが最強になればいい話みたいな。
なんでもいいから、そうやって宇宙的にある時はドラマチックに。またはロマンチックに。あるいは素朴に。
いいんだ、わからないままだって。それを前にしていつも踊り始めちゃうから。

2016年9月27日火曜日

ずーっとし、

こないだ南会津に行ってきた。楽しみだった星空は雨が降ってであえなかった。
その星さえ見れれば、その思い出を頼りにもうちょっと一年をすっきり過ごせるんじゃないかと思ったのだけど、見れなかったから少し薄くなってる昨年のイメージをまだ更新せずに頭の中で再生しよう。

昨日は映画館行った。
エルメスの。やっぱり入り口で飴玉もらって、最高だった。
飴玉で最高かよ、って思う?
最高な時はそれで最高なんだ。

でも、わかんないんだけど。

生きているから、ってそれを理由に少しよっかかろうとするのだけど、その根拠が弱いのか曖昧なのか、それとこれとは違うかもなのか、うまくよっかかれなくて。もやもや、過ごしてるのかもしんない。目標とは戦いながらも、そっちはうまくいかない。
まるで暗号のような、具体的なようで抽象的な文、書いちゃう。
今年の自分には今しか逢えないからね。今、逢ってこうと書くんだ。

なるべく今、気づいてるなら愛おしく生きたい、と夜のテンションに身を任せ書いておきたい。確かに、自分のこれって思うものを大事にしてしまえば、誰かや、いくらかの人やものさえ傷つけかねないのかもしんないっすが、それでも選んでしまいたい。
あれこれ。
生きることがわからないから、でもなんとかいつもずーっとしたかったから。




2016年9月21日水曜日

後悔、とかしたくない、

大体、深夜に公開日記なんかを書くと次の日に後悔したりする、公開なだけに。
じゃなくて。w
後悔かぁ。
後悔だらけですよね、いつも。こないだも駅の構内で小学生の頃の友人がたまたま同じ車両にいたのに目が合ったのにお互い気付いたのに、声はかけなかった。その後のただ疲れるだけの挨拶をしたくはなかったのかもしれない。FBでは友達なのに。より自分の目的ばかりをほぼ1日の中で生きてしまって、そのことにほとんどの集中や体力は持っていかれてしまって。
のくせして、絞り出した言葉をSNSに乗せたりして、行き違う気持ちとか、ある。
全部がうまーくは注がれなくて、悲しい。
でも描く。書く。
だからいつもうまくいかなくて、誰かを傷つけている。完璧にはいかない。
岡本太郎の言ってたことを普通に通過しているのかもしんない。
矛盾しながら激しくぶつかってる。
たまに心配になる、自分の顔が醜くなるんじゃないかと。
でも僕はその生き方を選んでしまった。この言い切りだって甘えみたいだ。
そこで後悔はしたくない、この大きい後悔はしたくない。
自分の選択を生きるんだ。
「知らねぇよ、そんなこと」って生きるんだ。
最後に死ぬ時に、今までの全部違ってたよ、ともし言われたらすごく泣くかもしれない。
そしたら悲しいけど、それも引き受ける。
だからどっちにしたって、だ。そのようにして、やっていきたいよな。

宇宙と宇宙をぶつけあっていきる。





2016年9月12日月曜日

ライト

あぁもっと世界と軽やかにやれたらいいのに、って寝るのを前にして身体が軽くなった際に1日を反省するように1年の歩みの重さを反省する時間がやってきた。時間ってより瞬間か。
365日って響きは口にすると結構、身軽でどこでも行けそうだし、どこまでも侵入できそうなのに、蓋を開けてみれば重く重く進んでいなかった、進めていなかったと1日の終わりに気付いて、明日はもうちょっとうまくやれるはずとか思っているんだ。
そしてトイレを後にする、水で流すみたいに。
もう少し明日からの365日は軽やかに生きれるだろうか、ってトライが始まるトライトライトライト!
トライがいつの間にかライト、軽くなっていく、

2016年9月8日木曜日

グレーな道路

こんばんわ、と夜の空間に向かって黄色い挨拶をする。
こんばんわ、の言葉の中に黄色い月が含まれている気がするを前提にした。
今年こそは華麗なるギャツビーの本を手に取りたい、映画があまりによかったから、なんだけど。いや、昨年に一冊読んだフィッツジェラルドが良くて、脳内ニューヨークもちょっとつながるところあるよな。
さてさて、次の展開どうしようかな、と考える。
人といても失礼なことにいつも自分の展開について考えてしまう。
だから中々人といるのも考えもので、どうしても失礼な瞬間を共有してしまうからなんだ。もっと僕がふわっと実はしていれば、さらっと交わしてさらっとその時は、っていう風にやれたらいいのに。
これは僕のせいっちゃ僕のせいだけど、時代のせいっちゃ時代のせいだ。。。訂正。
尊敬する人はこういうところを大体クリアしていておったまげる。そんな風に生きれてしまうのは、努力とかなんだ。世間で言うところの努力とは違うけど、間違いなくその戦い
みたいな。
そして世界はそんな風にしてたまにわからなくなる、多くの人が努力とはまだわかってないようなところで調整し、生き、天才をする人がいたりする。
たまに遭遇すると膝カックンされたような感じがする。

グレーの道路を走っていると、緑の木が見えた。


短編を今、挟んでみた。

何をいってるんだろう。
でもいくらか逃げたくて書く。
いつも誰からもわかられたくない気持ちも必要だ。(これこそ共感を呼んでしまうという皮肉)
なんてこった、そしたらそれ自体があの子みたいじゃないか。

歌の最後につけるbabyっていうのは、いつもすばらしい。


2016年9月6日火曜日

疲れや走り、個展のこと、ありがとう、など

あ、さっきよりはクタクタじゃないなぁ、とベットに倒れこみそう思う、この身体。
8月が終わって9月になった。個展が終わった。最初は大丈夫か不安だったし、初日始まった時でさえ不安だった。額装したりして公に売ったりするのは、何しろはじめてだったからわかってないところで何かが進むのがこわいしわからなかったのだ。
だけど、わからない中での喜びや反省があり、否応なくそれが新しい面に付き合わせた。
ので、これからの僕に期待したい。 し、そういう意味でこれからに出会うためになったのだ。周りの人のおかげです、ありがとうございました。そう、そう、みんなで世界を回していきましょう、、とか言いながらも誰かの政治性は勝ち、誰かの政治性は否応なく負けていくのかもしんないけど今までのように、、、だけどその拮抗やバランスなら変えたり調整していくことは可能かもしんない。

シンゴジラは見ないかもしんない。噂話でお腹いっぱいになってしまったし、僕を走らせるエンジンは他の映画に相変わらずあるかも。
シングストリートは好きな子が出来て、エンジンがかかって勇敢に創造していく青年を描く。でもその創造力が相手に届くどうかは、これは別の問題で。だって相手は相手の時間を人生を体験を生きているから。それは随分勝手なものだ、と気付かされる。
色んなことが遅かったのかもしれない。
そういう日記をよくそれこそ10年くらい前mixiとかで友達のとかで見た気がする。
しかし、自分には自分のスピードと想像力しかない。
そしてそれぞれのスピードを生きているのだから。やれることはそれでも走るくらいしかない。疲れるのか、走れるのかはまた自分の問題だ。

2016年9月2日金曜日

抽象的な段階

今週が終わるとちょっと切り抜けた感がある。あとちょいがんばりどころ。とこ言ってみたものの、なんというかそんな週間とか何ヶ月とかの単位でがんばるとかなんかスケール小さいよな、とも思うよな。だけど日本ではそんなタフじゃなさそうな感じを与えるニュアンスの中でも脱落していく人はあとをたたないわけだから、これはここ日本独自の単位であって、同じ言葉で翻訳したとしても海外でのそれとは違う意味を含んでいるだろう。
とかめんどくさいうまくいえがたいところから出発してしまった。

いずれにせよ、個展は今週いっぱいでおわり、3日のキラリふじみの発表会でパフォーマンスを作る作業もひと段落する、、うーん、いやぁ、するのか?すぐ始まるけど。
気持ち的に何日かは楽になる、かな。
お疲れ様でした、夏。ビーチサンダルもかき氷も海も忘れてしまった。
けど僕にはあの木場の公園をセミが散々になく景色が与えられたし、初夏に作った中々気に入った詩もある、夏は実はどこから齧ったってかじりようによっちゃあ美味しいのかもしんない。
何よりちょっと前進があったとすれば、僕が見たい光景というのが必ずしもみんなや誰かとの共有は出来ないかもしれないということと、それに対してそれはそれで受け止めることも大事だということを知ったことかな。これからそれを浸透させてくのかな、それで少しは成長するのかも、と。あ、違う違う、そんなこと前から知ってて、つまり学んだのは例えば何かを強く共有しなくとも、ということ。

今を大事に生きたいと思っている、この抽象的な段階を。
わからないなりに。