2023年11月28日火曜日

風を待つ

 東京に戻ってきた。帰ってくるとなぜ、ここにいるんだろうという気持ちになる。なぜ、あのまま韓国でなく台湾でなく秋田でなく名古屋でないのか。

またしても眠れない。最近の自分の成果はこの眠れないことを書くくらいしかないのでは、と思う。段々といくらか文脈を共有した周りの世界との距離が今は色々あってきつく感じられる。 鬱の人の声のパターンは数種類しかなく、その声に耳をすませるとただ体を持っていかれるというようことを坂口恭平が言っていた。元気な人の声というのは逆に無数にパターンがあるとかいう。なんていうことだろう。

今年は本に書かれたテキストこそが自分を最も興奮させる芸術の一つだったように感じられる。坂口恭平の話も面白かった。あれは昨年か今年か。それはテキストではなく今まさに喋られる言葉と音楽だった。言葉を放つための準備と実践があり、音楽は別にそれを聴くためでなくあなたがやってください。ということだったと思う。 基本的には自分も今は民衆の解放のような気がする、これは広太さんも言っていたエントロピーだっけかな?また新しいワード。一部の人の権利のための芸術、なぜ、となる。

イスラエルがパレスチナを進行し続けた歴史とダンスのことを関連して考えてしまう。スペースのこととか。中国が香港や台湾を内包してしまうのには賛成出来ないが中国の文化には圧倒的な関心がある。

しかし西洋のダンスを考えるとスペースの支配みたいなことを考えてしまうところはあるかもしれない。それで今結構、集団でスペースを占領するようなダンスにうんざりもしている。

肉体で埋まってしまうとか、ナルシズムの意識でスペースが埋まってしまうとか、じゃなくて風が吹いていてほしい。雰囲気は違うけど岸田劉生の描いた坂道の先に青空がある絵。そういう風に意味を読み込むのは絵画において二次的かもしれないけど、風があの坂道に抜けていくのだけずっと知っている、みたいなダンスのことかもしれない。ずっと言葉にできなかった違和感をさすならそれかもしれない。そこには風に吹かれている人がいるのかも。劇場には風が吹かないからそのことをずっと考えている。劇場に来る人は風を見たいなんか思ってない。人を待っているだろうけど。

2023年11月26日日曜日

いびき

 明日が本番でちゃんと睡眠だ、と思ってホテルの布団に入るもいびきが聞こえ嫌な予感。結局少しだけ眠りの入り口で彷徨うも引き戻される。 いびきで嫌なのはいびきをかいてる本人の状態はもちろん眠っているということを込みで想像されるのでなおさら行き場のない。でもそんなこと言うと世の中には不公平で行き場のない思いが無限に溢れているのとに行きつき、明日僕の本番に支障が出ようとそんなことは全然たかが知れている1つの事例に過ぎないし、とにかくそうであっても良く働くことこそが大事で、そんなくじを履くくらいいつもあるとか思えたらいいのか。それにしてもそれを割り切って眠れないことを引き受ける態度をころっと切り替えられないかと思い書くのを始めた。

初めて眠りのための音楽というクソプレイリストをかけてイヤホンで聞く。すると少しだけそのいびきと音楽が一緒に演奏されているような錯覚が、そのいびきはもちろん安いイヤホンを越えて聞こえてくる。でも少し集中して聞いていくと、へんな世界観が像としてみえてくる感じもする。たとえば、竹藪の向こうが少し明るい朝を待つような光でそこをどうやら竜が通り過ぎていく。竹藪の上を今度は竹を倒してそれを地面として歩くようなイメージ。

昔、ブログを書くなら文書を書くなら鼓舞するような何か焚きつけるとか、躁的なものを書くというアベレージを目指していたんだと思われる時期があった。その時はそれを書くような毎日を同時に切り開けるようなそういう制作の態度がたぶんあった。たぶんあれた。 しかし段々とそうじゃない日もたくさん出てきて、それでもその筆を許すような判断があってつまらないとるに足りない文章も書くようになっていった。これはなんか坂口さんで言うところの躁鬱の鬱の部分の文章かもしれない。 

でもなんというかなんでもどうでもくそいいんだ、みたいな領域を誰にも侵されずにありたい、ほとんどが読まれなくてもそれでも、自分と話すためにも書く、どうしようもなさ、を全く閉じない形で実は垂れ流れてる、みたいな形であればいいとか思って書いている場所。

クソプレイリストが行ったことのない砂浜へ連れて行ってくれている、コピペのようなカモメの鳴き声だろうか。いつなんだろうそこは。じゃあ僕だって適当に思い出のたとえば直島の砂浜の記憶をコピペする。

休みが必要だ。休みなのか、戦いなのかわからないけど、一回ゼロみたいなことが必要だ。耳も目も悪くなってしまった気がする。自分のことをよく知らなかったら。


2023年11月21日火曜日

明日の色

 昨日久しぶりに家族と集まってご飯を食べた。何年ぶりだろう。そういうことって親は嬉しい光景なんだろうか、とか思う。昔は親の側に立って物事を見る事は難しかったが今は少しはそっち側にも立てる感じもするけど、これだってみんながみんなそうなわけじゃないだろうな。

またしても眠れない。このベッドは熱を起こしやすくて、結構暑くなってしまってそれで頭が冴えてしまって眠れないというのもあるんだろう。

今度、昔の友達との同窓会的なのがあるかもしれない。半分行きたくて半分行きたくないというのは、よくある意見かもしれない。人生同士を比較されそうとか思ってしまう。そんなこと言ったらたぶんたくさんの人がそういうことにびくびくしながら生きづらくなってしまっているだろう。

うまくやるのは難しい。色々準備したつもりだったけど油断すると一瞬。全然うまくやれていない。自分なりにここはこうで、とか。あぁで。とか。結構ずっと考えてきたつもりだったけどすぐに寄っかかってしまってそれで別の場所にもやってきちゃって。

強い閉塞感だけど取り戻したいなぁ。たぶん楽しくなってくると大丈夫な気がする。

半分色んなことに意味がなさそうに思えてくる、でも半分は勘で意味があるとわかってそれをやれる感じ。もう少しなんとかしたい。

父親が南三陸にボランティアに行くことで老いた自分がまた変化出来るんだと思えたという話。こないだ亡くなったおじさんは兄弟でいわゆるわかり合えるような最後にはならなかったようだけど、その三陸の後にぽろっとお前は変われたんだな、俺は変わらなかった、と言われたらしい。 兄弟というのでも家族というのでも難しい。本当に全体でのバランスのこともあれば個人と個人のこともある。僕はどうして生きたいんだろう。結構良い年齢。

とか言っちゃうけどあと65年生きるならこれからだし、結構いい年齢とか言うことでその考えに寄与してしまって余計自分の首を絞めてしまう。

明日のことに関して言えば今の明日と5年前の明日、10年前の明日、15年前の明日で色が違う気がする。


2023年11月7日火曜日

強弱の風とか

 秋田ではあんなに眠れたのに、東京に帰ってきて寝つきが心底悪い。困った。 色々なことがうまく回っていない。点検が必要だ。 

外は雨が降っている。パラパラという音と時折強い風が吹いて強弱をつける。

コロナの前かコロナ1年目くらいの時の方が世の中や身の回りの広さを想像しようとしていて、いまはどんどん狭くなっていってる気がする。自分がなのか、周りがなのか、世間がなのか、社会や世界がなのか。わからないけど窮屈で悲しい。 自分が歳をとったせいなのだろうか。

同じ事を言ってるみたいで良くないな、


2023年11月1日水曜日

雨のよだれ

 ざーざーざー 窓の外 ばーばーばー 扉を閉めるがちゃん 私が数年前に見た時よりも印象は違って見える。 台風クラブを見ていた。 カメラの導線が素晴らしい。テキストだけに語らせること以外を映画に担わせている、映画の中で創作がある。

そんなことを言いたくて書いたんじゃない。

見えない夜 は 眠くならない

秋田の時はあんなにすんなり眠れたのに。くそぉ、ベットが良くないのか、東京だからなのか。 ここはどこなんだろう。

村上龍の20年前のインタビューはまだ元気で頭も活動も動いている。最近は大丈夫?心配。


体力が回復してきてるのでランニングをしてさらに確認していく。

空っぽだ。 もう少し空っぽにしないと何も積み上がっていかない。


ハロウィン 私は 赤い炎 みどりの炎は

くらい酒場に誘われて 夜に 見た事もない。 見当たらない ドアがたぶんあきっぱなしで 台風の風ややら木の枝やら雨なりが入って来てしまうよ 映像だから言ってもわからない こんなに日本語ばかり話す未来が来る 

みんなが うまい