2018年2月28日水曜日

考え過ぎて眠れない夜、

国立西洋美術館に思い立って行って来たのは、小さくならないため対策。小さな。
昔の絵、油ペインティングで描かれた絵を通して過去にフォーカスして眺めようとしていくそのことに、自分はとても魅力されまたドリーミン、夢みる気分に浸かるのだ。
過去や未来、あるいは誰も知らない世界に向かって何か交信するようなこと、考えら、でもいいかもしんない。そのことと頭や体が、集中を飛ばして繋がれる、線を引いて。そういう感覚はある時にはある。僕もそういうことを飛ばして秘密の交信を誰かも知らない、地球人かはわからない人にまで届くようにと思ってやっている。

モンゴル800の"あなたに"って本当にいい歌。
最近、合唱団によるポップスを聴いていてあなたにも入っている。
この曲はまだ当時高校生とかの彼らが作ったラブソングであり、世界との戦いの曲だ。
彼らにとっての世界がそのまんま描かれているから、大人になって聴くとこの曲で描かれているような世界を作ってしまうのも大人なことにかつて子供だったから泣けてしまうんだと思う。
大人の涙と子供の涙はまた違って、思わず流してしまった子供の涙は、どこへ行くんだろうか、

2018年2月16日金曜日

さてさて

ということで公演が終わって、作品についてはまたどこか別のとこに書くなりするとして橋本匠くんとの3部作がkentaro!!さんのとこから始まってここまで来てしまった。ここまでまさか来れるとは。こっからが大変なのだけど、口から出まかせのようにここまで来てしまった。言い方悪く言うなら。でも作ることには誠実だったし、色々大丈夫なんだけど。

最近はドラえもんの映画をお勧めしてもらって観ている。
んだけど、なんか夜が静まった中にドラえもんとのび太くんの部屋だけ光ってまだ何かしている夜があるということをTV越しに羨ましく観ていた小さい頃を、思い出す。
そんな風にして、そんな場所への憧れとかが実は育てられていて、それは実はずっと大人まで続いてるんじゃないかと思う。そう考えるならもっと、そんな場所を大人になってからも守ろうって人にも言っていれそうな気がするね、ドラえもん。

そうだからやっぱり子供の時にたくさんのことを受け取ってるんだよね、僕ら大人になってからはまた違う視点で受け取ることが多いから。でも安心して。それは子供を経由して大人になっているから。

さてさて。


2018年2月14日水曜日

初日

ということで初日を終えて明日で2日目。
amazon clubに誘われて行くとたくさんの舞台関係者が多くいて、hiとかheyとか少し挨拶したり一年ぶりの友達にあったり数ヶ月ぶりの友達に会ったり楽しい。
そうフェスティバルはそうじゃなくっちゃ。
少ないフェスティバルの自らの経験のフレッシュなところ思い出してもう一回みんなで作っていくと良いと思う。

最近見たイーグルジャンプって、知ってる?その映画を観てスキージャンプの飛んでる時の景色に思いを寄せた。結構その飛んでる時の景色は孤独そう。その瞬間は自分の体ばかり他の人と比して浮いているわけだから。
人を応援することの楽しさみたいなの。

小学生の時、ちょうど冬季オリンピックがあってクラスの友達とオリンピックごっこをしたのを思い出した。学校の階段にダンボール敷き詰めて、ジャンプもなんか工夫してやってたんだよ。あの時は非常に良くて、その良さは手で作ることと、こうしたらいいと頭を使って工夫することと、みんなで盛り上がる感じの三拍子揃ったあ素敵な時間だった。で、それは子供の頃の体験だけど自分自身の人生の中での立派な経験であるから、その経験を自分の中で下に見たりなんかすべきじゃないし、そこから引っ張り出して来れることもあるのが人生だ。

怒っても怒らせてもかまわないのは明日があるからだ。
忘れてしまうくせあるから、言える時にも言う。
今年は明日を大事にしたいね、

2018年2月3日土曜日

ライオンが何回も吠えているとしたら

いい映画とは、人生の中でなんでもやっぱり出来るって思わせてくれるやつなんじゃないかとこないだ観たライオンは今夜死ぬ、の最中に思っていたんだよね。
人生は一回しかない。 最近読んでいる保坂和志の未明の闘争の中で出て来るのは、何回生きても同じ人生を同じ瞬間を同じ場所で生きるを繰り返すみたいなカツーンとくるところがあったけど、果たしてそれは本当かどうかしらないけどじゃあなるべくその何回も生きる部分をなんとかしたいとか思うよりも早い感覚がそこにあっただけだ。
そんなことより早い感覚がそこにあるんだよね、いつも。ってこの感じがちょっと保坂さんっぽいけどw
ニブロールを観に行った。コーヒーっていう17年前のやつ。
とても今じゃないと思った、だから昔のことを思い出しながら見るという稀な時間だった。目の前の役者やダンサーの身体によって再現されてるのに当時そこに立っていたであろう人たちを、そしてその人たちが生きていた社会や世界のことを僕は考えていたんだよね。
そこで初めてその人たちのことを想う事が出来たとしたら、なんか不思議で。
じゃあ目の前に立っている人たちのことはたぶん想ったりなんかしないのかもしんない。
ただ彼らは、目の前に立って代表するんだと思う。
やっぱり目の前で人が話すことの延長を求めるんだよ、目の前で話してる人については想ったりなんかしない、考えはするけど、ってカフェとかで目の前の人に対して接するのとやっぱ同じかもしんない。
だから今目の前に映ってないから、想う事ができるんじゃないか。
そんな風に、想うってことについては考えた。

だから今日、会場に来てたあの人やこの人たちのことを日記に書いたりして、やはり何十年か後に想うのかもしんない。
だから、それだから今をもっと生きたいと思えるのかもしんない。
あと15.20年後に想えるかもしんない今を。
未来は現在に繋がってる、過去になることがあるから。

映画を観て人生をもっと近くに引き寄せたいという気持ちになったり好きだけど、自分の人生をもっとなんとかしたい。
100回生きるかもしれない可能性もあるし。
そんな風にして、たくさんが重なって今が起きているのか、
わからないんだけどさ、わからなくても思ったり、考えようとしたりさえすでに同時に起きているし踊ろうと走ろうとしようとすれば少し動くからまたさらに重なる瞬間ばかりを生きている。