2022年5月26日木曜日

眠るのかどうか

 飲み会!して昔の友達に会う喜び。そこに少し前からの友達もいる喜び。新しい人と話す楽しみ。3つ近いテーブルで交わされる営み。人が集まってできる事は少なくてもずっとそれも続けていける。

少し酔いの回った電車で帰る時間も楽しい。音楽を聴いて膝を叩いて周りの人の迷惑を気にしつつ、でも夜なんて誰も他人の振る舞いに気を配ったりをしない。ある行為をのぞいて。

夜布団をひく、前に外にゴミを出す涼しい時間が幸福だ。私には生活があると思わせてくれる。

夜改めて布団に入る。夜のワクワク、何かこの想像力はたぶん眠ってしまうとなくなってしまう。朝になると別のものになってしまう。別の何かに新しく出会う。しばしのお別れ。それだから眠りたくない。それだから眠りたい。


2022年5月22日日曜日

動ける

 困ったな、眠れない。 さっきも眠れなくてSNSに投稿してしまった。まるで何軒か飲みに深夜の道路ほっつき歩いてる夢みたいだ。薄暗がりで。

東京に戻ってきてからうまくタイミングをのせれないと眠れないやつがやってきた。赤ちゃんがひとりで眠りに入るのが難しいみたいに。うまくその時にその波にのって睡眠をすべきなんだけど、その波の時に見送ってしまうことが起きている。やれやれ、だ。

こないだ小さな小説コンクールを開いているんですよ、と言ってブックバーで応募作品の集められた冊子を手にとって読んでみた。ラジオに関するというのがテーマで、割とさっと流し読みした感じはどれも退屈な印象。ラジオは舞台美術としか登場していない、話のだしに使われるような、それこそ小説にするまでもなくラジオで話すような内容として向いているものだと思った。絵画でいうところの絵画教室の人のデッサン発表みたいな。まぁでもコンクールなわけで、ここは文学賞を決める場でもない。 ただそれがちゃんとつまらないという手応えがあったと知れた。まとまってそのような小説を読む機会がなかったんだ。

今日は雨が降っていてギャラリーなどをいくつか回った。そうしているとこうしてよく1人の時間を過ごしていたことを思い出してきた。途方もない時間。発表も待ってなければ何かを見る側に回るしかない時間がたくさんあった。作品を見て怒ったり、もっとこうならないのだろうか、とか。 今日は良作が並ぶ前で思わず声を漏らしながら体力を消耗しながら鼻息荒く展示を見て回った。 

そして今後のことやこれまでのことを少し新しい視点で考えれるような感覚があって、そこを起点にしてまた新たにゼロから考えたいと思った。周りとかを気にせずに。何もないところから。最初立った時、何もとっかかりがないところから架空の想像力を使って透明のとってを出現させてあたかもそれが掴めるかのようにして、握ることで初歩を踏み出すようなそういう感覚をもう一度。 もういい年で焦ってしまう。 しかし大丈夫だよ。 世界なんて。 ただあって、他にも人がいて互いに動けば影響を与え合うことが出来る。 以上。 だから。 大丈夫だよ。

そう聞こえてくるようだった。


死ななければ身体を動作を信じよう。




2022年5月9日月曜日

決まってぼんやり

 今夜も硬いベッド。布団が横に余ってるので使えばいいのだけどこの硬さを体感したい欲がまだ疲れに勝っていてそのまま。 舞台稽古ではリノリウムが敷かれて断然踊りやすく動きやすくなったのだけど木の反響、反応とは打って変わってすでに懐かしい。

木造の舞台と外に広がり坂になり昇っていく客席との目線身体の動きのやりとりを作っていくのが難しい。でもその難しさを感じていてもしそれが問題として正確なのであれば認識としてokですね、日々の向き合う時間を大事にしたい。

1日があっという間であだちさんの車に相乗りさせてもらいの送迎。今日は終わったら暗闇の畦道のある景色。星は思ったよりもたくさん見えるわけじゃない山の中。そこから宿舎の方へ向かっていく。

1人の時間を中々まだ作れていないから小豆島の風景と1人のタイミングでの記憶は十分に出来ていないけど、少したまに訪れるそういう時間。そういう時間が色んなことに接続する。

たとえばそれは昔の似たような時間。 あるいはどんなことを思うだろう。 海が一面に広がっていて大きい。こんな大きなものを都会にいては目に出来ない。広い大きい自然を前に出来る環境。出来ることは限られている。 ぼんやり思い浮かべてしまう。 ぼんやり思い浮かべてしまうということが訪れるだけだ。

それで良い、悪くない時間だ、たぶん、きっと。

ぼんやりとしたことを言ってしまう。でもそれはほとんど決まっていること。

2022年5月8日日曜日

ふむ島

 島に来て見る夢は少し変わっていて、以前使っていたあの場所が書き換えられていたり、過去に住んでいた場所の延長として何かが出現したり、しかも少し現実感があるような距離感で体験するので戸惑ったりする。今日もそんな夢を見るのか。 そんな夢を見ていると記憶を辿って確認したくなるのだけど、戻ったらやってみてもいいのかもしれない。

ほんの少しだけ1人で散歩する時間を作った。もう少しそういう時間が必要そう。集団にいながら、個人の時間も作ること。たとえば田舎とかにいたら自分の時間を作ることは難しいかもしれない。いつもみんなといたらみんなとの中での判断や仕草が生まれ、みんなの中でまたそれが常にジャッジされてそれだけが自分と思い込む。今、宮本常一の本を読みながらそういうことも考えてしまったり。ふむふむ、

2022年5月6日金曜日

記憶と巡るめくる

 たくさん食べて飲んで外で動いた分の疲れが蓄積。だけど舞台に少しずつ慣れてきた。明日はオフの日ということで島を少し巡るけどその前にやるべき仕事もやり終えてから行きたいな。 島に滞在していると以前訪れた場所のことも思い出す。奈良とか豊岡とか山口とか北海道とか。

今訪れた小豆島、そして今読んでいる宮本常一とかの内容と重ねてみると歴史と地域、地形、山、海沿い、街などの区別を考えれて面白い。

明日はもう少しさらにヒントをもらえるだろうか。

なぜ一つの滞在がまた一つの滞在を思い出させるのか。