2016年11月28日月曜日

最近のライブのことや、

もう今年を振り返っている。それで来年はどうしてやろう、と意気込んでいる。この作業に入る際にやっとその年への踏ん切りが出来、今年もう終わりかよ、みたいな気持ちが切り替わるのかもしれないってふと思った。だってつい最近まで、もう10月かよってツッコミがまず来てたけど今は今年の振り返りをし来年の用意やフライングを企もうとしているリアリティ。
12/24にパーティーを作ろうと動いていて、あと一月切った、これを走り切ったらほぼちゃんと最後の100m走れて良いんじゃないかと思うのでがんばる。

awesomecity clubのライブに行った。
すごく良かった、音楽もちゃんとノれるものを提供していて、そういうのしかもう今は信用しない、ぞ。いわゆるジャンルとしてでなく、ダンスミュージックとして提供されないものは信じれない、演奏家自身のためにあるようなものは。
ただ彼らはMCにおいてあまりにも真面目でプロデューサーっぽさがありすぎて、なんて不器用なんだと思った。生粋のプロデューサーのように、ちゃんとし過ぎていた。
誠実過ぎるのだけど、それはちょっと残酷にも見えた。
そう言えばプロジェクトとか意外で気になる人とかとのお茶とか最近、本当に出来ていないことに気付いた。もっと学生の頃は、軽やかだったかも、、重さは逆に大事だけど、と、ふと思った。来年は日差しが差し込んで少し軽やかになれれば、みたいな青写真を描く

2016年11月24日木曜日

80.

確かにいくらか昨年に比べたらやれてるとこもあるのだろうけど、ある部分ではやれていない、それでちょっとふぅって安心した。と思ったらその時だけで、時が過ぎるのが早すぎて何も通ることが出来てこなかった自分に焦ってしまう。
いつかの分を取り戻そうと詰め込もうとするけど、それでも随分取りこぼしがあって、切ない。
てっぺんに星さえあれば完成するクリスマスツリー、だけど、そこに星がなく周りの装飾ばかり頑張ってしまうようなツリー。
大丈夫かな、人生、わからないな、今はやれることがあるけど。
でも、いいんだ、わからなくて。誰もわからんよ。
ある面では自分は、まるで病気じみてるかもしんないと思うけど、それは自分だけじゃないだろう、じゃあ誰が正常なんだろう?ってたぶんそんなのないんだよ。
生きるしかない、

友達が言葉を書くことはドローイングと同じだからやらずにはいられないんだと言っていた。
また同じようなドローイングを書いている。書き捨てるようにして。
灰色のような、忘れられそうなものでかまわない。

今の目標は80歳まで爆裂して、変わってくファックな時代とやりとりしながらも爆裂して生きていくことだ。
昨日、スピーチを人前でする際にたくさんのお年寄り、先輩のデザイナーたちかな?いたんだ。それを見て少し不安になった、なぜならジョークを用意していたからウケるかどうか不安になった、話題は共有されないかも、と。でも宮崎駿が老人であったことを思い出した、彼にだったら通用するだろう、つまりアクティブに歳をとることに油断していない人であればアンテナをはってるだろうから、コミュニーケーションは良くも悪くも成立するだろうと。それで自信が取り戻せて、自分のやり方を通せた。
そう、僕も歳を取ってもコミュニケーションが出来るようにアンテナをはれる身体を強さをサバイブし、手に入れたいんだ。



2016年11月22日火曜日

11\22

自分でさえ泣きたくなってしまうのだから、相当数の人が泣きたくなってしまうんだろうなって思います。
今はSNSでさえ、割と言いたいことを言いながらもそれもOKとしつつも、公共性が強くなり、きっとそこで制限を設けているわけだから、そこにおさまらない気持ちたちは今はどのようにしてさまよっているんだろう、たぶんそのさまよってるやつらが、その泣きたくなる気持ちの正体の一部であるかもしんない。
ここではあんまうまいこと言おうとは思わない、幻滅されてかまわない。
わかる、のコミュニケーションの外かもしれない。

冬がやってくる。
学生の頃、冬が近付くといつも、海外に行きたくなった。学校にもどこにも自分の居場所がないように感じた。居場所というか、誰にもわかられたくない気持ちと誰かにわかられたい気持ちの葛藤が寒い季節で強くなった(変な動物)。

生きることはますますわからなくなっていきます、
2つの自分がいるみたいに、
でもこれだって書いていてどこか相対化された対象なのだ。

2016年11月18日金曜日

海と太陽と砂浜の曲

夢で逢えたらって曲があって、銀杏boyzの極で、とても美しい曲なんだけど。
曲が始まってbaby.baby.baby.ベイベー!って言って砂浜と太陽と海がキラキラと輝く、水着とかでのあの人を浮かべて、砂漠を越えた先にオアシスをバックに輝いてるあの人がいるみたいな、そんな風景が広がる絵みたいな曲で。
なんか映画のオープニングみたいなんだ、一気に広がって素敵な夢だけで構成されるキラキラした世界みたいな。

さっきYouTubeで2016年のライブの銀杏boyzによる夢で逢えたらはショックだった、かつてのメンバーはいなくてサポートメンバーが演奏をしている。
これはでも演奏を誰かにしてもらうような曲じゃなくて、、ってそんなコメントこそ悲しいんだけど。
銀杏boyzの4人の駆動によって立ち上がるアーキテクト、生きるアーキテクトとかそんな言葉さえ追いつかないくらい早かったんだよね。
青春の50m走みたいな。
校庭でのそれは出来事だったのかもしれない。
そこで走られた50mのラインは引かれたけども風化して消えかかってるその光景を思い出す的な。
あぁ、夢で逢えたらいいな、って。なんて素敵な、響きだろう。
涙で目の中に海が溜まるくらいだ。

グミチョコレートパインを映画化するなら絶対これが主題歌だっただろうな。
(すでにあるけどあれのことはないことと思っているw)

明日はにがウーロンのコントだ。笑いたい。




2016年11月3日木曜日

ラブソングとか

バイト中に有線で洋楽がかかるのだけど、突如エアロスミスのangelという曲がかかって、改めて雷に撃たれるような衝撃を受けた。嵐のような強い雨の中、歌う彼が立っていて、ライトの光を雨が乱反射し輝かせるようなシーン。ユーマイエンジェル、と歌っていて、君はつまり天使だ、って言ってるありきたり中のありきたりのラブソング。
これほどまでこってりのラブソングに、バイト中に羽交い締めにされるように説き伏せられてしまったんだった。
なんていう。
ラブソングという人類のポップな発明。
更新され続ける、または何度も繰り返し再生してしまうラブソング。
昨日、アンコールという映画を見ていてもおばあちゃんがtrue colorsを歌っておじいさんに、聴かせるシーンで思わず泣いてしまった。まぁそれは話もすばらしかったのだけど。
最近は改めてラブソングにやられている。
今日はギターの練習をしながら、クイーンのtoo much love kill youを聴いて、これもまたすごい普遍的にすばらしくて、それを発明した時ってどんな気分なんだろう。それはまた恋の達成とは別のところにあるものなのかもしれないけど、ラブソングは恋そのものではなく何の代わりとしてあるんだろう。イコールではないと思うのだけど、
ラブソングがそれにとって代わる際にいつも胸打たれてしまうのは何にどうして打ちひしがれてしまっているんだろう、それぞれ。そんなことをぼんやりとだけ残して、ラブソングにいつか辿り着きたいという素敵な夢を抱けそう。

2016年11月1日火曜日

お腹痛い

風邪をひいてしまった。お腹が痛い。何かいるんじゃないか。バイトを休ませてもらって病院へ行き最後処方箋をもらう際に話を聞きながら、気持ち悪くなって失礼ながらトイレに駆け込んでしまった、待ってる時間に結構きつくなってしまったのかもしれない。
ほとんどをベッドの上で過ごす。3時とかに起きて少しお腹に何かを通そうとした、少し新聞をパラパラしながら。風邪をひいてそんなイレギュラーな時間の使い方をする時、外側にいるような気がする。レースの外側にいるような。
今読んでいる小説が何か、めくるたびに自分の境遇を重ねて見てしまうような展開があってドライブがかって前のめりに少しなってしまう。物語を読むのは自分がひとりになっていくのがいい、なるべく最小単位で楽しめるような。自分の部屋を確保するような。秘密基地にいるような。

こないだバイト先で占いを出来る子と話していたら、最近見た何人かの人たちの悪い状況を見てしまった話から、自殺の話が出て来た。そこで彼女は、自殺はしちゃダメなんですよということを言っていて、しかもその主語が彼女というよりもその占いというか大きな見地から発されたような感じで妙に納得があった。自分を主語に置いて、どうにかクリアしたい問題として考えていたところだったので驚いた。
してしまうと色んなその周りを囲むルールとか宇宙が失われてしまう、また生まれ変わりとかに時間がかかってしまう、みたいなことを確か言っていて、それも抽象的だったけどなんかわかるような気がした。

しかし、それにも関わらず、そういった選択肢が出ざるをえないのが現実なのかもしんない。僕らの時代は随分その倫理観に無頓着になっている、政府含め。もし宗教がこれから日本でも強くなるならもしかしたらその部分は改善されるのかもしんない、改めて諭されるような形で。
どうしようもない部分とかを見せ合ってでもするなりして、寛容になっていかないとクリア出来ないのかもしんない、現在は。
また、なにかいつでも人生を身体みたいにほぐしたりの工夫をすることで変えていけれるならすばらしいのかもしんないよなぁ、絶望とかしないでさ、いや絶望も1つの極端として受け入れて、一方の希望という極端も受け入れて、またもっとディテールのある繊細なレベルも地味に受け入れて。