2020年10月11日日曜日

チョキ

 明日早いのに寝れない。

インスタを始めた当初はいよいよこれを始めるんだ、何を投稿しようかとワクワクしていた。新しい出会いがあるかも。刺激によって新鮮な感じを受けたりそんなことを思ってたのに、今は何か反応をビクビク気にしてしまって投稿しているなんてクソみたいだと思って気付き始めてる。

みんな勝手だなぁって思うことがあった。普段はそんなこと思う方じゃないがやはり自身が専門にしていることにはうるさい。文脈を踏まえてほしいと思ってしまう。馬鹿すぎると思ってしまう。専門性に関しては。なんのために自分がどういうことをしているのかを無視しているんだなぁ、と思えてきてしまう。

もっと全然嫌われても良いのかもしんない、という言葉が頭をよぎった。人生は大事なんだから。

クサヴィエドランの映画を見ると発見を持って帰る。どういうことだろう?映画の中で様々な形での愛のやりとりが描かれ、抽象度を高め、音楽とともにハイなところへ持ち上げられる時に、共感しそして憧れをいつも抱く、このような恋愛の天才とでも言うような瞬間を誰かと過ごすことについて、その才能のようなものがあるとすれば、何を手放したっていいみたいな。そういうのを観た後、雨が降ってても傘をさす気にはなれなくて雨を浴びながら歩いて帰るみたいな。そういう映画を用意してくるやつなんだ。彼は。そしてもうひと段階、自分ももっとピュアな自分と向き合った作品こそ作るべきなんじゃないかって気持ちになる。

展覧会の写真を見て、もちろん絵画好きなはずだけど最近一瞬頭をよぎるのは、本当にそのやり方しかないのだろうか、ということだ。絵を描くしかないのだろうか、なぜこれほど人がいるのにみんなやり方が似た方向になってしまうのか。生きている場所からのインプットとアウトプットの関係について検証しないのだろうか。圧倒的に破壊が足りない気がする。クリエーションしかしてないみたいな、ノーデストロイみたいな?

日記の中にいくつもの状態が入り込んでしまった。

東京の現状ではどうしてもリアリスティックな表現を僕は選んでしまいがちだ。この状況に抗わないと意味がない、みたいな。一方で本当は自分にこもって良いなと思うような幼児的というか、対象にのめり込んだ表現は後回しになってしまう。

悩んでも構わないけど、そんなことよりも人生ということだ。とチョキが出されていた。全部が僕より早い。w

2020年10月3日土曜日

アルマゲドン的な月を見上げれる場所

 昨晩、クタクタになってそこで寺尾紗穂さんの曲を聴いて何年か前のソケリッサと寺尾紗穂さんのライブでそこにいた誰もが子供みたいにオイオイ泣いていたあの時間を思い出したら泣けて来てしまった。そこからいくつか胸がいっぱいになってしまい泣いてしまった何か達を思い出していった。 何か誰かと一緒になって熱くなってお互いにいるんだ、ってことがわかる瞬間だとかがここだけじゃなく色んなところに普通に起きている安心がやっぱり作れないかって思った。みんなどことなく気を使っていて、みんなが頑張っているような状況だから何か伝えるのは傍に置いてってなってるんじゃないかって思えてきて。

それもあって今夜はストリートを行った。遅刻して15分くらいいつもより遅く始まったんだけど1人で到着するとなんか嬉しくて、通りゆく渋谷の人たちと接点が持てそうなことにすごくワクワクしていた。この感覚はいつもあるわけじゃない。人同士であることを喜ぶみたいな感じがあった。すぐに西山さんがやってきて、段々とダンスが始まっていったんだけど。

ストリートビールで猫道さんが歌ってくれた時に、これだ、人の歌よ、人に向けて、体の間に存在する事を少しづつ取り戻しておくれ、と思った。 


最後、アルマゲドンの曲を流すと背景の満月と雲隠れに気付いてみんなで興奮してしまったんだけど、この構図を作ったのもやっぱりこの集まりでこの体の流しで見れたことだからすごく最高だったなぁ。

先日、少し竹内さんのことを書いたけど、本当のことはどうもわかんないですよ。一瞬なのかもしんない、もうダメって思うのは。海外に行くことも難しくて少しづつ日本で出来ることは増えても、差し出された限界の中で生きることと今やってるやり方の間で突破口やそれでokを出せるとこがないなんてことは、全然あって。むずいですよね、変なことを結局みんなで作り出している最中ってこと?なのかもしんないし、そうじゃないかもしんないし。でもなんか訪れてくる瞬間がある人はあるから、、

ちょっとずつ歌い出したいな

2020年10月1日木曜日

タクシーの詩は良かった

 今夜は疲れている。東京に帰ってきてからまた1日の中で頭痛やちょっとの体勢のズレで疲れてしまったり、目の奥や頭が痛く集中出来なくなるやつ、錯覚で呼吸も不安になるやつ、がやってくる。こんながいつも続くなら結構東京にいるのダメかもしんないな。じゃあどこかに行くのはどうなの?どうなんだろう。そもそもモチベーションがないかもしんない。

時間的には今日は結構いいやりくりが出来た日だったと思う。うん。展示も見に行ったり、スタジオでも練習出来たし、絵も少しとりかかれたし、オンラインの方も少しだけやりとりをした。

すれ違いざまの友達にまるでエスカレーターみたいに通過していくね、遠くから言われた。その通りだった、あの次の電車に乗ることこそが優先事項で目指された先になっていた。久しぶりの再会だったのに。

原宿のスタジオからの帰り道、人気のない原宿から渋谷にかけては4、5月を思い出す。あの時はたくさん空間と時間があって、誰かに会いたくてよくあの曲を聴きながら歩いていた。昼なのに夜にふさわしいキラキラした曲を聴くのだった、戻ってきてほしい時間のことだった。

夜はAmazonプライムのドラマを観た。インド系の彼はスラムドックミリオネアに出ていた。恋人との出会いの一連の流れが素晴らしく興奮したのだけど、これは映画あるあるの恋が生まれるところっていうのはやっぱり一番なんていうか興奮して瑞々しくフレッシュな輝きを観客に与えるのは当たり前か、だって複雑になってギスギスを瑞々しく表現し観客に興奮し初恋のような気持ちを与えるなんてそれは無理な話だから。当たり前なのかもしんないけど、相変わらずやはりその一連の流れにすごく引き込まれているのだった。

誰の目も気にせずに新しいことに日々飛び込めたらどんなに素晴らしいだろう。

そういう気持ちがあるからなのか、いつも誰かと一緒にいるというのは出来ないのか、かと言って飛び込む勇気もないのか宙ぶらりんなのかもしんない。ともかく言葉を出してみる。

もっと仕事を自由に出来るはずなのに出来ない日本の社会はクソだと思った。仕事の手先こそがそれぞれの未来を作っていく芸術そのものなのに目的は別のことにとってかわられている。怖がりな社会がそうしている。

そのことを考えていると急に竹内さんのことも考えちゃった。いま会いにゆきますは、高校の時に何度か観にいった。女の子とも観に行った、その子のことを好きになろうとは結局しなかった。音楽が好きで何回か行った、不器用な主人公に自分を重ねようと観に行っていたのかもしれない。

その頃はよく竹内さんを見かけたけど、いい女優さんだなんて思ったことは一回もなかった。どこか不自然で、なぜ?って思っていた、なぜこの人に女優をやってもらおうとしているのかわからなかった。

仕事の話と繋げて考えるならば、仕事ということの面白さをあまりにも軽く見ている人たちで作り上げた社会みたいになっていると思う。綺麗だから女優さんにしちゃおう、とかやめた方がいい。様々なことは動詞的に選ばれるべきかもしれない、そしてその動詞にもう少し委ねよう、いいか?みんなで作っている最中なんだ、これは。全員で手を動かしているんだ、ということを確認したい。そこにこそ楽しさがあるじゃないか、楽しさを脇に置いておくなんて馬鹿げている。