2022年9月20日火曜日

インチキ少年

 うへぇ、やはり眠れない。おかしいな。少しずつ早く寝ることをしてみるのだけど。夜家に帰ってくる時はいつもへとへとなのに、いざ布団に入ると眠れない。出先では寝れていたのでこの布団が寝させないんだろうか。こないだ少しだけ地下で寝た時は寝れたのでもう一度試そうかな。

台風の予兆というか端っこの部分というか吹いていて街の金網とかにあたっている音が聞こえてくる。心地いい。

king of summerという映画を見た。15歳の友情を描いている。最後の後味は武映画みたいで結構その感性に驚いた。こういうの向こうの人も持ち合わせていたのかと。あの頃の友情。人生の中で最も美しいものの一つな気がしている。成長していくとすっと落としてしまい、そのまま透明な手みたいに二度とすくいとることが出来ない、水の中にあって水面の上からその透明を見ること、思い出すことしか出来ない細胞のように。

武の映画のいくつかは、その細胞についても描いている気がする。そこを生きていたんだよね、っていうこと。きっともちろん今やその作品を撮った武にとってだってもう二度と行くことの出来ない世界。だから小さい頃のことが大事なんだ。うっかりすると忘れそうだ、大人として生きている時間を大事にしてしまうけど子供であったことが大事なんじゃないだろうか。じゃあ何か壁にぶちあたったときにやはり本当は子供としてそれに接すればもしかしたらいい答えが出るかもしれない、いい答えが返ってくるかはわからないにせよ、率直ではいれるかもしれない。

踊りについて考える。誘われるような踊りとはなんだっけ?大学の頃のあの友人の踊りは良かったけど、もう踊ってないだろうな。彼がイタリアの道で一緒に歩きながら踊り続けているの一緒に歩いていて凄く恥ずかしかったな。このアジア人、変だなっていう顔して周りの人が見てきて。彼だって恥ずかしいのが顔に出ているのに、それでも踊らずにはいられないで踊っている人だった。不思議な人だった。不思議な人は段々といなくなっていくんだろうか。忘れられない。なぜ自分がまだここにいるかむしろ不思議だよ。ずっとインチキをしているみたい。

2022年9月17日土曜日

眠れない

 本当に困ったなぁ。眠れない。昨日も眠れなくて1日眠いで過ごして、でも電車の中とかは眠れるのに、夜布団のなかで眠ることが難しい。隣の家は今日はうるさい。たまにしかないのだからしょうがない、僕もギターとか弾くし歌うし、とぐっと堪える。

何か最近、色々うまくいかない気ばかりしている。明日も朝からワークショップなのに、これだ、を決め切れないで朝を迎える。難しいな。何か、生きることが難しい。弱音を吐くレベルがかなり低いかもしれない。けど、なんか最近は難しい。 新しい発見がそれなりに特別にあるのに、一方で。

コロナのせいかな?日本全体でそういう感じなのかな?若い女性の自殺率が増えたというのを耳にした。そんなことを軽率に並べるものではないのだけど。

誰かや何かや場所なんかを見つけて生きる希望にするのが難しい、と思う時間が長く存在してしまうとよくない。

楽しい時間を思い出そう、明確にあのとき、夜の街を歩いているだけで素晴らしかった時間。完璧だった時間。

理想とかは置いて、目の前の手触りの実感の変化だけを追うように見ていけばそこで遊んでいけばもしかしたら植物や虫の時間を見ているように実際的で面白くあるのかもしれない。

どうかな。

とにかく眠りたいよ


2022年9月15日木曜日

色彩

 私たちが描かれた太陽や空や森や土であったらいいのに。話さなくとも絵具が混じり合うように時に色が重なって少しずつ移行しているような関係でいれたり。違うバランスでいれたり。描かれたものの色彩のようであったらいいのに。色彩だけで関係が変わり続けるということであれたらいいのに。言葉を喋ろうがそのようでいれることもありうるのかもしれないね、でも言葉があるからそうはさせない。そのディティールの凸凹に悩まされる。うまくはまったり、はまったままうまくたゆとうたりしづらくて、諦めてしまいそう。色彩であったらいいのに。

2022年9月4日日曜日

身体を書き換える

 困った。昨日は早起きで睡眠も短く、1日を乗り切ったのになんと今夜眠れない。自律神経?というやつなんだろうか。 小さな子供が生まれた時の親はずいぶん睡眠がとれずに悩まされるというから、それとは全く比べものにならないだろうけど、やれやれだ。

最近、少しずつ舞台で試したいことが増えてきて、そうだ、と思ったのは、自分のやりたかったことや思考の立て方で。特に自分はダンスこそをなんとかしてやりたいとかそういうわけではなく、全選択肢があるうちに出来ればその中から何かを選びとってやりたかったはずで。それでまだ手をつけていない思考の組み立て方が起きたりするとその回路がその人の中で新たな、あるいはまた気付けるものとして身体の中で機能し出すようなことに興味があった。

意外にコロナになってからか、そういった回路を考えるのは全選択肢が選べる状態こそを作るか、それが難しければ(コロナだとこっちの方にどうしてもなっている状態であるのが常だろう)やっぱりその時の部品でなんとか別の伝達を考えるということを最初は試そうとしていたのに、もうそういうことはやめてしまう。

こうなれば新しい都市が作れないように、新しい身体も作れないのではないか。最近、舞台や何かを見る寂しさというのは身体が更新されないという感じが強くするからなのかもしれない。そうするとどうすればいいかというと、一つの見る作品に頼るのではなく自分の生活をかけて見ていることたちを編集し、そこに自分を組み替えてくれるような体験を逆用意することで自身を更新していくようなことだと思った。今はこっちの方が圧倒的にいいかもしれない。だから坂口恭平さんの本を読んだ時に面白かったとか、今買ってる複数の本を同時にたくさん読みたいということこそが身体を書き変えてくれるんじゃないか、という期待に辿り着く。僕は早くまだタイマーの終わり切ってないこの冷房の元眠りたい。

2022年9月3日土曜日

秋の涼しい海の

 すごい静かな涼しい風ー が窓際に顔を寄せるとあたってきて秋をとても感じて幸せ。 このことばをうまく言葉に残せた時にも幸せを感じる。何かを作る時の幸せ。 この幸せはでも誰かとの幸せというより1人での幸せかもしれない。 1人で作る、構築の幸せ、道具を転がしてる際に訪れる発見。 このことが大事なんじゃないかと薄々感じていたけど、そういうことを確か坂口さんも書いていたのでなかったっけ? 何かを作る中で展開される自分の考えや言葉だとかそういった形の変形を楽しむというのがもともと備わっているというか。

涼しいけど朝までこれ続くのかな?やっぱりエアコンをつけて寝そうだよ。明日はいろんなところにバタバタ移動する。 でも本当は今日思ったのは、色々人工的な作ったものを観に行ったけど今僕が思うのは考えているのは考えたい、きゅん!って思ったのはボケに近いようなこと。いや、というか海に行きたいと思った。あの実家から23km歩いたところにある海に。23km歩くということとかこそが僕が再び何度も通りたい道。忘れちゃいけないよ、ボケ担当じゃないか、と。こればっかりは私の持ち物。誰かとのじゃなくて。私の持ち物。

すると海の波の音がなんかこの秋の涼しさに混じって聞こえてきそう。