2021年7月31日土曜日

ねむれないにつかまるよる

 眠れない捕まってしまった。朝早い日に限ってうまく寝るための何かを少しでも怠るとつかまりやすくなってしまうみたいに。

今住んでる街はいつか形容するならこうだと考えているあてたい言い回しがあってそれは、小さい頃に全部の電気を消すのは怖いのでせめて豆電球をつけたままか、部屋のドアをあけたまま階段の電気がこぼれて入るようにしていたことがあって、その色のような、真っ暗にはしないで豆電球だけつけておくような夜を迎える街なんだ。それは都心の隣にあるということなのかもしれない。ここには昔から住んでいた人と思しき老人たちやその家族と最近になって新しく入ってきたような人が見受けられるように思う。駅前のスタバなんかでの人の行き来を見ていると。

日本はそういった地域のことに力を入れてきたのかというとそうでもないような気がする。というのは自分の身を振り返ってそう思うし、ハードルの高さを感じる。それは自分の責任としても感じるべきことのようにも思う。

夏に読み切りたい本が5冊もある。ここ数年読むスピードも読むのに充てる時間もめっきり減っているので自信ないけど、読みたい興奮には包まれている。

apafのリハーサルも始まった。だんだんと少しずつあたたまってはきている、けど昨年のようなモチベーションを果たしてどう作れるかなって心配があったけど今日の稽古は良かった。これは引き続き想像力にかかっている、どのようにしてそれが成し遂げられるか、をギリギリまで考えること。もしそれが出来るなら作品は出来る、、というかなんというか少しでもチームが良くなっていける、ということなんだと思う。そしてチームとは広い意味でだ。チームを広くとらえようとすることだ。

ウォーターボーイズのドラマを見ている。18年前に放送されていたんだね。 青春のきらめきとプールのきらめきが重なって目に映り込み涙が出てくる。彼らが口にする今しかない、ということや、やらなければ過ぎ去ってしまうことへの眼差しを見ていると自分の目にそれが移ってきてどうしたっていられなくなる。高校生の頃、もちろん現実を前にあんなロマンチックな横顔をその都度していたわけじゃなくてただ、目の前のことに出来ることを現実的に取り組んでいた。(と思う。実際はむさ苦しく勘違い野郎みたいだったかも)

その走っていたことにやっと気付いたのは卒業式の次の日の朝ごはんを食べていた時だったのを覚えている。今日はもう学校に行かないということに遅く起きてスパゲッティを食べている時に急に涙が出て来たのだった。

これからの学校や青春さえコロナなどをきっかけに変化していくかもしれない、きっと問題点も多くあるだろうし。そうすると今までのような時の追いかけ方とは変わっていくのかもしれない。そういえば昨年、その舞台が終わってチームみんなでやはり画面上で顔合わせた時だったか、それともメインチームだけの集まりの時だったか、似たような感情に包まれていたんだった。

現実とそういった感情との関係は全然まだわからないことばかりだ。けどもう一回ドラマを見返しながら、胸を熱くして今度はどういうことを考えれるか、人と生きようと出来るか、努力出来るかとか、なんかそういう気分が見ている最中は起きてくる。

33歳なんだけど、もっと複雑に考えよう。100歳まで生きるとしたらもっと複雑に考えていくべきだ。(そこから考えるとやはり高校や青春映画っていうのもあまりにも限定的過ぎる話でもあるな!汗)

描いてしまいがちなのが20〜30代と偏りがあるから(人口割合のせいももちろん今まではあったろう)、多くの人は老人までいる状態での国のあり方を考えれてないというのがあるかもな。


2021年7月25日日曜日

約束

 ずっと頭の中をレスターがほんのり流れていって。たまに自分でも練習っていってギターを片手に歌う。口ずさみもする。レスターをよく聞いていたのは大学生の頃だ。夕方に目覚めて大学に向かう時間と歌詞の中の夕方4時が近い時間を示すために、引力のようなもので引き合った結果だろうか。

彼にとってのレスターのような曲を作ることが出来ないか、そう考えている。何かが待っているような気がして、それでそのことが作れるんだという気分を作っている。

色んなことに待ってもらっているような感じがある。待っているそこに向けて様々な準備に時間がかかっているという感じ。

歌が待っているみたいな感覚。

淡い約束をどこかで交わしたような感覚。生きているうちにそのしたかも定かじゃないような約束、確か待っていてくれてるはずというようなものに向かって進む時間や気持ちを忘れないように。

2021年7月16日金曜日

目を閉じる

 この夜の間に起きたいくつかのこと。それはコロナに関する最近、僕が結構見ている大木チャンネルから飛んであるコロナ患者を積極的に見ている開業医の記事。なぜ開業医たちにコロナ患者を見るような事を医師会が促してくれないのか、ということ。朝生でクリアな発言をよくしていた大木さんが気になって見ると、自身でYouTubeチャンネルを作ってコロナに関しての番組をいくつも作って説明してくれている。(あべさん支持者なのだけが気がかりだが、、まぁそれよりもともかく今は情報が必要だ)その大木さんがシェアしてた記事から飛んで読んだ。 結局、緊急事態宣言というのはなんのために出されているのか、これだけを見ているところ医療逼迫というかそもそも医療体制をずっと用意出来ていないのだからということになってしまう。そんなことは実はあんまりSNSでも言われていない、僕のタイムラインだと東さんとか三浦さんとかは言ってるかな、、?

さてさて、この家には窓が少ないから夜ゴミを捨てる時に道路を挟んで隣の家の庭には迫り出すようにいくつかの種類の緑が植えられていて、これを風呂上がりの体で風が涼しく吹く中で一瞬だけ目に入れることがとても気持ち良く感じられる。

そして振付家からのおすすめで瞳を閉じてについての映像が送られてくる。素晴らしい映像で、懐かしい。生きたこともない時代を懐かしいと感じる、戻って一緒にその景色をその心で感じたいと思ってしまう。過去に対してそのように思うことについて、保坂さんの小説を読むようになってから強く感じるようになった。そのようにして僕らは過去とともに現在を生きている。だからこの気持ちも大事にしていいのかもしれない。今起きている事もそのうちそうして過去になる。

こないだ展示が終わりました。たくさんの人に来てもらえてありがたかったです。今回は思いがけない懐かしい人とかがとにかく来てくれた。アートがどう、とかではなく。色んな友人たちが来てくれて喋ったりすることが出来た。コロナというのもきっと大きかった気がする。今日電車の中で振り返ると、たとえば誰かと話をする時って約束を取り付けて会うというのが今ほとんどだけど。そうじゃなくて、展示で待っていると色んな人が会いにとか、いっちょいってやるかと来てくれたことは相当にこの時期に対して恵まれていたこと、救われたことだった。

と言いつつ、やはり説明をたくさんするうちにくたびれてもしまったけど。色んな人に会えたことが大きかった。


2021年7月7日水曜日

人生で1番嬉しかったことは何かと思い出して人に話すときによくあげているのは中学1年生の頃に野球部でぎりぎり20番のゼッケンをもらってベンチ入りが決まった瞬間の時と答える。その時の景色を鮮明に覚えている、気がする。

その後、中学2年の途中で野球部はやめてしまった。中学2年生くらいから映画を観たり音楽を意識的に聴くようになって(歌詞とか読んだり)すると段々何か周りとの調整の中で価値観が決まるのでなく、自分がどう考え言葉にしたり作るのかということに意識も努力も向かっていくようになってしまった。

野球部のゼッケンが嬉しかった時は、主語は自分にありそうでなくて、みんなが自分だったように思う。

そのあと自分で作るようになっていくと、どこか引いて見ている自分が出て来て実際問題何かをクリアすると同時に別の何かが起きていない状態というのがなくなってエンドレスで終わりのない状態に入ってしまってそれが続いているように思う。

だからこそあの時のゼッケンをもらった時のことが対比的にずっと鮮明にある。


今日、映像作品を見ていたら感動してしまって、今一緒に生きているということが嬉しくなってしまった。そう思う日が来るとは出会った時は思ってもいないことだ。

10年くらい前を思い出してみると、やっぱりそういう瞬間があったようにこの感動に連鎖して思い出すことが出来た。


今は何も知らないなぁって思う。

今について今、何も知らないなぁって。


お年寄りや子供に会うことも関係してきているかもしれない。

、、、

とここまではfacebookにも書いていたんだけど、最近salyuのnameばかり聴いている。salyuの歌声は好きだけど、実は存分に彼女の歌声をポピュラーソングとして多くの人が集まれる場所のように作られることはついぞなかったように思う。他のトイズファクトリーの歌手などに比して。 そういう中からそれでもsalyuの良さとポピュラー具合が高いところで出来ている曲としてnameを聴くのだ。聴いていると泣きそうになる、この時心の中では頭の中では自分は強く踊っている、そのことと歌い方が重なって出したい感情が溢れて泣きそうになる。 最近は泣きそうになってばかりだ。さみしいんだろうか、とかも考える。素敵な女の子とデートすればさみしさは消えるだろうかとかスーパーで買い物しながら考えていた。それともやっぱしコロナの自粛だろうか。 でもたとえば泣くと昔泣いた時と同じように体が涙を流す工程をえていることがわかるね、鼻をぐすんとする時の鼻の通りとか。泣いている時、そしてこの泣き方だからっていうのもあると思うのだけど、自分の涙だけじゃないような気がする。主語が僕だけじゃない、泣いているいくらかの人たちの涙の一部みたいな感じ。たぶん同じように泣いている人がいくらかいるのをわかっているみたいにして泣く。ライブ見たりして泣く時もきっとそう。個人の涙だけじゃない。その時、その人は1人じゃなくみんな?というよりあるグループになる。こういう動詞みたいのが度々あるような気がする。動詞が全て個人にかかるのでなく、グループなどにかかってくるということがあるような気がする、度々。

おやすみなさい

2021年7月6日火曜日

最近

 左足の親指が痛い。捻挫系の上に曲げたくない系の痛み。そもそもこれは左足の側面をぶつけてしまった怪我を4月にしていてそれでも動いていたことがたぶん原因でかばおうと負担がかかってしまって痛くなってきているんだと思う。この怪我の連鎖ってそういえば昔から。中高生くらいからずっとだ。何かを怪我したまま続けると別の場所を怪我するというやつ。本番までは待ってほしいと毎日思いながら過ごす緊張感は生まれている。

引っ越してからめっきりランニングが減ったけど今日はSNSをきっと眺めすぎて気持ち悪くなってきて散歩にでも出た方がいいと夜思って、それでランニングをすることにした。怪我してた指も靴履いて走るのはそんなに苦じゃない。けど結果的に寝る前に少し痛いし疲れている。まぁ様子見で今週もう一回走りたい。

こないだは展示に姉が来てくれた。直接は誘ってないのに来てくれて、久しぶりに話すのは少しどきどきしたけど段々話すと感覚が戻り、兄妹がいるということを思い出した。思い出したって変だしもちろん姉のことを思い浮かべてる時間も生活の中にちゃんとあるけど、こうして実際的な話をすることが良かった。

最近は当たり前のことにやたら嬉しくなる。人と人がその瞬間を出会いながら踊っているさまとか、両親もまぁ元気そうなこととか。先日、選挙するので実家に寄って両親にちょっとマッサージをした。昨年からちょくちょくしているのだけど、それは自分にとっても確認作業みたいなことだし、他の人にもそのことを知ってほしいから自分でも実践しているところがあるなぁ。親にボケてほしくないように、世間のおじいさんおばあさんにもボケてほしくないし、人と人とが関わり合う交わり合うことを通して刺激的に切磋琢磨してほしい、パフォーマンスが高い状態でありたいと思ってしまうのだ。

あと少しで展示が終わってしまう。出来れば展示がまた次に出来ることとかが決まるといいのになぁ。もうひと頑張り。

2021年7月1日木曜日

目の前

 今日はバイト先の送別会。学生の1人が企画してくれた。ありがたいなと思った。久しぶりに歌舞伎町の居酒屋で沢山の人で埋まる空間に入った。最初、遅れてくるメンバーはみんなおそるおそるマスクを外してお酒を手に取る、そんな感じ。

バイト先には色んな人がいる。そのバイト先を目掛けてさまざまなバックグラウンドを持つ人が集まるから当然なのだけど。逆に言えばアートやダンスに取り組む普段の友人達だってもっと個人的な話を辿れば別々の個人であることがわかるかもしれない。

でもとにかくその居酒屋の時間こそが、そのままそれぞれの違いを飛び越えようとする言葉や、現状のままにしておこうとか、様々な瞬発的な判断や逡巡を得たものにきっと溢れていることが嬉しかった。輝いていた。こういうところが懐かしいと思った、中学や高校、大学の時を思い出した。


楽しくて帰り道、1人になって適当に写真撮ったりして歩いた。

電車に乗ってSNSを開くと同世代のアーティストの訃報を知った。

生きているうち、いつのまにか気付くと誰かが引き抜かれてしまっていると思った。1人ずつそうして引き抜かれてしまうみたいに。

小さい頃、明日の学校が全てだと思っていたことを思い出す。だから友達と喧嘩別れすると明日が怖くて仕方なかった。もう会いたくないのに会わないといけなくて、その会う時はお互いのパフォーマンスにすべてかかっていて、仲直りしちゃったりする。結局ほとんど大人になっても問題は変わっていないような気がする。明日があって、そこでどう出来るか。

そう考えると友達ニアイコール明日、みたいな。そんなことを考えた。気付くと誰かが引き抜かれてしまってかなしい。

泣かなくてもいいのかもしれない。生きていることや目の前に誰かがいるということとか。部屋で1人でも外に出て誰かがいるということ。

最近、稽古場に子供が来ていて結構生まれたてまもない。お母さんとのやりとりに、たぶん本能的に子供が常に強くお母さんを求めている姿があって。

改めて考えることがある。季節が毎年あることが嬉しくて、そのことと改めてというか何度も何かを思い直すようなことを逆に生きている中でずっとやろうとしたりしてもいい。