母の入院があってから人にリハビリをすすめる立場としては自分でも言われたことをしないと公平じゃないと腎臓の本をついに読み始めた。もちろんつまらないわけがない、時間を作っていなかっただけだ。この時間が出発になって食事のことや身体の別の部分にまで伸びていくといいな。身体のことを勉強したいのは、自分の身体への理解もあるが、それよりはやはりその高齢の親なり他の高齢の方なりに身体で対応してみたいというのがあるからだ、今は感覚的な部分も多く、それだと信用にかけるとも思うのだ。
変な話だが以前、銀杏boyzのライブというのはきっとライブハウスの中でのエネルギーを交換し合うような、そういうパンクに強い関心があった。生命にも向かうようなエネルギー。それは舞台でもそうだ。
しかし時が経って今僕が考えてしまうのはダンスにせよ歌とか音とかにせよ、人に向けて投げかけれることでそうすると投げかけられた方は何かしらを感じとらざるをえない、ということで、ケンカにも言えるが吹っ掛けるとイラっとするにせよエネルギーの交換がある、逆に言うとそこで初めて自分のエネルギーに気付いたり、いい関係ではないにせよ、エネルギーが持ち直すみたいなことがある気がしていて、この可能性に掛けたいという気持ちが強くなっている。
だから1人になっている人とかに何か投げかけるようなことを、どうしたらエネルギーのある人がしていけるか、そしてまた活発に人間同士がコミュニケーションを交わし合えるか、これは昔見ていた青春映画と一緒だね、と半分ジョークで言うと新潟でパクくんが本当にそうだ、と強く言われて僕はむしろ慌ててしまった。腹がまだくくれていなかったんだと思う。
新潟から入るこの旅のおともに俳句の句集の他に腎臓の本や読みきってなかった猪瀬さんの戦争の本、そしてプレーンソングと谷川さんの十八歳。日本語のヒントを探して連れてきた。新潟から秋田に向かう、にかほにピッタリの本だったと思う。1950年と書かれたページと僕の小さい頃の90年代の新潟の日本海の景色は少しその間を狭めるように思う。なぜだろう、東京よりは田舎の方が過去に近付く。ひょっとして異世界をすでに感じ始める。そういう感覚があるのかもしれないよ、同じ時代を生きてそうで場所によっては時間の感覚などが違うというラインが走っている可能性さえ。そのことはどう書くのがいいかわからないことだから、きっと感覚的にある人にはあるとかそういうレベルで、、、それは書いてみて思ったことだ。書くというのはすごいなぁ、どこに行くんだ。
こないだ寝れない時に、なぜ普段のイライラした人の悪口を回復のために口走りながら、その横ではそれがうるさくて眠れない人がいることを想像するのをやめてしまう。だから、あんまりひどく長かったら言いにいこうと思いつつ、それでもすでに我慢できなくて布団の上からヒーヒー言っていたのは聞こえていたのかわからないけど。相手が大丈夫と思い、悪口を続ける。案の定、そのいなくなった後も結局僕は眠れないわけなんだけども。なるべく人の悪口は聞きたくないとしたら松井選手は本当に本当にすごい。
最近は何をみてもほとんどいい名前やタイトルを日本語で見つけない、と思うことのが多い。時代もあるんだろうか。英語の世界はどうだろう?とか思いながら。それでもこの言語の歴史が最近はめちゃ尊いので、一周回ってそう見えるだけで信じて付けよう、という気持ちでもある。
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