今はルーアンのビジネスホテルに泊まっている。昨日は悲しい思いとともに寝ると、そこで見た夢はなせわかおそらく歌舞伎町でイベントかお店にあのちゃんとあの粗品さん?お笑い芸人の人がいて、昔、結婚パーティーの前座で一緒だったじゃんという話を互いにして、それで段々と泣けてきて目から涙があふれる話だった。少し起きても泣いてはいなかったけど。何かが入れ替わり重なったんだろう。
絶対に死んではいけない人が死んでしまった、と思った。
色んな人が悲しんでいるのがわかる。
どうもaokidです。東京を中心に活動していますが、夢は大きくもっと色んなところで活動活躍出来たらと日々もんもんとしています。 活動はaokidとしておどったり、絵を描いたり、aokid cityという架空の街を作るというプロジェクトを持っていたり、ゲリラパフォーマンスなんかをしたりしています。
明日というか今日から再びフランス。あと1時間で起きる時間。案の定眠れないけど、とにかく目をつぶるのが良い気がしている。出発準備がどんどん苦手になる、準備は進まないのにずっと準備の緊張に縛られている。少しだけ部屋の片付けをして、帰ってきてからが最悪の状態じゃないようにしようとしている。それにしても片付けが駄目すぎるし、最近は寝る前にいつもエアコンのリモコンを探したりしている。
正直、めちゃくちゃ疲れている、何に疲れているんだろう。30代と歳をとると楽になっていくという話も聞くが、自分の場合は今の方が前よりも大変な気もする。スムーズに行ってるところと、全くダメなところがパラレルワールドっぽく、でも全く互いに隠れていて、そもそも存在だって把握しているとは言いづらいところで暗躍している。
眠れない夜と昔の眠れない夜行バスの夜がじんわりと繋がっていくことで、ようやくナイトクルージングが流れていたことを思い出した。言葉も本当に絵みたいに、誰かにスムーズに伝達するためだけにはきっと存在していない。じゃあ全く私たちは言葉なんかを使って一体何のやりとりをしているというのだろう、さみしいとかかなしいとかうれしいとか怒っているとかいうのにさ、そのしもべでさえ言葉がそうじゃないのだから。
おやすみ
さぁ、今日も眠れない。明日の朝早い。ずいぶん疲れていて、今日も身体が動かないみたいな感じからなんとか出発してイベントも無事終えれたのだが。一週間がこんな風に過ごせたらなぁと思うような理想の起伏を持った形に全くならない。ギリギリの山登りを山下りがいきなり平坦な道から始まったりしているように感じられる。どうみたってスケジュール表の上ではそんなにハードじゃないのに、体や気持ちが年老いてしまったのか以前よりも。それにしても大変だ。
そんなことわかってるのだけど、そんなことは嘘かもしれないとも思ったりしながら、色んな人が自分に正直で自分に嘘をついて、それでもやっていってる、すすんでいる。
今日はでもピクニックをしながら保坂さんの小説みたいだ、と思った。色んなことをしていくのは色んな人に会う為なんだろうか、と久しぶりに思った。同じ人に会うにしても何回会う度に変わるし、毎回違う。あるいは誰かこの人って人に会いたい、という気持ちもあるのだろう。そんなことは中々ないのだけど、それでもとにかく人にまた会うと何か違うものに出会うことになるのがやっぱりなんかある。それはある。それしかないのか。1人の時間も最高だけど。向こうに人がいる、ということ。
ということであれば、疲れているが明日は誰かに会うわけだ。
誰も知らない日本語を書こうと挑戦したら?
百日が北、攻め合い時があり次第の度重なって果てた鮫に鯨の漁の具合によって明日の野球の試合に臨む選手達の心意気も海や山へと向かうことと想像し、酒の進む夜に読む本を閉じ開き何度もする落ち着かなさ。
冷房の音がすっすっすーっといって冷気が流れ込んでくる。昨年はどうだっだけかな?今年になって寝る導入くらいの時間は冷房をつけることにした。
それにしても時間の使い方が下手だ、となって落ち込むのが夕方前らへんにやってくることの毎日。なぜ、あのような毎日であれば、という毎日から遠ざかってしまうのか。
気持ちを待って小さな行動をすることの方が多く、その気持ちがあと数時間後に起こるのではないか、という気でいるがそれは結局起こらずにやれないことが積み重なっていく。
最近、実家に帰った時にリハビリにと、ピアノギター太鼓編成で音楽を奏でた。なるべく続けたい。
本来であれば(本来だなんてことがそもそもないんだけど)、愛を向けるべき対象が何かもっと外に向かうような時期と言われそうだけど、家族にも今になって向いているようだ。それはもう年齢とかもあるんだと思うけど、そのエネルギーみたいのがある。生きることでもギリギリなのだけど、なんとか。
もし自分に家族がいれば、今しているみたいな時間の過ごし方はきっと難しいにせよ、今自分の状況をそれぞれが生きるしかない。そしてそれをどうしても互いに比べてしまったり。いつまでたっても互いに子供である。
ジュラシックパークを観に行った。人と観るジュラシックパークは楽しく、よく笑いを堪えた。きっと1人で見ていたらもっとこういう映画は感傷的になってしまう。でも、なんかその感傷的な気持ちを再び受け入れようという気持ちが込み上げてきているのが最近だ。変な話だが、どうしたってそこから自分が出発してやってきたようなことを思い出してきている。自分がいる場所というのはどうしたって、そこだっていうところがあったんじゃないか、という気持ち。
今回のジュラシックパークはホラー映画のように観客を演出で面白がらせる。でもそれも何か昔へのオマージュなんだという見せ方がある。以前よりもキャストに魅力がないとか感じるにせよ、それでも少しずついいところを見つけていく。スカーレットヨハンソンの顔を見ながら東京の映画を思い出していた。随分時間が経った、映画の中にいる時間。
僕は随分このアメリカ映画に色んなものを見せられたんだ。そして彼らは、誰も思いもよらないアイディアをまさに映画にしていったんだと思った。まさか恐竜の映画を通して、子どもたちが寝る時にどんな夢を見たのか、ということを想像した。誰も見たことのない夢をまだ出来るかもしれない、ということについて考えなきゃと思った。そこに誰もいないかも知れない、ということが怖くてなのか、ずっと出来ない。見えていることをするのが自分の仕事だろうか。そういうことをまた少し思った。