2024年5月9日木曜日

小4

 moon riverではない曲がエンディングで流れていたのにギターが爪弾かれるのを聴いて"その部屋"を知っているとなった。クラシックギターの音階がわかるから、それは慣れ親しんだ部屋の間取りを曲によって球が気まぐれに行き交うだけの違い、だけどそこでたくさんの時間を過ごしかのように安心する。きっと昔に演奏された曲を今聴いているのに、懐かしくて知っている。

ソフィアコッポラの作品はいつも少しさみしいままに終わるのを思い出した。somewhereが見たい。

電車の中で向かいの席の人に顔を見られたくないと伏せて自分の手元への集中力をたぐり寄せようとする。印象としては女性の方が車内でそういう身振りをする気がする。自分が集中したり、心ここにあらずならそういう気がわかるな。

前に住んでいた家の引越しの準備をする。倉庫のように作品とか資料とか無駄なものまで置いてしまってる。たくさんの時間を過ごした。

高校入学したてのクラスみんなが自分を紹介していくページを見る。家族について書く欄がある、書き方はバラバラだけど、そうか、当時そんなことを思いとどめもしなかったかもしれない。文化祭の資料が捨てられない。もしかしたら青春映画を取るかもだからとっとこうなんて引き延ばして。

そういう無邪気な夢はサボってるうちにずいぶん遠のいて見えるようになってしまって、そういうことが毎朝何よりも早く自分に突き刺さってきつい。

ひゃひゃひゃ

小学四年生のころに班の交換日記がひどくて驚いてしまった。こんなにも言語から遠い人だったんだ。そこから中1になって千と千尋をよく1人で観に行くようになったんだから。子供は尊いなぁ。最近よく会うたびに眩しい、というか面白い、ぐにゃぐにゃしていて形が変形し続けている状態そのものみたいで。私は錆びてしまったみたいだ。サックスのいい感じのメロディーが90s風に流れてきて、それが油だったらいいのに。またそれが私を滑らかにしてくれたらいいのに。

帰る際、家のドアがさみしい。さみしい、をまたこれから増やせるように生きれたらな。ずっといつも抱きすぎて泣いているみたいな。そういえばそんな友達がいたような。

中高の卒業式間近、よく壊れかけのradioを歌っていた。登戸のあのカラオケ。高校の制服を着て、私服で一生懸命そこで歌えば、それはカラオケを越えて何か自分の身体になる、と強く思っていた。色んな場所ごとが自分のライブだった。

向こうを眺める、見つめる、目の半分は水に浸かってる目をして、川に船が浮かんでいる、月が浮かんでいる、その目でどこまでも遠くだったり近くだったりをすっと見つける。見つける、こと。私はそれを見ることができる。私はそれを見つけることができる。

笑われてもいい。

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