2024年5月22日水曜日

ことば、

 本当に寝るのが下手になってしまった。上の階のくそ重低音がかすかに聞こえるのも耳障りだったけど、ここ数日いくつかの場所で寝たけどどれもうまくいかない、ぎりぎり風邪をひいてなくてよかった。

テレビの録画で見た昔、井上ひさしが子供達に対して話す番組がよかった。言葉と友達になろう、というタイトルだった。言葉に可能性はあるはずだが、それを感じるのはどういう場面か人によって違うと思うが、その一つは僕は形とかかな、組み合わせとかも含めての。また文字を書くことのラインにも凄い可能性があると思っている。たとえば文字を読むだけで身体が変容させられてしまう感覚。しかし演劇とかを見ていて、言葉に向かう演劇は少ないのだろうか、ドラマに向かっているように思う。ドラマは人と人とのやりとりだけど、なんか個人のその前の人と形とのやりとりの部分とかもあるような気がする。

今日はストリートで足を止めた3人のOLの人たちに話したときにそこでやられるダンスについて話すと、関心を持って聞いてくれているようだった。まぁそれは説明みたいなこと?でもたぶんそれだけじゃない。初めて会った人が身振りを交わしながら話すことや、自転車をこいでいると前からスマホを見てこっちを見てなかった人にあぶないーと声をかけること、声を出し、かける、他人だけど頼ろうと出来る時はする。上の階の人の音に関しては言えなかったわけだけど。

大木さんの映像を展覧会で見た時に映像に関して、だけじゃなくて見えてる聞こえてる世界に関して話したくなったけど、あんまりそういう感想を見ない、まったく何をみんな見てるんだろう、と状況にちょっとイライラ。絵とかについてやっぱ話すの?

小学校四年の時の班で回されていた日記が出てきて。僕の文章はひどかった。ユーモアはあった。文章や伝えるとはどういうことか、へのアイディアがあった。誠実とはまた別の。でもそれを読んで随分それでも遠くまで来たじゃないかと思った。つまり今本を読んだらテキストや言葉を面白がっているし、論文は書かなくても長い文章への期待がある。片付けで色んなノートが出てくるけど、本当に勉強をほんのりしかやってなかったとわかる。でもそれは完全な拒否とかではなく、いくらかやっていて、それでバカみたいな感じ。他に熱心というか楽しいことがあるんだろうな、という。

連日、赤ちゃんに会っていてかわいかった。向こうからハイハイでやってくる、食べたら噛んだり握ったり、なんでもする。アクションの選び方が自由なインプロみたいだ。それはつまり子供だけに切り離されたことなんかじゃない、紛れもないそれ以降の人の生にも繋がる。

自分の場合は元気と想像力はセットで向上するはずなので、そこに持っていくとどういうことが出来るかな。

これは公開だけどなんかすぐにわかって着地に向かう文体なんかにはしたくない。してはいけない、本当は。伝えるな。文字を書け、読め、全ての人に対して。それくらいの可能性を基本的に持たなければ。文字は面白くなっていかない。赤ちゃんはすべてをそのままでやる。それに合うと嬉しい。ずっとママみたいに付き合っていたら疲れるとかもあるかもしれないけど。

明日は元気に起きられるとい

伝わる止め、だと日本語を考え切れないのでは、と思う。ギリギリを攻めたりもしないと一語や一単語の性質が見えてこない可能性がある、そういうことを考えれるようになったのはいくつかの作家や数人の友人のおかげでもある、


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