2025年8月20日水曜日

秋寝田新

歩きながら興奮していることに気付いて、その興奮を使って色々考えれていなかったことを猛スピードで取り戻そうとエネルギーを使ってると気付いた。それは秋田での明日から数日での企画などのことで、もっと前から準備して少しずつエネルギーを使って合わせるように上がっていければ良かったのかもしれない。そうじゃないとやっぱりその興奮がずっと1日のてっぺんまで変に作用しちゃってそれで眠れなくなっちゃうんだとも気付いた。腎臓の本を読みながらまさかそのことにも触れられるとは思ってなかったから、確かに繋がっていないわけがない。
母の入院があってから人にリハビリをすすめる立場としては自分でも言われたことをしないと公平じゃないと腎臓の本をついに読み始めた。もちろんつまらないわけがない、時間を作っていなかっただけだ。この時間が出発になって食事のことや身体の別の部分にまで伸びていくといいな。身体のことを勉強したいのは、自分の身体への理解もあるが、それよりはやはりその高齢の親なり他の高齢の方なりに身体で対応してみたいというのがあるからだ、今は感覚的な部分も多く、それだと信用にかけるとも思うのだ。
変な話だが以前、銀杏boyzのライブというのはきっとライブハウスの中でのエネルギーを交換し合うような、そういうパンクに強い関心があった。生命にも向かうようなエネルギー。それは舞台でもそうだ。
しかし時が経って今僕が考えてしまうのはダンスにせよ歌とか音とかにせよ、人に向けて投げかけれることでそうすると投げかけられた方は何かしらを感じとらざるをえない、ということで、ケンカにも言えるが吹っ掛けるとイラっとするにせよエネルギーの交換がある、逆に言うとそこで初めて自分のエネルギーに気付いたり、いい関係ではないにせよ、エネルギーが持ち直すみたいなことがある気がしていて、この可能性に掛けたいという気持ちが強くなっている。
だから1人になっている人とかに何か投げかけるようなことを、どうしたらエネルギーのある人がしていけるか、そしてまた活発に人間同士がコミュニケーションを交わし合えるか、これは昔見ていた青春映画と一緒だね、と半分ジョークで言うと新潟でパクくんが本当にそうだ、と強く言われて僕はむしろ慌ててしまった。腹がまだくくれていなかったんだと思う。
新潟から入るこの旅のおともに俳句の句集の他に腎臓の本や読みきってなかった猪瀬さんの戦争の本、そしてプレーンソングと谷川さんの十八歳。日本語のヒントを探して連れてきた。新潟から秋田に向かう、にかほにピッタリの本だったと思う。1950年と書かれたページと僕の小さい頃の90年代の新潟の日本海の景色は少しその間を狭めるように思う。なぜだろう、東京よりは田舎の方が過去に近付く。ひょっとして異世界をすでに感じ始める。そういう感覚があるのかもしれないよ、同じ時代を生きてそうで場所によっては時間の感覚などが違うというラインが走っている可能性さえ。そのことはどう書くのがいいかわからないことだから、きっと感覚的にある人にはあるとかそういうレベルで、、、それは書いてみて思ったことだ。書くというのはすごいなぁ、どこに行くんだ。

こないだ寝れない時に、なぜ普段のイライラした人の悪口を回復のために口走りながら、その横ではそれがうるさくて眠れない人がいることを想像するのをやめてしまう。だから、あんまりひどく長かったら言いにいこうと思いつつ、それでもすでに我慢できなくて布団の上からヒーヒー言っていたのは聞こえていたのかわからないけど。相手が大丈夫と思い、悪口を続ける。案の定、そのいなくなった後も結局僕は眠れないわけなんだけども。なるべく人の悪口は聞きたくないとしたら松井選手は本当に本当にすごい。

最近は何をみてもほとんどいい名前やタイトルを日本語で見つけない、と思うことのが多い。時代もあるんだろうか。英語の世界はどうだろう?とか思いながら。それでもこの言語の歴史が最近はめちゃ尊いので、一周回ってそう見えるだけで信じて付けよう、という気持ちでもある。

2025年8月13日水曜日

 ここ数日は休みのような日が続いた。今年はなんだかんだでそういう日が結構ある、作ったというか、作れたというか。来年はどうなるかわからないけども。

久しぶりに小さな怪我をしてしまったので今週ストリートしたかったけど中止にしよう。色んな人が来るようになって最近、場所みたいな感じもあったのだけどすいません。

なんというか現実的なアイディアと空想的なアイディアの両輪があってエネルギーにそれらがなったりしていたんだけど、歳を重ねるごとにどんどん現実的なアイディアの方に寄ってしまってまぁまぁしか面白くない、と思ってる。社会的にまぁわかるアイディア、対応しているところもあるアイディアという感じだ。そうじゃなくてそれどうやるの?とか、もっと社会的とかではない魔法のような世界の空想を思い浮かべていたあれらはどこへ行ったのか。それらはなくなってはいなくてかすかに思い出される時がやってくる。そのための繊細な準備というのもあると思う。もう少しそういうやつもだ。それはなんのためにだろう?生きていてどこかに行けるかもしれないって思うのは、ここを生きることだけでなく生きていて何かそういうことに出会って生まれたことだから、きっと大切にしたいんじゃないか。


映画のスーパーマンを観に行く。そうか、スーパーマンは飛びながらキスができるんだと思った。スーパーマンが空高く飛んでいって宇宙に近づいてからあり返して地面に向かって惑星のように落下していく、といのがただ単に上昇と落下の景色が広がってほんとに美しいと思った。空を飛ぶこと。

2025年8月2日土曜日

時間がすすみ

昨日、今日と肉体労働を久しぶりに入れた。本当に気休めみたいに登録して果たしてどうだろう?と思うのだけど、他とは違う居心地がある。誰も自分を知らない中で働く。

窓の向こうが強い風や雨の打つ音が聞こえる。でも窓を開けておく。なんだか半分外で寝てるみたいだ。そういえばバンコクで篠田さんの家にレジデンスした時のことを思い出した。コロナによって状況が変わったというのを自分のキャリアを思い出しても考えるかど、そういうことも想像せざるをえない。

生徒さんから教えてもらって改めて海の上のピアニストの映画を見直した。15年以上前に見ていた。全然覚えてなかったなー。そしてとても色んなことを積極的に試している映画だとも思った。

それからニューシネマパラダイスのことをそこから思い出した。考えてみればどんな事があってもそれは映画の途中なんだ、と以前から思っていた、だからいつも風が吹き抜ける只中を生きていたのを思い出した。人生が終わりだなんて、なんてことを思ったのだろう。また煌めくような気持ちもきっとその風にポイントを与えるね、

今日は本当に馬鹿みたいにSNSに流れてくるバカバカしい映像をたくさん見た。2時間とかもゴミみたいに過ごしたんだwそれにしてもSNSはキラキラはキラキラでも現実的な良さや限りを伝えてくる、けど、現実を生きるのは生き残るためにとても大事だけど、その外側にもっと違うところを生きることの、あの、最高の見晴らし、素晴らしいところの、風景のことを思い出そうっと。

なんかパイナップル、みたいにジューシーな、我々がいてラッキー、

色んな時間が進んでいく