ところでここ最近、昭和の彼らのした仕事が気になった。結局のところ、現在から見えるのは過去と未来しかない、ここから遠いところを見ようとするとその2つしかないのでは、なんてことを思った。だから過去を見つめようとしたり、未来に眺めようとする姿勢は自ずとまるで遠い宇宙とキャッチボールするような感覚を得れるのでは。
たとえば過去の小説なんかを読んでいると、おそらく文字に書かれていない部分も経験から来る想像力が補おうとするのでは?この路地はきっとこういうふうに寂れていて、とか。それはなんというか人間の能力なのでは。何かそこに美しさを築こうとしちゃうとか、だからきっと本を読むことは文字を読むことに終始せず、きっと人間の本来的な何かも動員する、それは他の芸術とかにも言えることかもしれないね、文化とか。そういうことを小学校の横をある日、散歩しながら考えていた。
村上龍と坂本龍一の対談を見ようとYouTubeを探すと出てきて、その時にCMも切らずに一緒にアップされていた。これが泣けてくる。小さかった自分はこれらを小学生?の時にあのリビングルームで見ていたはず。たとえばもしかしたらその日はモフモフの毛布に包まって見ていたかもしれない。それはただのcmで、今見ているのはパソコンのモニターなのだけど、あの日、あのリビングに置かれていたテレビのような気がして、そこから部屋全体やその時に過ごしていた時代の雰囲気だとかも一緒に想像されてぐっと広がってしまう。もう私はそこにはいない。今になってそこが大事な場所だったと思う。楽しかったことは小さい頃の記憶に自分の場合は詰まっているかもしれない。思春期より手前かもしれない。自分で世界を作っていく前の段階。
小さい子が見ている世界はもしかしたら可能性がずっと溢れてそうだ、って思う。
でも一方でそれは大人にだって諦めていけない。そここそが重要で難しい。
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