2015年9月18日金曜日

clearest blue

chvrchesのアルバムの中に"clearest blue"というタイトルを発見。発見!って感じだ。 あまりにも瞬間がはかないことに矛盾して、情報量は増えていくのに身動きはとりづらく、そのこの現状に対して多くの複雑な重層的な感情や反応を実は示しているぼくたちわたしたち。と言ったところ。 そしてこれさえ記述する術や技術を習得する間もなく時間は流れていく。 それにあらがい手に入れたいのは、”間”で”スペース”だ。 もっと”間””スペース”にいることを感じて生きることがしたい、これがコンセプトかのように最近は出てくるワードだ。 ディビットフィンチャーのドラマは、ドラマになってより重層的に複雑になっていく、どこにディビットは力を置くの?と思い見ていくことになる、普通のドラマなんかこえてほしい、と。僕らが生きる中で本当に選んでいってるものは、全然ドラマなんかと違ってもっと政治的な選択をしていることに気付く。だからこれを見ていて、これはドラマではなく、建築だとも思った。重層的で複雑な構造を描くことがドラマを越えて、存在している現代の選択肢をまるで映していくみたいだ。(最後は筆に任せて書いてしまった、言葉への集中力を切らした。) スペースの話に戻れば、これからの戦いはやっぱり長引くような気がする。いわゆるちょっと前の時代に光ってた光なんてなくて、ちがう色をした光になってると思う。しかし、でもそれも悪くない、そしてそれはある意味”代案”である。用意するのは大変だがもし描けるならばこれほど楽しいことはないかもしれない、未来という未知を描くのあれば、、、それには体力や集中力がいる。と思っている。体力や集中力ってすばらしい。そこには種も仕掛けもない。

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